第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(48)
「あや殿。皇宮の東庭園は夕刻のこの時間帯、人通りも少なく、非常に静かでございます。気分転換には打ってつけの場所かと」
重厚な黒壇の扉から一歩廊下へ出ると、近衛隊長シュベルトが恵まれた体躯を甲冑に包み、歩幅を私に合わせてゆっくりと歩みを進めてくれた。
「お付き合いいただき、ありがとうございます、シュベルト様。朝からずっと帳簿と羊皮紙の山に向き合っておりましたので、こうして外の空気を吸えると、身体の隅々まで解きほぐされるようですわ」
私が胸の前で純白のドレスの裾を優美に整えながら微笑むと、シュベルトは照れたようにディープブルーの瞳をそっと伏せた。
「不服申し立ての件から一連の裏帳簿解読まで、あや殿のお仕事ぶりはまさに圧巻にございました。ですが、どれほどお強い精神をお持ちでも、人間には休息が必要です。私のような武骨者でお役に立つならば、いくらでも護衛を務めさせていただきます」
「ふふ、武骨だなんてとんでもありません。シュベルト様が隣にいてくださると、本当に心が安らぎますわ」
私が心からの感謝を伝えると、シュベルト様は一瞬息を呑み、ディープブルーの瞳に強い動揺を揺らめかせた。経験豊富な武人でありながら、どこか純朴で誠実な彼の反応に、私の心も自然と和んでいく。
執務室に残ってさらなる公文書の分類を進めるクララに「少しお庭を散歩してまいりますね」と声をかけた時、クララは「いってらっしゃいませ、あや様。シュベルト隊長が同行されるなら安心でございますわ」と、深緑の瞳に深い信頼と温かな笑みを浮かべて送り出してくれたのだった。
本殿の長い回廊を抜け、アーチ状の石造りの門をくぐると、そこには夕刻の黄金色の光に包まれた静寂なる東庭園が広がっていた。
咲き誇る白百合や白薔薇の甘い香りが微風に乗って漂い、私の鼻腔を優しくくすぐる。
「美しい庭園ですわね……。帝都の真ん中に、これほど穏やかな場所があるなんて思いもしませんでした」
「この庭園は代々の皇帝陛下が憩いの場とされてきた場所です。もっとも、レオンハルト陛下がここを散策されるお姿は、ほとんど拝見したことがございませんが……」
シュベルトは苦笑交じりにそう言いながらも、常に私の右斜め後ろ半歩の距離を保ち、周囲の物音に鋭い警戒の意識を向けていた。
伯爵家の長男でありながら、第一線の近衛隊長として皇帝を護衛し続けてきた男。その隙のない立ち振る舞いと、どこまでも誠実で温かな人柄。
歩みを進めるうちに、庭園の奥にある小さな石造りのベンチの傍らで、一人の見習い侍女が困り果てた様子で立ち尽くしているのが目に入った。
十代半ばほどの若い少女は、手に持っていた給仕用の銀盆を揺らし、青ざめた顔で地面を見つめている。
「どうされたのですか?」
私が声をかけると、少女は弾かれたように跳ね上がり、私の着ている神聖な純白のドレスと、後ろに控える巨躯の近衛隊長の姿を見て、ガタガタと震え始めた。
「ひっ……! 申し訳ございません! 貴婦人様、近衛隊長様! 申し訳ございません!」
「落ち着きなさい。無礼であるぞ」とシュベルトが凛とした声で制しようとしたが、私はそっと手を挙げてシュベルトを制し、少女の前で優しくかがみ込んだ。
「大丈夫ですよ。何かお困りごとですか?」
「あ……あの……! 庭園のお手入れの最中に、大貴族様へお渡しする大切なクリスタルの花瓶を落としてしまい……破片が草むらに飛び散ってしまったのです……。早く片付けなければ、他の侍女様や貴族様が足を怪我されてしまいますし、お咎めが……」
少女の瞳から涙が溢れ出していた。
厳しい階級社会の皇宮では、器物を損壊させた下級侍女には容赦ない罰や追放が待っている。
「そういうことでしたのね。怪我はありませんでしたか?」
「え……? は、はい……手袋をしておりましたので、怪我は……」
「良かった。なら、一緒に破片を探しましょう」
「えっ……!?」
少女だけでなく、後ろに立っていたシュベルトも驚愕で目を見開いた。
「あ、あや殿!? おやめください! あなた様のような高貴なお方が、下級侍女の過失のために土に汚れ、ガラスの破片で手を怪我されるなど、絶対にあってはなりません!」
