第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(50)
東庭園から心地よい夕風を浴びてあやが私室へ戻ると、待機していたクララがすぐさま温かいタオルと着替え用の美しいショールを用意して迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、あや様。東庭園でのご散策、お心は和みましたでしょうか」
水色の結い上げ髪と、深く澄んだ深緑色の双眸。
筆頭侍女としての完璧な佇まいの中に、私に対する深い尊敬と心からの慕情を隠さずに漂わせるクララ。その温かな表情に、私も疲れが吹き飛ぶような心地がした。
「ええ、とても良い気分転換になりましたわ。シュベルト様もご丁寧に護衛してくださって……」
私がそう答えると、クララはどこかわくわくとした、けれど極めて誇らしげな笑みを薄い唇に浮かべ、私に向かって優雅に一礼した。
「あや様。たった今、皇帝陛下より直々のご下命が届きました」
「レオンハルト陛下から……? クローデル様の裏帳簿や押収資産の件で、追加の指示でしょうか?」
私が首を傾げると、クララは深緑の瞳を輝かせ、声を少し落として秘密めいたトーンで紡いだ。
「いえ、政務の指示ではございません。……今夜の夕食、あや様を皇帝陛下の食事へと同席させるようにとのご命令でございます。公式の晩餐ではなく、陛下とあや様お二人きりでの、通常のお食事でございます」
「――えっ!?」
クララの口から飛び出した言葉に、私は思わず素の声を上げてしまった。
私的ダイニング……皇帝陛下と、二人きりの食事!?
「ちょっと待って、クララ! それってどういうことかしら……? 私はまだ特別補佐に就任して二日目ですし、公式の場でもないのに皇帝陛下のプライベートなお食事に同席するなんて……」
「あや様、驚かれるのも無理はございません。皇帝陛下がご自身の空間に女性を招かれるなど、これまで一度としてなかったことでございます。……陛下はあや様を、単なる臣下ではなく、ご自身の最もお側に置くべき特別な存在として重んじておられるのですわ」
クララの言葉には、微塵の疑いもなかった。
御前会議での私の裁定に心服し、私を理想の主君として崇めるクララにとって、皇帝陛下が私を特別扱いすることは至極当然であり、誇らしいことなのだ。
(ちょっと、急展開すぎるんじゃないの……!? 元社畜の感覚からしたら、入社二日目の社員が社長の個人的な高級ディナーに呼び出されるようなものよ!?)
頭の中で港区のオフィス時代の思考がグルグルと駆け巡り、心臓がドクン、ドクンと激しく脈打ち始める。
その時、私の膝の上で羽を休めていたフク子が、ふんわりと紫紺の翼を広げ、パチクリと紫水晶の瞳を瞬かせながら、脳内に優雅な念話を届けてきた。
(あやきち、素晴らしい機会ですわ。皇帝レオンハルトの孤独な心に寄り添う絶好の好機でしてよ。夕刻の庭園で誓った『彼の心を救う』という決意、さっそく果たす時が来ましたわね)
(……フク子ったら、人事だと思って……! でも確かに、フク子の言う通りね)
私は深呼吸をして胸に手を当てた。
【4:皇帝(逆位置)】――過剰な完璧主義と人間不信の孤独に苛まれるレオンハルト陛下。
昼間の執務室で彼が見せた、重圧に押し潰されそうな横顔。誰のことも信じられず、全責を一人で背負い込んできた氷の覇王。
彼が私を私的ダイニングへ招いた理由が何であれ、逃げるわけにはいかない。彼の頑なな心の鎧をそっと解きほぐし、その孤独に寄り添うことこそが、私がこの世界で果たすべき使命なのだから。
「分かったわ、クララ。陛下の直命であれば、お受けいたしますわ」
「承知いたしました、あや様! 直ちにお召し物の微調整と、お髪のセットをさせていただきますね」
クララは嬉しそうに深緑の瞳を和ませると、熟練の手際で私の純白のドレスの裾を整え、漆黒の髪に一輪の透明なクリスタル簪を挿してくれた。
陽がすっかり落ち、夜の静寂が皇宮を包み込む頃。
私はクララと近衛隊長シュベルトに付き添われ、本殿の最奥――皇帝のプライベートエリアである『月下宮』の回廊を進んでいた。
「あや殿。周辺の警備は我々近衛隊が完璧に固めております。どうかお心穏やかにお過ごしください」
シュベルトが、ディープブルーの瞳を私に向け、凛とした佇まいで言葉をかけてくれる。
東庭園での出来事を経て、彼の瞳にはあやに対する深い尊敬と、隠しきれない熱い感情が宿っていた。
「ありがとうございます、シュベルト様。お立ち回り、とても心強いですわ」
あやが微笑むと、シュベルトは照れたように耳を真っ赤にし、「はっ……! あや殿のご無事を、命に代えてもお護りいたします!」と力強く胸を張った。
