第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(49)
東庭園へと続く石造りの回廊を歩む俺の足音は、静まり返った回廊に重々しく響いていた。
漆黒の軍服の肩章を揺らし、側近の近衛兵数名を従えて本殿での公務の移動にあたっていた俺は、不意に回廊の隙間から差し込む黄金色の夕光に目を留めた。
普段であれば、庭園の風景など一顧だにせず通り過ぎるところだ。
だが、白薔薇と白百合が咲き誇る静寂の東庭園の一角に、見慣れた二つの影が見えた瞬間、俺の足は自然と止まっていた。
「……陛下?」
後ろに控える近衛兵が不審そうに声を漏らしたが、俺は無言で手を出して制し、柱の影から庭園の様子をじっと注視した。
そこにいたのは、神聖な純白のドレスを纏ったあやと、近衛隊長であるシュベルトだった。
執務室でクローデルの裏帳簿を解読し、各領土への正当な予算分配案を恐ろしい速度で叩き出していた女。
根を詰めすぎたあいつに休みを取らせるため、俺は外の空気を吸ってくるよう促した。
だが、俺の目を惹きつけたのは、二人のか細いやり取りではなかった。
あやの取っている、あまりにも予想外な行動だった。
『皇帝直属特別補佐』という、帝国において全領主や貴族すら平伏させる絶大な権限を与えられた女性。
一切の汚れなき純白のドレスを着た女が――なんと、草むらに直に膝をつき、ドレスの裾が泥で汚れることも意に介さず、何かを一生懸命に探していたのだ。
(何を……している?)
目を凝らすと、その前には泣きじゃくる一人の見習い侍女が縮こまっていた。
どうやら割れたクリスタルの花瓶の危険な破片が草むらに飛び散り、それをあやが下級侍女と一緒に素手で拾い集めていたらしい。
破片をひとつひとつ丁寧に拾い上げ、少女の手の怪我を案じ、優しく微笑んで言葉をかけているあやの姿。
その佇まいには、大貴族の令嬢たちが持つような選民思想や気取りなど微塵も存在しなかった。
地位や身分、立場など関係なく、困っている弱者を前にすれば躊躇なく腰をかがめ、その痛みに寄り添う。
御前会議で権力者どもの不正を冷徹なまでに解体してみせたあの圧倒的な知性と同一人物とは思えぬほどの、どこまでも澄み切った気取らない人間味と、高潔な温かさ。
(あいつは……どこまで俺を驚かせれば気が済むのだ)
胸の奥が、熱く揺さぶられるような感覚に襲われる。
これまで俺の周囲に群がってきた貴族や令嬢どもは、下臣を「使い捨ての道具」としてしか見ていなかった。自らの着物が汚れることなど死ぬほど嫌い、過失を犯した侍女には容赦なく罰を与える者ばかりだった。
だが、あやは違った。
見せかけの優しさではない。彼女の根底に流れる、圧倒的な高潔さと魂の美しさ。
知れば知るほど、その底知れぬ魅力の深さに俺は息を呑むばかりだった。
だが――俺の視線が、あやの隣に立つシュベルトへ向かった瞬間、胸の奥でドス黒い炎が弾けた。
シュベルトがあやを見つめる、その眼差し。
甲冑の籠手を外し、あやと一緒に草むらへ手を伸ばしていた近衛隊長。
武骨な体躯を持つ男のディープブルーの瞳には、単なる「皇帝の特別補佐官」に対する敬意などでは到底説明のつかない、狂おしいほどの熱と崇拝、そして――一人の男としての「密かな恋心」がはっきりと宿っていた。
草むらの破片を拾い終え、下級侍女を優しく見送った後、あやが立ち上がって服についた小さな葉っぱを払う。
その際、あやがシュベルトに向かってパッと咲いた花のように柔らかく微笑み掛けた。
『ふふ、ありがとうございます、シュベルト様。これからも頼りにしていますわね』
『はっ……! あや殿のお役に立てますこと、臣下として、一人の男として、これ以上の誉れはございません!』
あやに向けられた、シュベルトの真っ直ぐで熱い声。
ほんのりと頬を染めて親しげに微笑み返すあやの姿。
二人の間に漂う、和やかで、どこか立ち入れないほどに密接な空気。
その光景を目にした瞬間――俺の胸の奥で、経験したことのない激しい「ざわつき」が巻き起こった。
(なんだ……? この不快極まりない感情は……)
奥歯がギリッと音を立てて噛み合わさる。
胸の奥が焼き尽くされるように熱く、苛立ちと焦躁感が全身の血を沸騰させていく。
シュベルトは俺の最も信頼する近衛隊長だ。彼の忠義も、人間性も熟知している。
だが……なぜだ?
