三通目 善意の簒奪者 2
マーサに借りた服を抱え、奥の部屋へ通される。
「この部屋、好きに使って構わないよ」
木製の戸を閉めると、外の朝の気配がすっと遮断された。いや、それならマリアベルに使わせてやって欲しかったんだけどな……言う前に出ていってしまった。
見渡すと、簡素な部屋だった。机の上はインクの痕が滲み、壁に設えられた棚には何かの薬瓶が並んでいる。
そして、椅子には着古され、所々が破けた外套が掛けられている。
部屋の端々に、生活の痕が残っていた。
制服の上着を脱ぐ。指先に布の感触が残る。
制服を床に畳み、代わりにアルスのシャツを広げる。
思ったより大きい。所々ほつれているが、その補修跡を見ると人の体温が染み込んでいる気がした。
袖を通す。
違和感は、すぐに消えた。
代わりに、胸の奥に冷たいものが落ちる。
ボタンを留めるたびに、何かが確定していく。
俺は、ここに入り込んだ。
――悠くん。
最後に上着を羽織る。
袖口の継ぎ当てが、指に引っかかった。
何度も直されている。
誰かが、ここに帰ってくる前提で。
窓に見慣れない服を着た自分が写る。
――大丈夫だよ。
右目だけが、妙に光を反射していた。
そこには何かが刻まれている。
文字でも、紋章でもない、何かが。
右目が、わずかに疼く。
俺は視線を逸らした。
――大丈夫。君は、君だよ。朝倉悠。
女神の声が、遠く聞こえた。
§
着替えて戻ると、マリアベルは居なかった。
また仕事でも頼まれたのだろうか、午後は俺も働かないと。
そんな俺の肩口を、マーサはつまんで少し引っ張る。
「はは、あんたには少し大きかったね」
軽い笑い声だ。けれど、その笑いはどこか薄かった。俺はそれに何も言えずにいた。
マーサの指が肩から離れる。
その指先が、空を掴むようにわずかに震えた。
「そういえば、着替えてたから朝食まだだろう?冷えちまったから温め直すよ。ちょっと待ってな」
「……はい」
言ってからわずかに引っかかる。
俺は、誰として返事をした?
台所で朝食を用意する彼女の背中は、どこか軽そうに見える。
足が自然と台所へ向いた。呼ばれたわけでもないのに。
また、右目が疼く。
――悠くーん、女の子にばっか働かせちゃだめだよー?
女神の咎める声が聞こえる。
この疼きは、彼女のせいだろうか。
マーサの背中に声を掛ける。
「あの、俺もなんか手伝います」
「いーっていーって、お客さんなんだからあんたは座ってな」
言ってから、彼女の動きが止まった。
「……あんたは」
それだけ言って、彼女はまた動き出す。
何を言いかけたのか、俺には分からなかった。
それに、俺には座ってろ?マリアベルは働かせて?
違和感が拭えない、喉が渇く。
§
そこからは何を話したか覚えていない。
家の空気に耐えられず、外へと来ていた。
やけに硬いパンと、塩気のうすいスープの味が口の中に残っている。
「おや、あんた見ない顔だね」
村の様子を眺めながら歩いていると、農夫に声を掛けられた。
「あ、旅の途中で……立ち寄らせてもらいました」
「そうかい、何もない村だけどゆっくりしていきなね。ところで、今日の宿は決まってんのかい?」
「はい、マーサさんのところでお世話になってます」
そういうと農夫の顔が暗くなる。
「あぁ……マーサさんとこかい……あの人も災難だったね。アルスくん、事故に巻き込まれてから帰ってきてないんだろう?」
その言葉が胸の中に、静かに沈んだ。
帰ってきていない。
それなら――。
あの家にいるのは、誰だ。
◇
全く、マーサさんは私にばかり仕事を押し付ける。
まるで、ユウを独占したいように。
ユウもユウでなんだか様子がおかしい。
町であんなことがあった後だからと言われればそれまでだけれど、どうもそれだけではない気がした。
明るく振舞おうとはしているが、彼自身が居なくなってしまうような、そんな脆さを感じさせる。
考え事をしながら水汲みをしていると、近くを通りがかった女性に声を掛けられる。
「あら、緋月正教の神官さんなんて珍しい。これからどちらまで?」
軽く会釈をしてから口を開く。
「教会の本部へ向かっています。それで、夜を越すためにマーサさんのところでお世話に」
「あぁ、マーサさんとこかい……」
名前を出した途端、表情が暗くなる。
やはり、何かあるのか。
「いや、ね?あの人、この間の崩落事故で息子さんを亡くしたばっかだろう?遺体もまだ見つかってないらしいし……」
想像はしていたが、案の定息子を亡くしていた、と。
それで、ユウが息子代わり……?それにしてはちゃんとお客扱いしていたと思うが。
「そうだったんですね……」
略式ではあるが、祈りを捧げる。
「ありがとうね、これで少しはアルスくんも浮かばれるといいんだけどねぇ」
胸の中に、ひとさじの不安が湧き上がる。
◇
家の扉を押し開けた瞬間、空気が違った。
何かを探していたような気配が、ぱっとこちらに向く。
「アルスっ!」
名前が、まっすぐ胸にぶつかった。
次の瞬間、体が強く抱き締められる。
思ったより、細い腕だった。
俺の名前じゃない、そう思ったはずなのに。
「無事でよかった…….」
その言葉が胸の奥でほどける。
俺の名前じゃない。けれど、体温は本物だった。
あれだけ疼いていた右目が、静かになっていた。
抱きしめられたまま、視界の端が滲む。
その静けさの奥で、
右目の奥が、ゆっくりと開く。
――ねぇ。
鈴のような、触れたら消えてしまいそうな声。
――君は、どっちを選ぶの?
