第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(46)
耳元に吹きかけられた熱い息と、至近距離から注がれるトパーズ色の強い眼差し。
主卓の端へと追い詰められた私の身体は、レオンハルトが放つSランク覇王の強烈な気配と、彼が身に纏うベルガモットの優しい香りに静かに包み込まれていた。
「あや。お前という女は、知れば知るほど底が知れんな。10年誰も解けなかった泥沼を一瞬で裁いてみせるとは……。お前という存在に、俄然興味が湧いてきたぞ。もっと近くで、その頭脳と素顔を見せてもらおう」
不敵で、けれどどこか楽しげな熱を帯びた低い声。
【4:皇帝(逆位置)】が象徴する、人間不信と過剰な完璧主義ゆえの深い孤独。その頑なな心を抱える彼が、初めて私に見せた素直な驚嘆と、底知れぬ存在に対する純粋で強烈な探究心。
至近距離で見つめ返されるトパーズ色の瞳の深さに、私の心臓がドクン、ドクンと大きく音を立て、純白のドレスの胸元を握りしめる指先にギュッと力が入る。
(だ、ダメよあや……! 惑わされちゃいけないわ。ここでペースを握られたら、完全に彼のペースに呑み込まれてしまう……!)
私は港区のオフィスで数々の厳しい交渉や癖のある上司を相手にしてきた元社畜としての理性を総動員し、胸の内で大きく深呼吸をした。
書籍のように澄んだ眼差しで彼の温かい指先を見つめ返し、唇の端にどこか余裕を浮かべた凛とした笑みを刻んで見せた。
「……光栄なご評価にございます、皇帝陛下。ですが――」
「ですが、何だ?」
レオンハルトが眉をかすかにひそめ、トパーズ色の瞳を細める。私は彼の胸元を優しく、けれど確実に手で押し返しながら、静かに、けれど毅然とした声で言葉を紡いだ。
「私という存在に興味を持ってくださるならば、まずは『特別補佐』としての私の最初の大仕事を、完璧にやり遂げさせてくださいませ。クローデル様が失脚した今、法部が滞らせていた膨大な公文書と、押収された莫大な資産の整理……これらを一刻も早く処理しなければ、帝国の財政と各領土の運営に支障を来しますわ」
甘い空気を一瞬にして「膨大な仕事」という現実へ引き戻した私の返答。
レオンハルトは一瞬ポカンと瞳を丸くし、それから低く可笑しそうに肩を揺らし始めた。
「ハ……ハハハ! 貴族どもの圧力も、俺のこの威圧すら意に介さず、即座に政務の算段か。……本当にお前という女は、どこまでも俺の予想を裏切ってくれる」
陛下は私の頬からそっと手を離すと、身を引いて不敵で満足げな笑みを薄い唇に浮かべた。そのトパーズ色の瞳には、好奇心だけでなく、対等で不可欠な『知のパートナー』に対する深い敬意と信頼の色が強く宿っていた。
「いいだろう、あや。お前の手腕、存分に振るうがいい。……おい、クララ」
陛下が低く凛とした声で呼びかけると、重厚な黒壇の扉が静かに開かれた。
「はっ。お呼びでございますか、皇帝陛下、あや様」
足音ひとつ立てずに滑らかに入室してきたのは、筆頭侍女のクララだった。
御前会議で私の圧倒的な分析力と決断力を目の当たりにし、心からの感服と純粋な尊敬を抱いた彼女は、洗練された美しい動作で深々と頭を下げた。
「クララ。ただちにクローデルの執務室および私邸から押収された『帳簿類』と『未決裁文書』をすべてここに運ばせろ。あやの補佐に回り、必要な資料を即座に揃えよ」
「畏まりました、陛下。あや様のご指示に従い、寸分の狂いもなく手配いたします」
クララは表情ひとつ変えずに応えたが、その深緑の瞳には「あや様のお役に立てる」という密かな誇らしさと温かな情熱が宿っていた。
