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ここにいていい  作者: Noct
第三部 渡す側へ

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第八話 誰かへ声をかける

夏休みの踊り場は閉ざされていても、そこに「ある」ものがあります。

 夏休みの踊り場は、閉ざされていた。校舎の鍵は、昼まで開かない。世奈は、一度だけ、様子を見に行った。階段の下から見上げた踊り場は、窓の光だけが、無人の床に、四角く落ちていた。窓枠の傷も、きっと、そこにあった。

(いなくても、ある)

 そう思えたことが、少し不思議だった。四月の世奈なら、居場所のなくなる夏を、怖がっていたはずだった。

 夏休みは、長かった。朝は、遊歩道を歩いた。波の音を聞いて、麦茶を飲んで、借りた本を読んだ。誰にも会わない日も、あった。一人でいる時間が、寂しさだけでできていないことを、世奈は、少しずつ知っていった。

 八月の終わりの夕方だった。遊歩道の先の、あの喫茶店の前で、足が止まった。何度も、灯りだけを見て通り過ぎた店だった。木の扉の横に、小さな看板があった。

 Café Lumen。扉は、思ったより、軽く開いた。ベルが、からん、と鳴った。冷房の風が、汗ばんだ首筋を撫でた。店内は、橙色の灯りで、静かだった。木のカウンターと、窓際の二つのテーブル。コーヒー豆の匂いが、床まで届いていた。

 カウンターの向こうで、男の人が、顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

 落ち着いた、急かさない声だった。

 世奈は、入口で立ち尽くした。入り方が、わからなかった。席に座ればいいのか、何か言えばいいのか。

「お好きなところへ、どうぞ」

 カウンターの端に、座った。木の天板が、冷房の風で、ひやりとしていた。

「ご注文は」

 メニューの文字が、頭に入ってこなかった。(なんでもいい)と思った。でも、それを言うのは、違う気がした。

 男の人は、世奈の手元を、ちらりと見た。

「……ホットミルク、は、いかがですか」

「夏、ですけど」

「冷房で、手が、冷たそうだったから」

 世奈は、自分の指を見た。たしかに、指先が、白くなっていた。

「……お願いします」

 湯気の立つカップが、目の前に置かれた。陶器の縁が、少し厚かった。両手で包むと、冷えた指の先から、熱が、ゆっくり上ってきた。

「マスターの渚です」男の人は言った。「ここ、いつでも、座っていいので」

 いつでも、座っていい。その言い方が、踊り場の「いていい」に、少し似ていた。

 世奈は、ミルクを一口飲んだ。甘さが、舌の奥で、遅れて広がった。

 窓の外で、日が沈んでいった。ガラスに、世奈の顔が、うっすら映っていた。その顔は、四月の窓に映ったものより、少しだけ、こちらを向いていた。

 夏休みが終わって、二学期が始まった。世奈は少し変わっていた。廊下を歩く時、前を向いていた。教室で、隣の席の子に声をかけられることが増えた。自分から声をかけることも、少しずつできるようになってきた。

 踊り場には、まだ来ていた。でも「逃げ場所」という感じは薄れていた。ただ、好きな場所として来ていた。

 春之進は、二学期に入って、文化祭の準備で忙しくなった。学級委員の仕事で、昼休みに踊り場へ来ることが少し減った。でも偶然会える日は、短い時間でも少し話した。

 廊下には、色画用紙と、ペンキの匂いが、うっすら漂っていた。教室の窓には、「準備中」の張り紙が、斜めに貼られている。

 その日は、春之進の方が先に来ていた。段ボールの切れ端を、手に持っている。指先に、青いペンキが、少しついていた。

「世奈、最近表情が違うね」

 春之進が言った。

 世奈は、一瞬、息を止めた。

(さん、って、なかった)

 気づいたのは、言葉の中身より先だった。「世奈さん」が、いつのまにか、「世奈」になっていた。距離が、半歩、縮んだような気がした。

「春之進先輩って、ほんと変です」

 世奈は言った。言ってから、少し驚いた。こんな風に言えるようになったんだ、と思った。以前の世奈なら、絶対に言えなかった言葉だ。

 春之進は「何が?」と言った。

「急に世奈って呼ぶし、表情が違うとか言うし」

「違うじゃん、実際」

「……そうですか」

「うん。最初来た頃と、全然違う」

 世奈は少し考えた。「先輩のせいです」

「俺は何もしてないよ」

「してました」世奈は言った。「ここにいていいって言ってくれた」

 春之進は少し黙った。段ボールの切れ端を、指で、ゆっくり折り曲げた。紙の折れる、小さな音がした。

 そして「そっか」と言った。いつもの「そっか」だった。でも、今日のは少し違う重さがあった気がした。

 その日の放課後、廊下を歩いていた。下の階から、上がってくる子がいた。二学期から転入してきたという、一年生だった。まだ制服が、体に馴染んでいない。校内の案内図を、両手で広げて、見ながら歩いていた。迷っているようだった。世奈は少し前、そういう顔をしていた。どこに行けばいいかわからない顔。

