第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(47)
重ねられた小さな手の温もりが、重厚な黒壇の主卓を通じて俺の皮膚へとじわりと伝わってきた。
「……陛下。少々お手を休められてはいかがですか?」
カップから立ち上るハーブの爽やかな湯気。その向こう側から、神聖な純白のドレスを纏ったあやが、澄み切った漆黒の瞳で俺を真っ直ぐに見つめていた。
「お前は……どこまで俺の奥を見透かす気だ」
俺の掠れた問いかけに対し、彼女は逃げることも、怯えることもなく、どこか哀しげで、それでいて包み込むような優しい微笑みを薄い唇に浮かべただけだった。
「皇帝陛下としてのお立場も、全責を一人で背負われるお覚悟も存じております。……ですが、私くらいには、ほんの少しだけでも肩の力を抜いたお姿を見せてくださってもよろしいのではありませんか?」
その言葉が、俺の胸の奥深くに刺さっていた冷たい楔を、静かに揺らした。
肩の力を抜く、か。
そんな真似が許されたことなど、俺の二十八年の生涯において一度足りとも存在しなかった。
帝国の頂点に立つ皇帝。Sランクの武威を誇る覇王。全軍の最高司令官。
幼少期より血の滲むような修羅場を潜り抜け、実の親族すら裏切りと謀略に明け暮れる宮廷で生き残るため、俺は自らの心を強固な氷の鎧で覆い隠してきたのだ。
誰かを信用すれば、その瞬間に背後から刺される。弱みを見せれば、ハイエナのような領主や貴族どもに噛み殺される。
完璧でなければならない。隙を見せてはならない。
全責任を一人で背負い、全知全能の絶対者として振る舞い続けること――それが俺に課せられた、死ぬまで解けぬ重い呪縛だったはずだった。
それなのに、この女は――。
俺はあやの手の上に重ねた己の掌に、さらに少しだけ力を込めた。
華奢で柔らかく、剣を握ったこともない細い指先。だが、そこから伝わってくる確かな体温は、氷のように冷え切っていた俺の指先を不意に熱く痺れさせる。
(……そうだ。この女は、最初に出会った時からそうだった)
ふと、俺の脳裏に数日前の記憶が鮮烈に蘇る。
あのクローデルの不快極まりないチャリティ夜会。
お忍びで潜入した屋敷の薄暗い地下金庫で、暗殺計画書を手にしたこの女と初めて対峙したあの衝撃的な瞬間だ。
あの夜も、あやは俺の放つSランクの威圧や冷酷な殺気に対して、何ひとつ怯むことがなかった。
皇帝である俺の前に突如現れた身元不明の謎の存在。普通ならば恐怖に震え上がり、命乞いをするか、無様に逃げ惑うのが道理だ。
だが、あやは違った。
まるで俺の完璧な仮面の裏側にある「人間不信」や「激しい警戒心」、そして誰にも明かせぬ孤立無援の冷たさのすべてを完全に見透かしているかのような、恐ろしいほどに透明で澄んだ眼差し。
俺が突きつけた刃や威圧に対しても、動じることなく対等に交渉を持ちかけ、自らの圧倒的な価値を提示してみせたのだ。
あの地下金庫で、あやの手の甲に口づけをした時、俺が感じていたのは単なる美しい女に対する好奇心などではなかった。
「この女は、俺が築き上げた氷の防壁を容易く覗き込んでくる」という、底知れぬ恐怖にも似た強烈なざわめき――そして、生涯で初めて出会った「俺の威圧に一切屈しない存在」に対する、激しい好奇心と狼狽だったのだ。
「レオンハルト陛下……?」
あやがかすかに首を傾げ、不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。
長い睫毛に縁取られたその漆黒の瞳に、俺の引き締まった顔が映り込んでいる。
漆黒の軍服を隙なく着こなした帝国皇帝の姿。だが、いまそのトパーズ色の瞳に宿っているのは、冷酷な覇王の光ではなく、一人の女の眼差しによって胸の奥を揺さぶられ、戸惑いを隠せない男の素顔だった。
「……フン」
