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第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(51)



主卓越しに伸びてきたレオンハルトの大きく熱い掌。

そこにあやの右手が包み込まれた瞬間、彼の肌から伝わる熱と強烈な熱情が、一気に私の体内へと雪崩れ込んできた。


「あや。お前のその澄み切った高潔さも、俺以外の男に見せる温かな微笑みも……正気ではいられなくなるほど、俺の胸を狂わせる。……お前は俺の心をどこまで乱せば気が済むのだ?」


低い、掠れた声で繰り出された、剥き出しの独占欲。

トパーズ色の双眸が激しい揺らめきを宿して私を射抜き、重ねられた熱い手からはかすかな震えすら伝わってくる。


【4:皇帝(逆位置)】。

人間不信と過剰な完璧主義、重圧ゆえの深い孤独。

誰のことも信じられず、弱音を吐くことも許されず、鉄の鎧で心を固く閉ざしてきた覇王。

その彼が、出会ってわずか二日目の私に対し、ここまで激しい感情と不器用な情熱を曝け出しているのだ。


心臓が肋骨を打ち破らんばかりにドクン、ドクンと跳ね上がり、呼吸が浅くなる。

ミッドナイトブルーのシルクサテンドレスを纏った私の胸元が、激しい鼓動に合わせて上下した。


(落ち着くのよ、あや……! ここで怖がって手を引いてしまってはダメ……!)


脳裏に響くのは、私室を出る前にフク子が授けてくれたあの言葉だった。


『あやきちのやることは、皇帝レオンハルトの心を癒すこと。そこについては、どうお考えかしら』


そうよ。私は彼を恐れるためにここにいるのではないわ。

冷酷な覇王の完璧な仮面の裏側に潜む、彼の凍えた魂をそっと包み込み、溶かしてあげるためにここにいるのだから。


あやはレオンハルトに握られた手の中で自分の掌をゆっくりと返した。

指先を優しく握り返し、澄み切った漆黒の瞳で彼のトパーズ色の双眸を真っ直ぐに見つめ返した。


「……逃げたりいたしませんわ、レオンハルト陛下」


あやの穏やかでブレのない声に、レオンハルトが息を呑み、トパーズ色の瞳をわずかに丸くした。


「私を買い被りすぎでございます。私はただの人間で、決して特別な存在などではございません。ですが……誰のことも信用できず、全責任を一人で背負い続けてこられた陛下が、どれほど冷たく厳しい孤独の中にいらっしゃったのか……私には、痛いほど伝わってきますの」


「あや……お前は……」


「東庭園で下級侍女の手助けをしたのも、特別な理由などございませんわ。私は、立場や身分で人を見るのが嫌いなだけです。そして……陛下、私を護るために真摯に尽くしてくださるシュベルト様やクララに感謝の笑みを向けるのは、臣下や仲間の誠意に応える当然の礼儀ですわ」


あやはレオンハルトの掌をさらにもう片方の手で包み込み、温かな体温を彼の手の甲へと分け与えるように指先を重ねた。


「私の笑顔を、他の男に見せるのがお嫌とおっしゃるのならば……どうぞ、私を一番近くで見つめていてくださいませ。私が本当に心を開き、心からの信頼と温もりを捧げるお方が誰なのか……その瞳で、しっかりとお確かめになればよろしいのですわ」