数分後。
近衛兵たちによって、執務室の副卓へと次々に運び込まれたのは、山のような羊皮紙と皮革装丁の帳簿の束だった。
クローデルが法部卿の権力を笠に着て隠蔽し、長年放置していた各領土からの申請書や、不当に吸い上げられていた裏金の関連書類だ。
「……さて。どこから手を付けようかしら」
私が副卓の前に立ち、腕を捲くるように意気込むと、クララがすぐさま私の隣へと寄り添った。
「あや様。こちらがクローデル様が過去五年に渡り溜め込んでいた各領土への『予算分配申請書』にございます。そしてこちらが、本日押収された『青銅の秤商会』の裏帳簿の写しにございます」
クララは私が指示を出す前に、完全に分類・整理された書類の山を、完璧な優先順位で私の前に提示してみせた。
名門ハーゼン伯爵家の長女であり、元々優秀な彼女が、あやへの深い尊敬と忠誠心を胸に本気を発揮した仕事ぶりは、恐ろしいほどに洗練されていた。
「素晴らしいわ、クララ! まさに私が欲しかった順番通りの資料よ」
「……あや様にお褒めいただき、恐悦至極にございます」
私が目を輝かせて感謝を伝えると、クララはほんのりと耳たぶを桜色に染め、誇らしげに背筋を伸ばした。無口で『氷の令嬢』と呼ばれた彼女が、私の前でだけ見せる可愛らしい素顔に、私の心も自然と和んでいく。
(よし……!《万象読解》をフル稼働させて、この裏帳簿と申請書を照合していくわよ!)
私が眉をひそめて帳簿に目を通し始めると、私の脳内で白紙の原初アルカナが静かに覚醒する。
クローデルが裏金として吸い上げていた莫大な資金――その流出ルートを逆に辿ることで、不当に抑圧されていた各領土の領主様たちへの正当な予算分配額が、瞬時に計算弾き出されていった。
「クララ。第一領土と第六領土の領主様から出されていた『水路改修予算』の申請、これらはすべて正当なものですわ。クローデル様が不当に跳ね返していた分を上乗せし、即座に満額回答で承認の公文書を作成してちょうだい」
「承知いたしました。直ちに代筆の手配をいたします」
「それから、こちらの第八領土の領主様が出されている『関税免除申請』……これは裏帳簿のデータと照らし合わせると、クローデル様へ不当な賄賂を渡して税を逃れようとしていた不法申請ね。却下の上、監査官を派遣するよう追記して」
「恐ろしいまでの精度と速度……! かしこまりました、あや様」
私の矢継ぎ早な指示に対し、クララは一切の滞りなく完璧な手際で筆を走らせ、書類を仕分けていく。
そのあまりに完璧な連携プレイに、主卓で政務を執っていたレオンハルトも、時折トパーズ色の瞳をこちらに向け、満足げで不敵な笑みを深めていた。
数時間が経過し、高窓から差し込む朝の透明な光が柔らかな午後の黄金色へと移り変わり、時刻が二時を過ぎた頃。
重厚なドアがノックされ、近衛隊長シュベルトが凛とした佇まいで入室してきた。
「レオンハルト陛下、あや殿。クローデル子爵派の残党および関係する商会の押収作業、順調に進んでおります。周辺の警備も万全を期しておりますので、ご安心ください」
恵まれた体躯を甲冑に包んだシュベルトが、ディープブルーの瞳を私に向け、真摯な礼をとる。
「ありがとうございます、シュベルト様。お陰様でこちらも安心して集中できますわ」
あやが微笑むと、シュベルトは照れたように耳をほんのり赤くした。
「はっ……! あや殿のお役に立てるならば、何よりにございます!」と胸を張った。