なぜ、あの男があやにあのような熱い視線を向けている?
なぜ、あやは俺以外の男にあのように柔らかく、愛らしく微笑んで見せるのだ?
あやは俺の『特別補佐』だ。
「……行くぞ」
俺は低く冷ややかな声を絞り出し、庭園の二人に気づかれる前に、身を翻して回廊の奥へと歩みを進めた。
後ろに従う近衛兵たちが、俺の全身から放たれる凄絶な殺気と圧迫感に怯え、息を呑む気配が伝わってくる。
だが、どれほど歩みを進めても、胸の奥で渦巻くモヤモヤとした不快な焦燥感は一向に収まらなかった。
むしろ、あやの笑顔とシュベルトの熱い視線が脳裏に焼き付き、胸が引き裂かれるような甘く苦しい苛立ちが増していくばかりだった。
本殿の執務室へ戻った俺は、漆黒の軍服の上着を脱ぎ捨てると、主卓の椅子へと深く腰を下ろした。
デスクの上に置かれた羊皮紙の束。だが、もはや文字など頭に入ってこない。
思考を占領しているのは、あの東庭園でのあやの佇まいと、シュベルトに向けられた微笑みだけだった。
「……くそッ」
俺は低く毒づくと、主卓のベルを強く鳴らした。
数分後。
ドアが静かにノックされ、足音ひとつ立てずに入室してきたのは、あやの筆頭侍女であるクララだった。
ライトブルーの結い上げ髪と、ディープグリーンの静かな双眸。
あやによって心服させられたあの『氷の令嬢』は、恭しく深々と礼をとった。
「お呼びでございますか、皇帝陛下」
俺はトパーズ色の双眸を細め、冷たく引き締まった声でクララに命じた。
「クララ。あやに伝えろ」
「はっ」
「今夜の夕食……あやを同席させよ。公式の晩餐ではない。通常の食事だ」
俺の言葉に、クララが一瞬だけ深緑の瞳を丸くした。
公式の宴席や政務の場ではなく、皇帝のプライベートな空間での食事に女性を同席させることの意味。
それは、皇帝レオンハルトがその女性を単なる臣下ではなく、自らの最も親密な存在として認めているという決定的な意思表示に他ならない。
だが、クララはすぐに表情を引き締めると、心からの理解と誇らしさを込めて深く頭を下げた。
「畏まりました、陛下。あや様へその旨、即座にお伝えいたします。あや様もきっと、陛下と共にお食事をされますことを、心よりお喜びになるかと存じます」
「……余計な口を叩くな。下がるがいい」
「失礼いたします」
クララが洗練された動作で退出していくと、再び広い執務室に静寂が戻ってきた。
俺は主卓に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。
トパーズ色の双眸が、夕暮れの赤に染まる高窓の外を鋭く見つめる。
今夜の食事。
二人きりの空間で、俺はあやと向き合う。
あやのあの澄み切った瞳を、あの柔らかな言葉を、すべて俺だけのものにするために。
胸の奥で激しく燃え上がる、初めて味わう激しい衝動と独占欲。
あやという存在が、俺の魂を、俺の運命を、抗いようのない速度で塗り替えていた。