――帰ってこなかった子か。帰ってきたふりをする君か。
ただ、答えを待っている。
息を一つ吸う。
「……心配かけて、すみません」
その言葉は驚くほどあっさり出てきた。
右目の奥に、微かな温度が灯る。
――そっか。
温度だけが、わずかに残った。
「……アルス」
腕にこもる力が少しだけ強くなる。
俺は、否定しなかった。
それが、誰の居場所を奪うことか、わかっていたのに。
マーサの肩越しに見えた食卓には、湯気の立つ皿が二つ並んでいた。
当たり前のように、二つだけ。俺とマリアベルという異物はまるでいなかったかのように。
「さ、冷めちまうよ」
腕が離れる。
促されるまま、椅子を引く。
床を擦る音が、やけに大きい。
目の前の皿から、白い湯気が細く立ちのぼる。
俺がこの席に座り続ければ、この人は救われるのか。
ふと、遠い記憶がよぎる。
あの日の朝。
母も、俺の分の食事を用意していたんじゃないか。
それを、俺は。
スープに映る自分の顔が、揺れた。
「……いただきます」
当たり前のように手を合わせ、食事の挨拶をする。
「何だい、それ」と、軽く笑われる。
「食べる前に、そうするんです」
「へぇ?」
「命を、もらうから」
マーサは少しだけ目を細めた。
「……そうかい」
そう言って、マーサはスプーンを手に取った。
スープを一口、口に運ぶ。
塩気はさっきよりもはっきりしていた。
§
夜は思ったよりも静かだった。
マリアベルは顔を会わせるやいなや、
「余計なこと考えるんじゃないわよ」
それだけ言って納屋へ行ってしまった。
普通は俺があちらへ行くべきだろうと言ったが、自分の心配だけしとけと強く言われてしまった。
借りたベッドに腰を下ろす。
床に置いた制服が、やけに浮いて見える。
『熱いのにとにかく急いで食べて、火傷ばっかしてたっけねぇ』
昼間の声が、ふとよみがえった。
俺は、知らない。
そんな記憶はない。
なのに。
その“時間”は確かにこの家にあった。
俺は、そこにいなかった。
それでも、俺はここにいた。
§
朝の光で目が覚める。
木の梁の隙間から差し込む光が、床に細い線を落としている。
台所から、鍋をかき混ぜる音が聞こえた。
藁の匂いの中に、焼けたパンの匂いが混じる。
夢の続きを見ている気がした。
戸口に立つ。
小柄な背中が、鍋をかき混ぜている。
その背中が、昨日の夢と重なった。
台所に立つ、母の背中と。
包丁の音が、やけに遠かった。
「……おはよう、母さん」
声が、勝手に出た。
木匙が、鍋の縁に当たって乾いた音を立てる。
鍋を混ぜる手が、止まった。
……俺は今、なんて言った?
喉がひりつく。
目の前のこの女性を、母さんと呼んだのか?
言い直すべきだと分かっている。
でも、言葉が出てこない。
鍋を混ぜる手がいつのまにか動いていた。
マーサはただ一言。
「パン、焼けたよ」
それだけ言った。
右目の奥が、静かに疼いた。
背中が、少しだけ震えていた。
それは笑っているときより、ずっと小さかった。
視線を落として、床を見る。
俺はこの人に、母の影を見てしまった。
だから「母さん」と呼んでしまった。
戸口に立ったまま、身体が固まる。
「……何も食べずに出ていくつもり?」
背中越しに、マーサの声が突き刺さった。
喉が乾く。
けど今は、水よりも逃げ場を欲していた。
誰かに押されたみたいに、気付けば俺は窓際の席に腰を落としていた。




