第4話 海は悪意で濁ったわけではない
第4話です。
第3話では、澪たちは海洋ヘックスの廃港へ入り、最初の選択として魚倉の救助を行いました。
しかし、魚倉の人々を助けても、港の危機は終わりません。
排水門は壊れ、灯台は孤立し、漁業国家と工業都市の兵士たちは衝突寸前。
そして海の底では、深海虚獣アビス・リヴァイアが目覚めようとしています。
今回、澪たちは排水門へ向かいます。
そこで知ることになるのは、海が濁った理由が、誰か一人の悪意ではなかったという現実です。
魚倉の屋根から降りた瞬間、澪の膝は笑った。
足場の悪い屋根の上でロープを引き、人を助け、黒い霧に包まれた倉庫から避難民を逃がす。
それだけのことをしただけで、身体はもう限界に近かった。
戦っていたのはアオイたちだ。
剣を振るったのも、魔法を使ったのも、精霊を呼んだのも、澪ではない。
それなのに、手のひらはロープで赤くなり、腕は震え、喉は張り付くように乾いている。
「……戦闘適性最低、ほんと正しい」
澪は自嘲気味に呟いた。
アオイが心配そうに振り向く。
「ミオさん、休みますか?」
「休みたい」
澪は即答した。
「ものすごく休みたい。でも、休むと排水門と灯台が危ない」
「では、少し歩く速度を落とします」
「ありがとう。そういう優しさ、今すごく沁みる」
アオイは小さく笑った。
彼女自身も、決して楽な状態ではない。
魚倉の中で虚無小体を受け止め続けた腕には、まだ薄い黒い痣が残っている。
フィリアの精霊が癒やしてはいるが、完全に消えたわけではなかった。
ゲームなら、HPバーが戻れば戦闘続行だ。
だが現実の傷は、数値だけではない。
痛みが残る。
疲労が残る。
恐怖も残る。
澪はそれを忘れないように、わざとアオイの腕を見る。
アオイをキャラクターとしてではなく、一人の少女として見るために。
「排水門までは?」
澪が石板に問いかけると、ライカの声が返ってきた。
「魚倉から東に抜けて、古い水路沿いに行けば近い! でも正面は兵士がいる。漁業国家と工業都市、どっちもピリピリしてるよ!」
「衝突は?」
「まだ。けど、誰かが一発殴ったら始まる感じ!」
「最悪の状態ね」
澪は息を吐いた。
セラフィナの声も通信に乗る。
「灯台方面の虚無小体は、遠隔光剣で牽制を続けています。ですが、出力は落ちています。維持限界まで、残り二分ほど」
「二分……」
「完全な討伐は不可能です。足止めが限界です」
「十分。無理しないで」
「無理をしなければ、灯台は落ちます」
その声は冷静だった。
だが、その冷静さの奥に焦りがあることを、澪はもう少しだけわかるようになっていた。
セラフィナは秩序の少女だ。
守るべき場所があるのに、自分が前線に出られない。
そのことが、彼女には相当なストレスになっているはずだった。
「セラフィナ」
澪は言った。
「灯台を守りきることだけを考えなくていい。港長が生きていて、話し合いの場に戻れるなら、それで十分。建物を守ることと、未来を守ることは違う」
少しだけ沈黙があった。
「……理解しました」
セラフィナは答えた。
「守る対象を、灯台から港長の生存へ切り替えます」
「お願い」
通信が切れる。
澪たちは魚倉の裏手から、古い水路沿いの道へ入った。
廃港の東側には、工業都市へつながる排水路が走っている。
澪は、その地形を知っていた。
開発資料では、《東排水区画》と呼ばれていた場所だ。
工業都市から出る排水を、一度この区画に集め、浄化槽を通してから海へ戻す。
古代文明の水路を転用した施設で、初期イベントでは「工業都市の汚染」を象徴するマップとして作られていた。
プレイヤーが初めて「人間の文明が自然を壊している」と気づく場所。
その予定だった。
だが実際に歩いてみると、澪の知っている単純な汚染マップとは違っていた。
