第九話 また春が来る
言えなかった言葉をいくつも残して、廊下に春が来ます。
秋の文化祭の日、世奈は、二年生の教室の入口に、青いペンキで描かれた波の看板を見つけた。春之進の指についていた青は、これだった。看板の隅に、小さく、窓の形の絵が足してあった。誰も気づかない、小さな窓だった。
冬の朝、踊り場の窓ガラスは、白く曇った。世奈は、手袋のまま、窓枠の傷に、そっと触れた。冷たかった。それでも、そこにあった。
春になって、世奈は二年生に、春之進は三年生になった。春之進は、受験で、踊り場にほとんど来なくなった。図書室の窓際で、参考書を広げる背中を、廊下から何度か見た。声はかけなかった。かけなくても、そこにいるとわかっていれば、よかった。
そして、また、冬が来た。
その冬の、昼休みだった。踊り場に上がると、春之進がいた。窓の下の壁に、背中をつけて、参考書を膝に置いている。久しぶりだった。
「来た」
あの日と同じ言い方だった。世奈は、少し笑った。
「先輩、受験、あと少しですよね」
「あと一ヶ月」春之進は、参考書の角を、指で撫でた。
「……だいじょうぶ、ですか」
春之進は、すぐには答えなかった。窓の外の、白い空を見ていた。
「たぶん」
「たぶん」
「たぶん、だいじょうぶ」春之進は言った。「言い切れないけど」
世奈は、隣に座った。以前より、少しだけ近い距離で。
「だいじょうぶです、きっと」
春之進が、世奈を見た。驚いたような顔だった。それから、ゆっくり、息を吐いた。
「そっか」
いつもの声だった。でも、その「そっか」は、少し、震えていた。窓枠の傷に、冬の光が、細く差していた。
三月になった。春之進が卒業した。
卒業式の日、世奈は廊下で春之進を見かけた。卒業式の後で、保護者と話しているところだった。胸に、小さな白い造花をつけていた。体育館から流れてきた拍手の余韻が、まだ廊下に残っていた。
世奈は、一歩、踏み出しかけて、足が止まった。声はかけられなかった。遠くから見ているだけだった。春之進の隣で、母親らしい人が笑っている。その笑い声が、廊下の窓から入る光に、ほどけていった。言いたい言葉は、たくさんあった。ありがとう。ここにいていいって言ってくれて。名前を呼んでくれて。それなのに、どの言葉も、口に出す前に、胸の奥で、小さくなった。
見ていたら春之進がこちらを向いて、気づいた。春之進は少し手を上げた。指先が、光の中で、ほんの少し、開いていた。世奈も、小さく手を振った。唇だけで、「先輩」と動かした。春之進の口が、「うん」と、形を作った。
脇に抱えた卒業証書の筒が、光を受けて、細く光った。春之進は、すぐに、母親のほうへ向き直った。振り返らなかった。それがかえって、いつもの春之進だった。
その日の放課後、白灯文庫へ行った。卒業式のあとの図書室は、いつもより、静かだった。窓際のいつもの席に、美汐がいた。胸の造花を、制服の襟から外して、机の上に置いていた。
「来ると思った」
美汐は、立ち上がって、ポケットから、薄い青の栞を取り出した。端が擦れて、何度も、同じ場所に挟まれてきた形の栞だった。
「あげる」
「え、でも」
「いいに決まってるじゃん」美汐は笑った。「次に、迷ってる子が来たら、薄いの、薦めてあげて」
世奈は、両手で受け取った。栞は、ほんの少し、温かかった。
「……ありがとうございます」
「あ、泣かないでよ。あたし、泣くの下手だから」
そう言った美汐の目の縁が、薄く赤かった。窓の外で、春の風が、桜の蕾を、ひとつ揺らしていた。
春之進が卒業して、美汐も卒業して、世奈は三年生になった。踊り場には、今も来ることがある。一人でいる時間が、以前と違う意味を持っていた。逃げ場所じゃなくて、整理する場所になっていた。春之進が言っていた通りだった。窓枠の傷に触れると、春の光を吸って、少しだけ、温かかった。
春になると、新入生が入ってくる。廊下に見慣れない顔が増える。制服が真新しい。地図を見ながら歩く子がいる。グループに入れなくて、一人でいる子がいる。世奈にはわかった。その感じが。
四月の昼休み、踊り場に来ると、誰かがいた。一年生らしき女の子だった。窓際にしゃがんで、何かを食べていた。
世奈は少し止まった。入学して三週間くらいだろうか。教室に居場所を見つけられていないのかもしれない。一人でいることが苦しい時期かもしれない。でも声をかけるべきかどうか、迷った。迷っている自分に気づいて、少し笑った。まだ迷う。でも、踏み出せるようにはなった。
