(10)浪人時代の終わりと、昆虫採集
私は、都内にある大学へ通うことになった。
高校時代のアーバンライフへの憧れは麻疹のようなものであったらしく、この頃には私の脳みそからは消失していた。
一方、山屋は、二浪はしなかった。
かと言って、定職にも就かなかった。
ときどきアルバイトをしたりして収入を得てはいたようであるが、どういうバイトをやっているのか等、詳細なことはあまり話したがらなかった。今ならフリーターという言葉が当てはまるが、当時はそういう言葉が存在しなかった。
私も山屋も浪人生の境遇ではなくなり、お互い、立場は違っても自由時間が増えたため、また一緒に行動することが多くなった。以前のように、二人で少し遠い散策をしながら、いろいろなことを話したり、議論したりした。
「オレは高校受験で第一志望に落ち、大学受験も現役時代は全部不合格だったから、浪人時代は苦しかった。良い流れを取り戻すのは本当に大変なことだってつくづく実感したよ」
私は、そんなことを山屋につぶやいた。
「相撲でも、大関から陥落した力士はほとんどが大関に復帰できないし、政治家も、一度求心力を失うともう主導的立場には戻れない。サラリーマンだって、左遷されるとなかなか主流に戻れないからね。純ちゃんの話は、世の中一般に通用する真理だと思うよ」
「なるほど、そうかもしれない」
「立場が人をつくる、って言うけど、人は立場を与えられると、その立場を維持するために本人が努力するし、周りもその人の立場に敬意を示すから、自信とプライドに裏打ちされて良い流れができるんだろうね。逆に、立場を失うと、本人が自信もプライドも失って、周りもその人を負け組だという見方をするから、悪い流れができてしまう。一度悪い流れができてしまうと、それを回復させるのはものすごくエネルギーが要るから、流れを戻すのは大変なんだと思う」
山屋はときどき、こういう話をさりげなく語った。
世の中のことをよく理解していたし、私の悩みごとについても的確にアドバイスしてくれた。山屋なら、立場さえ与えられれば優れた参謀役になれるのではないか、と私は思うことがあった。
この当時、「路上観察」というものが流行っていた。
路上にあるユニークな建造物を見て楽しもうという主旨であり、路上観察学会という、作家や評論家、芸術家で組織された団体があり、その名を冠した本も出版されていた。
路上観察の中で特筆すべきは、「トマソン」という、用途や存在意義が分からない無用の建造物を芸術作品とみなし、それを求めて街中を探し歩くことが一種のレジャーとして認知されていた。私と山屋も、トマソン探しをしながら街中を歩き、途中までしかない階段や、空地にポツンと佇むドア、対岸が行き止まりになっている橋などを目撃しては、
「新発見だ」
と言って楽しんでいた。
ある夏の夜遅く、兄の貞重が運転する車に私と山屋も乗り込んで、クワガタ採りに出かけたことがある。
高速道路を使わずに国道二十号線を西へ向かって走り、大垂水峠を越えて神奈川県、山梨県へ入り、勝沼付近から国道を離れてさらに山道を進んだ。
自動販売機と街灯が目立って明るい広場のような場所があり、そこへ車を止め、私たち三人は車外へ出た。周辺には民家があるが、静かだった。
街灯に照らされてうっすらと浮かび上がって見える塀に近づき、目を凝らすと、側面に何やら黒っぽいものがとまっているのが見えた。大型のコクワガタのオスであった。
「あっ、コクワだ」
「ここにもいる」
「あっ、ノコのオスだ」
兄はノコギリクワガタのオスを見つけた。
「おい、周りにいっぱいいるぞ」
周りの薄暗い塀や建物の壁、柱等に、クワガタがたくさんとまっていた。カブトムシもいた。カナブンやガもたくさんいた。
これには三人とも驚いた。
クワガタは山中の森の木の樹液にたかっているものとばかり思っていたからである。実際には、樹液がない街灯の周辺、それも民家の壁にたくさんいた。
「アカアシのオスもいる」
アカアシクワガタのことである。
「ミヤマのメスがいた」
ミヤマクワガタのことである。ミヤマクワガタは、オスが立派な大あごをもっていて、大型のオスは兄の大のお気に入りだった。
「ミヤマはメスばっかりだ」
兄は、ミヤマクワガタがいるにはいるが、メスばかりで、目当てのオスが見つからないことに不満げであった。
それでも、クワガタが苦もなく次々に採れるという初めての経験に三人とも興奮し、しばらくは声を発しながら動き回っていた。
「あっ、ミヤマのオスだ」
兄はついにお目当てを見つけた。兄が指さした柱の上の方に、確かにそれらしいものがとまっていた。
「山屋、採ってくれ」
兄は背の高い山屋に捕獲を指示した。山屋は柱の下から背伸びして、目的のものを手で掴もうとした。
「おい、慎重にやれ」
山屋はやや不安定ながら、それを捕獲すると、兄に手渡した。確かに大型で立派なミヤマクワガタのオスであった。
「よーし。よくやった」
兄は上機嫌になった。
「立派なオスだ」
この日は結局、クワガタを合計四十匹以上、カブトムシは十匹ぐらい採った。これだけの数を一度に採集したのは初めての経験だった。
兄は家へ帰ってからも、捕獲した大型のミヤマクワガタのオスを手のひらに乗せ、嬉しそうにいつまでも眺めていた。いい歳して無邪気な兄を見て、私は笑いを禁じ得なかった。