「――ッ!」


あやの言葉は、挑戦のようでありながら、レオンハルトの傷ついた孤独を優しく包み込む絶対の肯定だった。

逃げるのではなく、レオンハルトの激しい独占欲ごと正面から受け止め、特別な信頼を差し出す覚悟。


レオンハルトの息が止まった。

常に冷徹で隙のない『全能の皇帝』として生きてきた彼のトパーズ色の瞳が、驚愕と狼狽、そして言いようのない甘い激情に染まり、大きく揺れる。


これまで彼の周りに集まってきた人間は、皆、彼の権力を恐れて怯え伏せるか、その絶大な武威を利用しようと企む者ばかりだった。

誰からも「一人の人間」として理解されず、愛されることもなかった男。

そんなレオンハルトに対し、あやは一切の保身や恐怖を捨て、彼の不器用な独占欲すらも優しく抱きしめたのだ。


「お前という女は……本当に、どこまでも俺を翻弄するな」


レオンハルトは掠れた声を漏らすと、私の手を握りしめたまま、ゆっくりと自分の額へと押し当てた。

覇王としての威圧感は消え去り、そこにあったのは、初めて誰かに心を開き、安らぎを見出した一人の男の素顔だった。


「……俺は、ずっと一人だった。俺が倒れれば帝国が倒れる……そう自分に言い聞かせ、心を殺してきた」


「……ええ」


「だが、お前が現れた。……クローデルの不法を鮮やかに暴き、俺の目の前で堂々と不敵に笑い、そして……こうして俺の孤独を容易く暴いて包み込んでみせた」


レオンハルトは額を離すと、トパーズ色の瞳に宿る熱い光であやを深く見つめた。そこにはもう、警戒や人間不信の陰りは存在しなかった。


「あや。お前をただの『特別補佐』として手元に置くつもりだった俺の考えは浅かったようだ。……お前なら、真に信頼してもいいかもしれんな」


「信頼……ですか?」


「そうだ。政務の知の盾としてだけでなく、俺のすぐ隣で、俺の目を誤魔化さずに導いてくれる……唯一の存在としてな」


不敵で、けれどどこか照れを含んだ甘い彼の告白。

【4:皇帝(逆位置)】の頑なな心の氷が、ほんの少し解け始め、確かな信頼の芽が芽生えたのだ。


胸の奥が温かく高鳴り、あやはレオンハルトの温度を感じながら


「……私でよろしければ、どこまでもお支えいたしますわ」と微笑みを返した。



二人きりの私的ダイニングに漂っていた張り詰めた緊張感が、一気に解け、温かな和やかさへと変わっていく。


レオンハルトは満足そうに口の端を上げると、ようやく私の手を離し、ワイングラスを手にとって一口口に含んだ。

キャンドルの炎が彼の美しい輪郭を優しく照らし、蒼黒髪に柔らかな光の陰影を作っている。


「さて……これ以上お前を見つめていると、政務の算段すら忘れてしまいそうだ」


「ふふ、陛下が政務をお忘れになったら、私の特別補佐としてのお仕事が増えてしまいますわ」


冗談交じりに応じると、レオンハルトは楽しそうに低く肩を揺らした。

二人の間に流れる空気は、昼間の厳格な主従関係を超え、互いを深く信頼し合う対等なパートナーとしての心地よい親密さに満ちていた。


やがて食事も終盤に差し掛かった頃、私は副卓に置かれていた革装丁のメモ帳を思い出し、表情を引き締めた。


「レオンハルト陛下。クローデル様が隠蔽していた裏帳簿の解析について……一つ、どうしても気になる点がございますの」


「『教皇庁国境付近』への、謎の巨額送金ルートのことだな?」


陛下のトパーズ色の瞳に、瞬時に皇帝としての鋭い光が戻る。


「ええ。クローデル様が『青銅の秤商会』を通じて吸い上げていた裏金のうち、約三割が定期的にその国境付近の謎のダミー口座へと送られていましたわ。単なる貴族個人の私腹を肥やす横領にしては、送金の周期も金額も、あまりに規則正しすぎます」


「フン……教皇庁か。光の神を祀る聖職者どもが、裏で帝国の腐敗貴族と手を結び、巨額の資金を吸い上げていたとなれば……これは単なる財政不正では済まない。国家反逆罪に相当する大罪だ」


陛下は不敵に笑いながらも、トパーズ色の瞳を冷酷に細めた。


神聖不可侵を誇る「教皇庁」。

帝国の宗教的権威でありながら、過激な選民思想と古くさいドグマに囚われ、皇帝の世俗権力と長年潜在的な対立を続けている巨大組織だ。


「クローデル様が独断で動いていたとは考えにくいですわ。彼の背後に、教皇庁とパイプを持つ『より巨大な黒幕』が存在する可能性が極めて高いかと」


「同感だ。……クローデルを査問委員会にかけ、吐かせようとしても、教皇庁の影が絡んでいるとなれば、口封じの暗殺者が動く危険もある」


「ええ。ですから、表面上はクローデル様の個人の横領として処理しつつ、裏で『送金ルートの先』を隠密に調査すべきですわ」


私の提案に、レオンハルトは感心したように深くうなずいた。


「見事な洞察だ、あや。……よし、この隠密調査の指揮は、お前に委ねる。表向きは『各領土の財政監査』として動かせ、裏で教皇庁の刺客と送金先を炙り出せ」


「畏まりました、レオンハルト陛下。期待にお応えしてみせますわ」


政務の盤面においても、私と彼の呼吸は完璧に噛み合っていた。

不当な権力や陰謀を叩き潰し、この帝国に新たなる秩序を打ち立てるための戦い。


食事が終わり、重厚な扉が開かれると、外で待機していたクララとシュベルトが恭しく迎えてくれた。


「お待ちしておりました、あや様」


水色の髪を綺麗に結い上げたクララが、温かなショールを私の肩に優しくかけてくれる。その深緑の瞳には、私に対する深い敬意と忠誠心が満ちていた。


「あや殿、私室までお護りいたします」


シュベルトが、ディープブルーの瞳を私に向け、真摯に警護の体勢をとる。

彼の瞳には、依然としてあやに対する密かな恋心が宿っていたが、それすらも彼の温かな人間性として優しく受け止めた。


私室へ戻る回廊を歩みながら、私の肩に乗ったフク子が、ふんわりと紫紺の翼を揺らして心の中に優雅な念話を届けてきた。


(あやきち、見事でございましたわ。あの頑なだった皇帝レオンハルトの心を、少し解きほぐしてみせましたわね)


(……フク子のおかげよ。大切なことを思い出させてくれて、ありがとうね)


あやとフク子だけの絶対の秘密――自分が異世界から来た元社畜の人間であること。


その秘密を胸に抱きながらも、あやの存在によって少しずつ心を解きほぐされ始めた皇帝とともに、この異世界の運命を、力強く切り開いていくのだ。


月下宮の夜空に輝く満月が、どこまでも優しく照らし出していた。



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