焦ったように制止しようとするシュベルトに対し、私は微笑みながら首を振った。
「シュベルト様。高貴かどうかなんて関係ありませんわ。誰かが怪我をする前に破片を拾うのは、当然のことでしょう? それに、この子の手だけで探していたら、日暮れまでに間に合いませんもの」
私は迷うことなく神聖なドレスの裾を汚れぬよう少し持ち上げると、草むらへと膝をつき、丁寧に破片を探し始めた。
港区のオフィス時代、宴会の準備でグラスを割った後輩を助けて一緒に床に這いつくばった日々を思い出す。立場や身分がどうあれ、困っている人を目の前にして放置することなど、私にはできなかった。
「あや殿……」
シュベルトは息を呑み、立ち尽くした。
彼がこれまで見てきた貴族や高貴な貴婦人たちは、皆、下臣や侍女を「使い捨ての道具」としてしか見ていなかった。過失を犯した侍女がいれば冷酷に打ち捨て、自らのドレスが土で汚れることなど何よりも忌み嫌う。
だが、この『皇帝直属特別補佐』であるあやという女性は違った。
御前会議で権力者の不正を冷徹なまでに叩き潰した恐ろしいほどの知性。その同じ人物が、いま目の前で、一人の下級侍女のために躊躇なく腰をかがめ、優しい眼差しで泥混じりの草むらを捜索している。
(……なんというお方だ。このお方は、ただ頭脳が明晰なだけではない。命の貴さも、弱者の痛みも、すべてを等しく慈しまれる本当の『高潔さ』をお持ちなのだ……!)
シュベルトの胸の中で、雷に打たれたような激しい衝撃が走った。
「私もお手伝いいたします!」
シュベルトは迷いを捨てると、その大きな身体を折り曲げ、甲冑の籠手を外して草むらへと手を伸ばした。
「シュベルト様まで……ありがとうございます」
「礼など滅相もございません! あや殿のお心に触れ、己の傲慢さを恥じるばかりにございます!」
二人の手によって、草むらに散らばっていた危険な破片は瞬く間にすべて回収された。
涙を流して何度も頭を下げ、感謝を伝える下級侍女を「もう大丈夫ですから、お仕事にお戻りなさいね」と優しく見送った後、私は立ち上がり、服についた小さな葉っぱを払った。
その時、私の膝元で丸くなって静かに見守っていたフク子が、ふんわりと紫紺の翼を広げ、心の中に優雅な念話を届けてきた。
(あやきち、相変わらずお人好しでしてよ。ですが、そういう気取らない優しさこそが、周りの男たちの頑なな心を惹きつけて止まない理由ですわね)
(……フク子ったら、変な茶化し方をしないでちょうだい)
私はフク子の言葉に心の中で苦笑しながら、隣に立つシュベルトを振り返った。
シュベルトは、拾い上げたクリスタルの破片を布に包みながら、息を呑むような熱い眼差しで私を見つめていた。
そのディープブルーの瞳に宿っているのは、単なる『皇帝の特別補佐』に対する敬意ではない。
一人の女性としての圧倒的な美しさと、気取りのない深い優しさ、そして高潔な魂に対する、抑えきれないほどの「狂おしいまでの尊敬」と、胸を焦がすような「密かな恋心」だった。
(……ああ、俺はなんというお方をお護りしているのだ)
シュベルトは胸の中で、激しく鼓動を打つ己の心臓を押さえていた。
三十五年間の武人人生において、女性に対してこれほどまでに胸が熱くなり、膝を折りたくなるほどの感情を抱いたことなど一度もなかった。
レオンハルト陛下の臣下として、彼女を傷つけるあらゆる脅威から死力を尽くして護る。だがそれと同時に、この高潔で美しいお方の笑顔を、一生隣で見つめていたいという不遜な望みが、彼の胸の奥深くで燃え上がり始めていた。
「シュベルト様? どうかされましたか? 顔が少し赤いですけれど……」
私が心配して覗き込むと、シュベルトは慌てて視線を泳がせ、耳まで真っ赤にしながら姿勢を正した。
「い、いえ! なんでもございません! ただ……あや殿の護衛を務めさせていただけますこと、臣下として、そして一人の男として、これ以上の誉れはございません!」
朗々と響く、けれどどこか照れを含んだ熱い声。
彼のそのあまりに真っ直ぐで誠実な姿に、私も不意に胸がキュンと温かくなり、微笑みを返した。
「ふふ、ありがとうございます、シュベルト様。これからも頼りにしていますわね」
黄金色の夕光が降り注ぐ東庭園で、二人の間の信頼と絆は、より深く、温かな彩りを帯びて紡がれていくのだった。