排水路の側面には、何度も修理した跡があった。
古い石材の上から鉄板を当て、さらにその上に木材で補強している。
錆びた弁には、手書きの印がいくつも付いていた。
止水。
減圧。
緊急迂回。
浄化槽二番へ。
旧水路使用禁止。
雑な文字だ。
だが、そこには確かに、誰かが必死に管理しようとした痕跡があった。
「……これ、放置されてたわけじゃない」
澪は思わず言った。
ルシェリアが頷く。
「ええ。粗いですが、何度も手を入れています。少なくとも、壊そうとして使っていた施設ではありません」
フィリアは水路の縁にしゃがみ込んだ。
黒く濁った水が、ゆっくりと流れている。
いや、流れているというより、押し出されている。
「水が苦しそうです」
フィリアの精霊が、水面の上で震えた。
「毒だけではありません。動けないんです。流れたいのに、どこかで詰まっているみたい」
「詰まっている……」
澪は水路の構造を思い出す。
本来、この排水区画には三つのルートがある。
第一浄化槽。
第二浄化槽。
旧海底循環路。
通常は第一浄化槽を通り、負荷が高い時だけ第二浄化槽へ流す。
旧海底循環路は古代装置と接続しているが、ゲーム開始時点では封鎖されている。
もし海底循環装置が異常起動しているなら、排水の一部が旧海底循環路へ逆流している可能性がある。
「ミルカ」
澪は石板を起動した。
「排水区画の構造、見えてる?」
「見えてるよ。見えてるけど、これひどいね」
ミルカの声は、いつもより少し低かった。
「排水門そのものが壊れたっていうより、複数の弁が同時に詰まってる。第一浄化槽は過負荷。第二浄化槽は半分沈黙。旧海底循環路は……これ、勝手に開きかけてる」
「虚無に引っ張られてる?」
「たぶん。海底側から負圧が来てる。深いところで何かが吸ってる感じ」
吸っている。
澪は無意識に海の方を見た。
アビス・リヴァイア。
まだ姿は見えない。
けれど、海の底で巨大なものが呼吸を始めようとしている。
いや、違う。
呼吸ではない。
息をしようとして、できずにもがいている。
「まず排水門へ」
澪は言った。
「完全に閉じるんじゃない。流れを分散させる。第一浄化槽の負荷を下げて、第二浄化槽を一部復旧。旧海底循環路への逆流を止める」
「言うのは簡単だけどね」
ミルカが苦笑する。
「現地で手動弁を三つ動かす必要がある。しかも順番を間違えると、排水圧で水路が破裂する」
「順番は?」
「今送る。けど、一人じゃ無理。最低二人、できれば三人必要」
澪は前線組を見る。
アオイ。
ルシェリア。
フィリア。
三人いる。
だが、全員を弁操作に使えば、虚無小体が出た時に守りが薄くなる。
「……本当に、毎回三人ギリギリで組ませてくる」
澪は呟いた。
自分で作った制限なのに、今はその重さに胃が痛い。
その時、水路の先から怒鳴り声が聞こえた。
「だから閉じるなと言っているだろう!」
「開けたままにすれば海が死ぬ!」
「閉じれば都市側の工場が逆流で爆発するんだ!」
角を曲がると、排水門の前に人だかりができていた。
片側には、青い腕章をつけた漁業国家の兵士たち。
もう片側には、灰色の作業服を着た工業都市の技術者と護衛兵。
その中央で、巨大な排水門が黒い水を吐き出している。
水門は半開きの状態で固まっていた。
閉じきらない。
開ききらない。
黒い水が泡立ちながら海へ流れ込み、その周囲に黒霧が生まれている。
漁業国家の兵士が槍を構える。
「この門を閉じろ! 海をこれ以上汚すな!」
工業都市の技術者が叫び返す。
「閉じたら内圧で上流区画が吹き飛ぶ! 工場区だけじゃない、居住区にも逆流するんだ!」
「そんなものはそちらの都合だ!」
「海だけが命じゃない!」
「海を殺せば、お前たちの命も終わる!」
二つの声がぶつかり、黒霧が濃くなる。
澪は直感した。
まずい。