俺は自嘲気味に口の端を上げると、重ねていた手をゆっくりと離し、あやが淹れてくれたハーブティーのカップへと手を伸ばした。
指先から伝わるカップの温もり。一口口に含むと、爽やかで優しい香りが喉を通り、緊張で強張っていた胸の奥がじんわりと解けていくのが分かった。
「……妙なハーブティーだな。毒でも仕込まれているわけではなさそうだというのに、妙に体の力が抜ける」
「ふふ、毒など仕込むわけがございませんわ。クララが私のために淹れてくれた、疲労回復に効く特別なブレンドですの。少しは、お心が軽くなりましたか?」
あやが嬉しそうに目元を緩め、パッと咲いた花のように柔らかく微笑む。
その無防備で暖かな笑顔を目にした瞬間、俺の胸の奥で、頑なに閉ざされていた氷の扉が確かに音を立てて崩れ落ちた。
政治的な利害も、家柄の駆け引きも、保身のための擦り寄りもない。
ただ純粋に、俺という人間の疲れを案じ、俺の重荷を分かち合おうとしてくれる澄み切った眼差し。
これまで俺の周りに群がってきた貴族どもは、誰もが「皇帝レオンハルト」の絶大な権力と武威を恐れるか、利用しようと企む者ばかりだった。俺の「心」そのものに向けられた温かな好意など、生まれて初めて受けるものだった。
(……認めざるを得んな。俺は、この女に心を動かされている)
過剰な完璧主義と孤立の闇に囚われていた俺の城。
そこに風穴を開け、軽々と足を踏み入れたのは、剣も魔法も持たぬ、この素性不明の華奢な女だった。
御前会議で「知の盾」として見事な裁定を下してみせた圧倒的な頭脳。そして、俺の孤独をそっと包み込むような、底知れぬ優しさと度胸。
知れば知るほど、惹かれずにはいられない。
単なる政務の道具でも、便利な補佐官でもない。俺の人生において、二度と代わりの利かない「絶対の存在」として、彼女は俺の魂の深部へと確実に侵入してきていた。
ふと視線を向けると、副卓ではハーゼン伯爵家の長女であるあの無口なクララが、あやに対して深い尊敬と心からの忠誠を秘めた深緑の瞳を向け、完璧な手際で補佐を務めていた。
貴族社会の泥沼に絶望していたあの『氷の令嬢』すらも、わずか一日で心服させてみせたあやの不思議な人徳。俺の瞳に狂いはなかった。
「……あや」
俺は低い声で彼女の名を呼んだ。
あやが「はい?」と返事をし、まっすぐに俺を見つめ返してくる。
「お前の言う通り、少しばかり根を詰めすぎていたようだ。……礼を言う」
俺が素直に礼を口にすると、あやは一瞬驚いたように丸く瞳を見開いた。
まさか「絶対の皇帝」である俺が、素直に他人の気遣いを受け入れ、感謝を口にするとは思っていなかったのだろう。
だが直後、彼女の唇が優美に綻んだ。
「どういたしまして、レオンハルト陛下。……そうしてお礼を言っていただけると、私も『特別補佐』としてお側にいる甲斐がございますわ」
その晴れやかな笑顔に、胸が強く締め付けられるような甘い痛みが走る。
俺は咳払いをひとつすると、再び軍服の胸元を整え、主卓の上に広げられた書類へと視線を戻した。
「……だが、休むのはここまでだ。お前が引き当てたあの異常な送金ルート……『教皇庁国境付近』への巨額資金の流出について、検分を進めねばならん」
「ええ、喜んで。……クローデル様が隠蔽していたあの裏帳簿のデータ、私の方でもさらに詳細な分析を進めますわ」
あやは力強くうなずくと、優美な歩調で副卓へと戻っていった。
ふっと彼女から漂う洗練された白檀の微かな香気が、執務室の空気に凛とした心地よさをもたらしている。
副卓で真剣な表情で羊皮紙に向き合うあやの横顔を、俺はトパーズ色の瞳で静かに見つめた。
(教皇庁の陰謀、各領土の蠢き……どのような闇が待ち受けていようと、俺はお前を放さん。俺の隣で、その知性を存分に振るうがいい)
俺の胸の中に芽生えたのは、冷酷な支配欲などではなく、彼女とともに歩む、覇王としての新たな決意だった。