 足が止まった。声をかけるか、迷った。

(迷惑かもしれない。もう誰かに聞いたかもしれない。余計なお世話かもしれない)

 その子は、まだこちらに気づいていない。通り過ぎることは、簡単だった。四月の世奈なら、とっくに、そうしていた。

 どれくらい、立っていただろう。数秒だったのかもしれない。胸の中で、心臓の音だけが、大きかった。廊下の窓から、午後の光が、斜めに差していた。案内図の端が、小さく震えているのが見えた。指先に、力が入っているのだろう。

 春之進の声が浮かんだ。「困ってない?」という声が。美汐の顔が浮かんだ。「最近、顔上げて歩いてるね」と言った顔が。

 世奈は一歩踏み出した。

「どこか探してる?」

 一年生が顔を上げた。驚いた顔をしていた。

「図書室、探してて」

「一緒に行く? 近くだから」

「……ありがとうございます」

 二人で歩いた。靴の音が、二人分、廊下に響いた。

「あの、先輩、ですか」

「ううん、同じ一年」世奈は言った。「私も、四月に、迷ってたから」

「そうなんですか」

「うん。いまだに、たまに迷う」

 その子は、少し笑った。口元だけの、小さな笑い方だった。

 図書室の前まで来た。「白灯文庫」の札が、扉の上で、静かに光っていた。

「ここだよ」

「助かりました」

 扉に手をかけて、その子は、振り返った。

「あの……名前、聞いてもいいですか」

 世奈は、一瞬、言葉が出なかった。自分の名前を、誰かに差し出す。それは、四月の世奈には、できなかったことだった。

「世奈」

「……世奈さん」

 その子が、小さく、繰り返した。自分の名前が、他の人の声で、返ってきた。春之進の声とは違う、少し高い、でも同じくらい、丁寧な響きだった。

「ありがとうございました」

 一年生は図書室に入っていった。

 世奈はその場で少し立っていた。声をかけた。自分から踏み出して、名前を渡した。世奈には大きかった。

 廊下を歩きながら、世奈は思った。春之進先輩は、あの日踊り場で世奈に声をかけた。特別なことじゃない、という感じで。でもそれが、世奈を変えた。自分も今日、声をかけた。特別なことじゃない感じで。でも、あの一年生の何かを少し変えたかもしれない。光のリレーが、世奈のところを通った。

 夕方、Café Lumenへ行った。扉のベルが、からん、と鳴った。夏のあいだに、聞き慣れた音になっていた。

 渚がカウンターにいた。窓際のテーブルで、美汐が本を開いている。夕暮れの光が、ページの上で、橙色に揺れていた。

「世奈ちゃん、久しぶり」美汐が言った。

「はい。今日、声かけてみました。一年生の子に」

 美汐は少し間を置いた。「どうだった?」

「……できました。思ったより」

 美汐は笑った。「よかった」

 渚が世奈の前にホットミルクを置いた。注文していなかった。でも、来るたびに頼んでいたから、覚えてくれていた。湯気が、世奈の前髪を、少しだけ濡らした。

「ありがとうございます」世奈は言った。

 渚は「どうぞ」と言って、カウンターの向こうへ戻った。

 美汐が言った。「……似てきたね」

「え?」

「やさしい人たちに」

 世奈はそれを聞いて、少し目が熱くなった。何かが胸の奥で動いた。

「美汐先輩は、誰に似てますか」

「あたしも、やさしい人たちに」美汐は言った。「みんな、誰かからもらったんだと思う」

 カウンターの向こうで、渚は、カップを一つ、布で拭いていた。その手が、ほんの少しのあいだ、止まった。

 世奈は、カップの縁に、唇を寄せた。ミルクの甘さが、遅れて広がった。窓の外で、灯凪の夕暮れが、深い青に変わっていった。渡す側になった時、受け取ったものは本物だったと知る。

道案内と自分の名前、それだけで、光は次の人へ渡っていきました。

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