ここで誰かが手を出せば、虚無小体が出る。
それだけではない。
人間同士の戦闘が始まれば、海洋異変の対立値が一気に上がる。
ゲームでいうなら、二国間信頼値が崩壊する。
そして、後の調停ルートが閉じる。
「止めないと」
澪が前に出ようとした瞬間、アオイがさりげなく半歩前に立った。
「ミオさん、私の後ろに」
「ありがとう。でも、話すのは私がやる」
「危なくなったら、すぐ下がってください」
「うん」
澪は深呼吸した。
足が震えている。
武器を持った兵士たち。
怒りに満ちた技術者たち。
黒い水。
黒い霧。
ゲームなら、ここで選択肢が出る。
漁業国家を説得する。
工業都市を説得する。
力ずくで排水門を閉じる。
両者を無視して虚無を討伐する。
しかし、今は選択肢などない。
澪は声を張った。
「その門を、今すぐ完全に閉じてはいけません!」
全員の視線が、彼女へ向いた。
漁業国家の兵士が怒鳴る。
「誰だ、お前は!」
工業都市の護衛兵も剣に手をかける。
「調律核……? 古代遺跡の者か?」
澪は胸元の光を隠さずに進んだ。
「神代澪。主調律者です。この排水門を止めに来ました」
「止めに来たなら閉じろ!」
漁業国家の兵士が叫ぶ。
「違います。閉じるだけでは危険です。門を完全閉鎖すれば、上流区画へ逆流して工業都市側で爆発か汚水噴出が起きます。そうなれば、汚染は別ルートからさらに広がる」
工業都市の技術者が目を見開いた。
「あんた、なぜそれを……」
「でも開けたままなら海が死にます」
澪は続けた。
「だから、閉じるか開けるかではなく、流れを分けます。第一浄化槽の負荷を下げ、第二浄化槽を復旧させ、旧海底循環路への逆流を止める」
技術者の顔色が変わった。
「そんなこと、構造を知らなければ言えない……」
「できますか?」
澪が問うと、技術者は歯を食いしばった。
「理屈の上ではできる。だが三つの弁を同時に動かす必要がある。しかも古い弁だ。途中で詰まれば全員吹き飛ぶ」
漁業国家の兵士が鼻で笑った。
「ほら見ろ。結局できないのだろう」
技術者が睨む。
「お前たちが水門に槍を突っ込んで歪ませなければ、まだ動いた!」
「先に海を殺したのはそちらだ!」
「殺したくて流したわけじゃない!」
また声が荒くなる。
黒霧が水路の端に溜まり始めた。
フィリアが小さく震える。
「ミオさん……霧が」
「わかってる」
澪は叫んだ。
「今、責任を決めても水は止まりません!」
一瞬、場が静まる。
澪は続けた。
「誰が悪いかを決めるのは後です。今は、これ以上悪くしないことを先にしてください」
漁業国家の兵士が唇を噛む。
「後にした結果、いつも逃げられてきた」
その声には、怒りだけではなく、疲れがあった。
「排水を減らすと言われた。浄化槽を増やすと言われた。海は回復すると言われた。だが魚は減り続けた。子どもたちは漁に出られず、港は痩せた。何度も待った。その結果がこれだ」
工業都市の技術者も、顔を歪めた。
「こっちだって限界だった。工場を止めれば、都市の食料加工も医療器具の生産も止まる。内陸からの輸送が途切れて、燃料も足りない。古い浄化槽をだましだまし使って、何度も修理して、それでも追いつかなかった」
「なら、なぜ言わなかった!」
「言った! だが会議は止まった! 補償額で揉め、責任者で揉め、どの国の規格を使うかで揉めた!」
「その間に海は死んだ!」
「だから俺たちだけのせいじゃないと言っている!」
怒りがまた膨らむ。
澪は、そこでようやく理解した。
海は悪意で濁ったわけではない。
もちろん、責任がないわけではない。
工業都市は海へ負荷をかけた。
漁業国家も、魚が減る中で無理な漁を続けた。
港の管理者は、危機が目に見えるまで先送りした。
政治家たちは責任を押しつけ合い、技術者たちは現場で応急処置を重ね、住民たちは生活を守るために相手を責めた。