月下宮の最奥、重厚なマホガニーの二重扉の前に到着すると、控えていた近衛兵たちが静かに扉を開き放った。
「あや様、行ってらっしゃいませ」
クララとシュベルトに見送られ、私が足を踏み入れたのは、息を呑むほど贅を尽くしながらも落ち着いた静寂が漂う、皇帝専用のプライベートダイニングだった。
部屋の中央には、二客の豪華な高背椅子が配置された黒壇の食卓。
テーブルの上には優美な銀製の燭台が置かれ、温かなキャンドルの炎が柔らかな光を投げかけている。
そして――その食卓の奥で私を待っていたのは、漆黒の軍服の首元を少しだけ緩め、主卓に背を預けていたレオンハルト陛下だった。
「来たか、あや」
低い、けれどどこか掠れた甘さを帯びた声。
朝光を弾いていた蒼黒髪が、燭台の光を受けてしっとりとした艶を放っている。
トパーズ色の双眸が真っ直ぐに私をとらえ、彼が纏うベルガモットの優しい香りが、部屋の空気に溶け込んで私を優しく包み込んだ。
「陛下……。お招きいただき、光栄に存じます」
私がフク子の魔法によって仕立てられた、星くずのような銀糸刺繍が煌めくミッドナイトブルーのシルクサテンドレスの裾を軽く持ち上げ、洗練された綺麗な礼をとると、レオンハルト陛下は不敵で満足げな笑みを薄い唇に浮かべ、立ち上がった。
「堅苦しい挨拶は不要だ。今夜は公式の宴ではない。……あやと二人で、静かに話がしたかっただけだ。座るがいい」
彼が長身を揺らして歩み寄り、私のために自ら椅子を引いてくれた。
帝国最強の覇王であり、皇帝である彼が、一人の女性のために自ら椅子を引くという異例の破格の待遇。
「ありがとうございます、陛下」
あやが着席すると、彼の熱い指先が私の肩にかすかに触れ、心地よい痺れのような体温が伝わってきた。
対面に着席したレオンハルト陛下。
すぐさま静かな所作で控えていた専属給仕によって、極上のスープや焼きたてのパン、極上の肉料理が銀盆に乗せられて運ばれてくる。
「……美味ですわね。皇宮の料理は実に素晴らしいです」
私が小さく口に運んで微笑むと、レオンハルト陛下はワイングラスを傾けながら、トパーズ色の瞳を細めた。
「口に合ったなら何よりだ。……昼間の政務解体、実に見事だったぞ。クローデルが隠蔽していた裏金ルートの解明も、各領土への予算再分配の計算も、お前の手腕がなければ数ヶ月は滞っていたはずだ」
「お褒めいただき恐縮ですわ。ですが、クララが完璧な資料を用意してくれたからこそ、スムーズに進みましたの。彼女の仕事ぶりには本当に助けられました」
「ふん……ハーゼン伯の娘か。あいつは以前まで誰にも心を開かぬ『氷の令嬢』だったが、お前の前では随分と生き生きとした顔をするようになったな」
レオンハルト陛下は不敵に微笑みながらも、トパーズ色の瞳にどこか探るような、熱い光を宿して私を見つめてきた。
「……それだけではない。夕刻、お前が東庭園で取っていた行動も……俺の耳に入っているぞ」
「えっ……? 東庭園での行動……ですか?」
私が驚いて視線を向けると、レオンハルト陛下は少しだけグラスを握る手に力を込め、低く静かな声で言葉を続けた。
「下級侍女が割った花瓶の破片を、ドレスが汚れるのも意に介さず、素手で拾い集めていたそうだな。……『特別補佐』としての絶大な権力を得ながら、地位も身分もない下臣のために自ら腰をかがめる女など、俺は見たことがない」
彼の言葉には、呆れと、隠しきれない強い驚嘆、属性を超えた惹かれ、そして――どこか胸の奥を灼かれるような、甘く激しい執着の色が混ざり合っていた。
「地位や権力など関係ありませんわ。困っている人がいれば手を差し伸べる……それは、人として当然のことですもの」
私がまっすぐに答えると、レオンハルト陛下は息を呑み、トパーズ色の瞳を激しく揺らした。
「当然、か……。お前にとっては当然のことが、この裏切りに満ちた皇宮では何よりも眩しく、恐ろしいほどに気高い。……シュベルトが、お前にあのような熱い眼差しを向ける理由が、痛いほど良く分かった」
「シュベルト様が……?」
首を傾げる私に対し、レオンハルト陛下は主卓越しに身を乗り出すと、私の小さな手をとった。
彼の大きな掌から伝わってくる、熱く、切ないほどの強い体温。
「あや。お前のその澄み切った高潔さも、俺以外の男に見せる温かな微笑みも……正気ではいられなくなるほど、俺の胸を狂わせる。……お前は俺の心をどこまで乱せば気が済むのだ?」
低い、掠れた声で語られる、皇帝レオンハルトの剥き出しの独占欲。
【4:皇帝(逆位置)】の頑なな心の鎧が崩れ去り、私だけに向けられた覇王の情熱に、私の胸はドクンと激しく跳ね上がった。