シュベルトが退室した後、クララが静かな所作で温かいハーブティーを淹れ、私の傍らへと運んできた。
「あや様、少々お手を休められてはいかがでしょう。集中して政務に取り組まれるお姿には感服いたしますが、根を詰めすぎますと、お体に障ります」
「ありがとう、クララ。ふぅ……少し一息つきましょうか」
私が湯気の立つカップを受け取り、一口口に含むと、爽やかなハーブの香りが疲れた頭を優しく解きほぐしていった。
その時、私の膝元で丸くなってまどろんでいたフク子が、ふんわりと紫紺の翼を広げ、パチクリと紫水晶の瞳を瞬かせた。
(あやきち、素晴らしい集中力でしてよ。ですが、実際のやるべきことを忘れてはいないかしら。あやきちのやることは、皇帝レオンハルトの心を癒すこと。そこについては、どうお考えかしら。)
脳内に直接響いたフク子の優雅で凛とした念話に、私はハッと息を呑んだ。
(……レオンハルト陛下の、心を癒すこと……)
フク子の言葉が、胸の奥深くにずしりと重く落ちてくる。
社畜時代の経験と《万象読解》を駆使して政務を片付け、クローデルを追い詰めたことで、私は「特別補佐」としての価値を証明することに夢中になりすぎていた。
けれど、私がこの世界でタロットの導きとともに果たすべき真の役割――それは、傷つき、誰のことも信じられなくなった人々の心を解きほぐし、救うことだ。
【4:皇帝(逆位置)】。
人間不信と過剰な完璧主義、重圧ゆえの孤独に心をすり減らし、誰にも弱音を吐けずに氷の城を築いている覇王。
彼が私に見せる不敵な笑みも、底知れぬ力への強い興味も、すべては誰も寄せ付けないための強固な「鎧」なのかもしれない。
そっと視線を向けると、主卓でひとり羊皮紙に向き合うレオンハルト陛下の横顔があった。
夕刻の光を浴びる彼の濃紺の髪と、鋭いトパーズ色の双眸。だがその眉間には、誰にも見せない深い疲弊と、微かな痛みの影が刻まれていた。
(そうね、フク子。仕事をこなすだけなら、ただの『便利な官僚』で終わってしまうわ。私が本当に向き合うべきなのは、彼のその頑なな心の扉……)
私はカップをそっと置くと、フク子に向かって心の中で静かにうなずいてみせた。
「クララ、少し席を外してもよろしいかしら。陛下にお飲み物をお届けしてきますわ」
「かしこまりました、あや様」
私はクララが淹れてくれた二杯目のハーブティーを受け取ると、静かな歩調で主卓のレオンハルト陛下の元へと歩み寄った。
「……陛下。少々お手を休められてはいかがですか?」
私が湯気立つカップを机の端に置くと、レオンハルトは書類から顔を上げ、トパーズ色の瞳を私に向けた。
「俺はまだやることがある」
どこか頑なに拒絶しようとする彼の声音。だが、私は引かなかった。
彼の手元にある書類の端にそっと自分の手を重ね、彼の視線を真っ直ぐに受け止める。
「皇帝陛下としてのお立場も、全責を一人で背負われるお覚悟も存じております。……ですが、私くらいには、ほんの少しだけでも肩の力を抜いたお姿を見せてくださってもよろしいのではありませんか?」
私の言葉に、レオンハルトは息を呑んだ。
冷酷な覇王として恐れられ、弱さを見せることを絶対に許されなかった彼。そのトパーズ色の瞳の奥に潜む孤独と痛みを、包み込むように優しく見つめる私の眼差し。
「お前は……どこまで俺の奥を見透かす気だ」
低く掠れた声。彼は溜め息とともにペンを置き、私の手の上に己の熱い掌を重ねてきた。
その強い力と、かすかな震え。
政務の処理という「表の盤面」を超えて、彼の傷ついた心を解きほぐす「本当の対話」が、今静かに始まろうとしていた。