一つひとつは、生きるための選択だったのかもしれない。
だが、それが積み重なって海を追い詰めた。
誰か一人の悪ではない。
だからこそ、難しい。
「……ミオ」
ルシェリアが小さく言った。
「これが、あなたの言っていた文明の歪みですか」
「うん」
澪は頷いた。
「たぶん、これが一番厄介なやつ」
ゲームでなら、悪い敵を出せばわかりやすい。
汚染企業。
腐敗貴族。
狂った魔術師。
海を呪う魔物。
それなら倒せば済む。
けれど現実に近い問題は、そうではない。
全員に少しずつ事情がある。
全員に少しずつ責任がある。
全員が少しずつ、自分の正しさを持っている。
その結果、誰も止められなくなる。
フィリアが水路に手をかざした。
精霊が黒い水の上を飛ぶ。
「海は、誰かを恨んでいるわけではありません」
その言葉に、兵士たちも技術者たちも黙った。
「ただ、苦しいんです。動けなくて、息ができなくて、溜まり続けて、腐っていく。それだけです」
「それだけ、か」
漁業国家の兵士が低く言う。
「我々には、それがすべてだ」
フィリアは怯えながらも、目を逸らさなかった。
「はい。だから止めたいです。でも、怒りだけで門を閉じれば、別の場所でまた苦しみが生まれます」
ルシェリアが続けた。
「調和とは、何もなかったことにすることではありません。痛みを隠すことでもありません。互いの恐れを見た上で、壊れない形へ組み直すことです」
アオイが盾を下ろし、前へ出た。
「今、三つの弁を動かす必要があるんですよね」
工業都市の技術者が頷く。
「ああ。主排水弁、第二浄化槽の導入弁、旧海底循環路の遮断弁。だが全部重い。しかも手順を間違えると終わる」
「なら、私が主排水弁を押さえます」
「無茶だ。水圧がかかっている。身体ごと持っていかれるぞ」
「耐えるのは得意です」
アオイは静かに言った。
澪は反射的に止めかけた。
だが、アオイの表情を見て口を閉じる。
これは無謀ではない。
役割を理解した上での判断だ。
澪はミルカに通信をつないだ。
「ミルカ、手順を送って」
「もう送ってる。主排水弁を少し閉めて圧を上げすぎないようにしながら、第二浄化槽へ流す。旧海底循環路は最後に閉じるんじゃなくて、先に半分だけ絞る。完全に閉じると逆に吸い込みが強くなる」
「半分だけ?」
「そう。完全に切るんじゃなくて、流れを弱めて、こっちの制御に戻す。水も構造も、急に止めると壊れる」
澪はその言葉を繰り返した。
「急に止めると壊れる……」
それは、文明にも言えることだった。
工業都市をいきなり止めれば、人々の生活が壊れる。
漁業をいきなり禁じれば、漁師たちが飢える。
怒りを無視すれば、争いになる。
痛みを隠せば、虚無が濃くなる。
必要なのは、止めることではない。
流れを変えること。
「やろう」
澪は言った。
「ただし、双方から人を出してください」
漁業国家の兵士が眉をひそめる。
「なぜ我々が」
「この門を調整した後、誰か片方だけが操作したと言えば、また疑われます。両方の目で見て、両方の手で動かしてください」
工業都市の技術者が息を呑む。
「共同操作の記録を残すのか」
「はい。後で責任を押しつけ合わないために」
漁業国家の兵士は、しばらく黙っていた。
やがて槍を下ろす。
「……ガルドだ」
「え?」
「漁業国家沿岸守備隊、ガルド。主排水弁の補助に入る」
それを聞いて、工業都市の技術者も苦々しい顔で名乗った。
「トマ。工業都市排水区画の技術士だ。第二浄化槽の導入弁は俺がやる」
澪は頷いた。
「神代澪。主調律者です」
三人は一瞬だけ互いを見た。
まだ信頼ではない。
だが、完全な敵対でもない。
ほんの少しだけ、場の空気が変わった。
その時、水路の底から黒い泡が噴き上がった。
「来ます!」
フィリアが叫ぶ。
黒い泡が集まり、虚無小体が姿を取る。