世奈は一歩前に出た。階段の最後の一段が、きゅ、と鳴った。女の子が顔を上げた。警戒した顔をしていた。パンの袋を、胸に抱えている。
「ここ、いていいよ」
世奈は言った。春之進先輩が自分に言ってくれた言葉を、ただ、そう思ったから言った。
女の子は少し驚いた顔をした。
「……誰も来ない場所かと思って」
「たまに来る人いるよ。私もその一人だし」世奈は言った。「急がなくていいから、ここにいて」
女の子は少し黙った。それから「ありがとうございます」と言った。声が少し震えていた。
世奈は少し離れた場所に座った。邪魔しない距離で。でも、一人じゃない距離で。
踊り場の静かさの中に、二人がいた。
世奈は、鞄からパンを取り出した。袋を開ける、かさりという音が、静けさの中で、小さく鳴った。ふと見ると、女の子の抱えている袋と、世奈のパンは、同じ種類だった。購買の、ミルククリームのコッペパン。
二人とも、何も言わなかった。同じ甘さが、同じ時間に、口の中に広がった。
しばらくして、女の子の視線が、窓枠の傷に止まった。指が、そっと伸びた。浅い線を、一度だけ、なぞった。
世奈は、気づかないふりをして、窓の外を見た。空が、広かった。
その日の夕方、Café Lumenへ行った。扉のベルが、からん、と鳴った。窓際のテーブルは、空いていた。いつもの席に、栞を挟んだ本が、置かれているような気がして、世奈は、一瞬だけ、そちらを見てしまった。
渚がいた。美汐はいなかった。
「世奈ちゃん、久しぶり」渚は言った。「表情が変わりましたね」
「また表情の話ですか」
「表情に出るんですよ」渚は笑った。「いいことあった?」
「……誰かに、ここにいていいって言えました」世奈は言った。「昔、私が春之進先輩に言ってもらったこと」
渚は少し間を置いた。「よかったです」
「渚さんは、春之進先輩のこと、ずっと見てたんですよね」
「見てましたよ。変わっていくの、ちゃんと見えてたから」
「私も、見てもらってたんですかね」
「もちろん」渚は言った。「来てくれる人のことは、ちゃんと見てるから」
渚は、カップを磨く手を、止めた。
「春之進くんにも、見てくれてた人がいたんですよ。帆乃華さん、っていう人が」
帆乃華。知らない名前だった。でも、窓枠の傷が、胸の中で、小さく鳴った。「たぶん、前にここにいた誰か」。
渚は、それ以上、言わなかった。
世奈も、聞かなかった。名前だけで、十分だった。誰かが、誰かを見ていた。その誰かにも、見ていた人がいた。
世奈はホットミルクを受け取った。温かかった。窓の外に、春の空があった。
夜、世奈は布団の中で天井を見た。入学して三週間、教室の空気が苦しかった頃を思い出した。踊り場に一人でいた日を。「ここにいていい」と言われた日を。「世奈さん」と呼ばれた日を。「春之進先輩」と呼べた日を。美汐に「似てきたね」と言われた日を。全部が、繋がっていた。もらったものを、渡した。渡したものが、また誰かへ行く。
枕元に、薄い青の栞が、置いてあった。暗がりの中で、そこだけ、朝の海の色をしていた。遠くで、波の音がしていた。四月のあの夜と、同じ音だった。でも、ひとりきりの音では、もう、なかった。世奈は目を閉じた。
翌朝、遊歩道を歩いた。春の光が遊歩道に落ちていた。海の匂いがして、風が吹いた。前を歩く生徒たちがいた。二人で、三人で、笑いながら。世奈も歩いた。一人で前を向いていた。遠くの空が、青かった。
「……春之進先輩」
小さく呼んだ。誰にも聞こえない声で。今頃、どこかの空の下にいる。大学か、別の場所か。でも同じ空の下にいる。
灯凪の春は、静かに来ていた。世奈は遊歩道を歩き続けた。前を向いて。
その時、前から歩いてくる一年生が見えた。地図を持っていた。迷っているようだった。鞄の中の本に、薄い青の栞が挟んである。歩くたびに、背中に、とん、とん、と当たっていた。
世奈は足を止めた。少し迷った。でも一秒で決めた。歩み寄った。
「……だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ」は、あの日から旅をしている。帆乃華から春之進へ。春之進から美汐へ。美汐から世奈へ。世奈から、また次の誰かへ。
灯凪町に、春がまた来た。
光は、終わらない。
了
「だいじょうぶ」の旅はまだ続いていて、あなたの手にも、誰かからの灯りがあるかもしれません。