魚の骨のような胴体に、人間の腕のようなものが生えている。
水路から這い上がり、排水門の弁へ向かってきた。
「弁を守って!」
澪が叫ぶ。
アオイが前に出る。
「私が止めます!」
虚無小体が飛びかかる。
アオイは盾で受け止め、踏みとどまった。
だが足元が濡れていて滑る。
「アオイ!」
澪が叫ぶより早く、フィリアの精霊が足元に草のような光を生やした。
滑り止め。
自然操作の応用。
アオイの足が固定される。
「助かります!」
「無理しないでください!」
ルシェリアが手を広げる。
「ここでは炎も雷も使えませんね。水蒸気爆発を起こしかねません」
「風と氷で牽制!」
澪が言うと、ルシェリアは微かに笑った。
「同じ判断です」
彼女の魔法が、水路上の霧を切る。
大規模殲滅ではない。
弁や人を傷つけない、精密な制圧。
セラフィナの声が通信から響く。
「灯台への光剣を二本まで減らします。一本をそちらへ投射可能です」
「攻撃じゃなく防衛に使って!」
「承知」
白い光の剣が空から降り、排水門の上に浮かぶ。
攻撃ではなく、弁に近づく虚無小体を弾くための防衛剣。
セラフィナ本人が前線にいないため、光は薄い。
だが十分だった。
ミルカの声が続く。
「手順開始! アオイ、主排水弁を右へ三分の一! それ以上閉めないで!」
「はい!」
アオイが巨大な弁に手をかける。
ガルドも加わった。
「嬢ちゃん一人にやらせるかよ!」
二人で弁を回す。
重い金属音が響く。
黒い水の流れが、一瞬だけ強まった。
「止めすぎるな!」
トマが叫ぶ。
「わかっています!」
アオイは歯を食いしばる。
澪は胸元の調律核を通じて、流れを見る。
主排水弁。
第二浄化槽。
旧海底循環路。
三つの流れが絡み合っている。
「トマ、第二浄化槽!」
「やってる!」
トマが別の弁へ走り、工業都市の護衛兵二人と一緒に回す。
錆びた弁はなかなか動かない。
「くそっ、固い!」
「ルシェリア、凍らせないで。金属が割れる」
「では、温度差を抑えて風で錆を飛ばします」
ルシェリアの魔法が弁の周囲を撫でる。
錆が薄く削られ、弁が少しずつ動き出す。
「動いた!」
黒い水の一部が、別の水路へ流れ始めた。
壁の古代文字が淡く光る。
第二浄化槽が、半分だけ息を吹き返す。
フィリアが目を閉じた。
「水の痛みが、少しだけ分かれました。まだ苦しいです。でも、一か所に押し込められてはいません」
「次、旧海底循環路!」
ミルカが叫ぶ。
「完全閉鎖しちゃダメ! 半分だけ絞って! 黒い吸い込みに逆らうんじゃなくて、流れを横へ逃がす!」
「誰が行く?」
澪が見回す。
旧海底循環路の遮断弁は、水路の向こう側にあった。
黒霧が濃い。
虚無小体もそちらから湧いている。
アオイは主排水弁を押さえている。
フィリアは水の流れを支えている。
ルシェリアは複数の弁と虚無を同時に見ている。
これ以上、前線三人に無理をさせるのは危険だった。
その時、ガルドが槍を置いた。
「俺が行く」
トマが睨む。
「操作手順を知らないだろ」
「なら、お前も来い」
「は?」
「お前が手順を言え。俺が回す」
「敵同士で?」
ガルドは吐き捨てるように言った。
「今だけ港の人間だと言ったのは、そこの主調律者だろ」
澪は目を見開いた。
トマは一瞬固まり、それから舌打ちした。
「足を引っ張るなよ、漁師」
「そっちこそ、工場の手で海を壊すなよ」
二人はまだ刺々しい。
けれど同じ方向へ走り出した。
虚無小体が二人へ飛びかかる。
「アオイ、動ける?」
「主弁から手を離せません!」
「ルシェリア!」
「見えています」
ルシェリアの風刃が虚無小体を弾く。
だが一体、抜けた。
フィリアの精霊が飛ぶ。
反射の膜がガルドの前に生まれ、虚無の爪を弾き返す。
「精霊……!」
ガルドが驚く。
「止まらないで!」
フィリアが叫んだ。
ガルドとトマが旧海底循環路の弁へ到達する。
「右へ少し! いや、違う、それは閉じすぎだ!」
「だったらこっちへ来て押さえろ!」
「今やってる!」
二人が罵り合いながら、弁を動かす。
少し。
少しだけ。
黒い吸い込みが弱まる。
水路全体の音が変わった。
今まで無理やり押し込まれていた流れが、複数の道へ分かれていく。
第一浄化槽。
第二浄化槽。
旧海底循環路の制御流。
完全ではない。
だが、詰まりきっていたものが、少しだけ動き始めた。
澪の胸元の調律核が強く光る。
《排水門:応急調律成功》
《海洋汚染進行:低下》
《工業都市逆流危険:回避》
《漁業国家不信値:微減》
《工業都市孤立値:微減》
《共同操作記録:成立》
「成立……」
澪は小さく呟いた。
勝ったわけではない。
水はまだ黒い。
浄化槽も半分しか動いていない。
海はまだ苦しい。
けれど、最悪の一歩手前で流れを変えた。
その瞬間、水路から湧いていた虚無小体が、形を保てなくなって崩れた。
黒い霧が薄くなり、潮風に混ざって消えていく。
アオイが弁から手を離し、膝をついた。
「アオイ!」
澪が駆け寄る。
アオイは苦笑した。
「大丈夫です」
「大丈夫禁止」
「では、少し疲れました」
「それもかなり控えめに言ってるよね」
フィリアが精霊を呼び、アオイの腕を包む。
青い痣が少しずつ薄れていく。
ガルドとトマも戻ってきた。
二人ともずぶ濡れで、息を切らしている。
「……海、少しはマシになったのか」
ガルドが言う。
フィリアは水路に手をかざした。
「少しだけ。でも、まだ苦しいです」
トマは歯を食いしばった。
「第二浄化槽が半分動いたなら、完全復旧できる可能性はある。部品と人手があれば」
「人手なら、漁師も使え」
ガルドが言った。
トマが驚いたように見る。
「いいのか」
「海を戻すためだ。お前らだけに任せて、また壊されたら困る」
「言い方」
「本音だ」
二人はまた睨み合った。
だが、さっきとは違う。
そこには、同じ弁を回した者同士の、奇妙な距離の近さがあった。
澪は少しだけ息をつく。
「これで、排水門は一時的に持つ。次は灯台……」
その時だった。
通信石板から、セラフィナの声が鋭く響いた。
「ミオ、灯台の防衛限界です。虚無小体が内部へ侵入しました」
澪の血の気が引く。
「港長は?」
「生存反応あり。ただし、移動できません。灯台上層に孤立しています」
ライカの声も飛び込んできた。
「中央桟橋で兵士たちが動き始めた! 排水門が落ち着いたのを見て、今度は責任者を捕まえようとしてる! 漁業国家も工業都市も、武器を持ってる!」
「最悪……」
澪は思わず額を押さえた。
排水門は応急調律できた。
だが、それで怒りが消えたわけではない。
むしろ、次の争点へ向かって人々が動き始めている。
責任者。
港長。
調停役。
灯台にいるその人物を、どちらかが先に押さえれば、交渉は力のある側に傾く。
下手をすれば、港長を巡って戦闘になる。
その時、海が鳴った。
低い音だった。
地鳴りにも似ている。
獣の唸りにも似ている。
だが、それは海の底から響いていた。
水路の黒い水が、一瞬だけ逆流する。
フィリアが青ざめた。
「深いところで、何かが動きました」
澪は海の方を見た。
遠くの沖合。
灰色の海面が、ゆっくりと盛り上がっている。
まだ姿はない。
だが、その下にいる。
深海虚獣アビス・リヴァイア。
海が受け止めきれなかった痛みの形。
「排水門だけじゃ足りない」
澪は呟いた。
「魚倉だけでも、灯台だけでも、排水門だけでもダメ。全部がつながってる」
ルシェリアが静かに頷いた。
「海は、ひとつの原因で濁ったわけではないのですね」
「うん」
澪は答えた。
「悪者を一人倒して終わる話じゃない」
フィリアの精霊が震える。
アオイが立ち上がる。
疲労は明らかだった。
それでも、彼女は盾を握る。
「次は灯台ですね」
澪はアオイを見た。
「休ませたい」
「私も休みたいです」
アオイは正直に言った。
「でも、今休んだら、後で後悔する気がします」
澪は奥歯を噛んだ。
無理をさせたくない。
でも、行かなければならない。
この矛盾が、主調律者という役割なのだと理解し始めていた。
「灯台へ向かう」
澪は決めた。
「でも、途中で中央桟橋の衝突を止める。港長を救うだけじゃなく、両軍がぶつかるのを防がないと意味がない」
ミルカの声が通信に乗る。
「こっちから灯台までの古い整備路を開けるかもしれない。時間は稼げる?」
「稼ぐ」
セラフィナが言った。
「私の光剣は、あと一本だけ維持できます。攻撃ではなく、港長の周囲に防壁として固定します」
ライカも叫ぶ。
「中央桟橋の兵士たち、こっちで迂回路を塞いで少し遅らせる! でも早く来て!」
澪は頷いた。
「行こう」
彼女たちは排水門を背に走り出した。
その後ろで、ガルドとトマが互いに顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく言った。
「手伝うぞ」
「まだ終わってないからな」
澪は振り返らなかった。
けれど、その声は確かに聞こえていた。
小さな共同作業。
小さな信頼。
海を一瞬で澄ませるほどの力はない。
それでも、虚無を少しだけ薄くするには十分な光だった。
だが、空はさらに暗くなる。
海の底から響く咆哮が、今度ははっきりと港全体を震わせた。
澪の調律核に、冷たい文字が浮かぶ。
《排水門応急調律:成功》
《灯台危機:進行中》
《中央桟橋衝突:発生寸前》
《アビス・リヴァイア活性化:第一段階》
《Another Route Seed:成長率 27%》
澪は走りながら、その最後の表示を睨んだ。
「成長、止まってない……」
海は少しだけ楽になったはずだ。
それなのに、アナザー・ルート・シードは成長している。
つまり、これは単なる海洋汚染への反応ではない。
澪の知らない何かが、海の深層で別のルートを開こうとしている。
その時、遥か沖合の海面が割れた。
黒い水柱が上がる。
その奥に、巨大な影が見えた。
まだ全身ではない。
ただ、鯨のように巨大な背と、竜のような鰭の輪郭だけ。
フィリアが息を呑む。
「泣いています」
澪は足を止めそうになった。
「誰が?」
フィリアは、震える声で答えた。
「海そのものが」
次の瞬間、港全体に警鐘が鳴り響いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第4話では、澪たちが東排水門へ向かい、海が濁った理由が単純な悪意ではなかったことを知る回になりました。
工業都市は海を汚した側です。
けれど、工業都市にも生活があり、食料加工や医療器具、都市機能を止められない事情がありました。
漁業国家は海を守ろうとする側です。
けれど、魚が減っても生活のために漁を続けざるを得ず、怒りと不信を積み重ねていました。
誰か一人の悪意ではなく、便利さ、恐れ、先送り、生活、防衛、不信。
それらが重なって、海は濁っていきました。
今回は、排水門を「閉じる」か「開ける」かではなく、流れを分けて負荷を減らすという形で調律しました。
この作品における調律は、単に敵を倒すことではありません。
止まった流れを見つけ、急に壊さず、少しずつ別の流れへつなぎ直すことです。
しかし、排水門を応急調律しても、港全体の危機はまだ続いています。
灯台、中央桟橋、二勢力の衝突、そしてアビス・リヴァイア。
次回は、いよいよ澪たちが「戦闘チュートリアル」と呼ぶには重すぎる現実に直面します。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




