第七話 名前を呼べるようになる
九文字の名前を、波に合わせて数えながら歩く朝があります。
七月になった。梅雨が明けた朝、空が、急に高くなった。昇降口の前の花壇で、紫陽花が、青紫に色づいていた。蕾の頃の固い緑が、嘘みたいだった。
期末テストが近づいていた。廊下が少しざわついていた。夏服の白い半袖が増えて、教室の窓が、全部開け放たれている。どこかで、今年初めての蝉が、一度だけ鳴いた。世奈の鞄は、教科書とプリントで、四月より重くなっていた。重さを、肩紐が、少しずつ覚えていく。一学期が、終わろうとしていた。
朝の遊歩道で、世奈は歩幅を数えていた。波が寄せて、引く。その間に、四歩。四歩のあいだに、口の中で、ひとつずつ置いてみる。は。る。の。し。ん。せ。ん。ぱ。い。九文字。一歩では、足りなかった。二歩でも、息が足りなくなる。三歩目で、ようやく「い」が出た。
(これを、本人の前で)
想像しただけで、足が、少し速くなった。
犬の散歩の人とすれ違った。小さな犬が、世奈の靴の匂いを嗅いで、尻尾を振った。
「春之進先輩」
犬に向かって、小声で、言ってみた。犬は、首を傾けただけだった。世奈は、思わず笑った。笑ったら、肩の力が、少しだけ抜けた。
その日、世奈は急いで廊下を歩いていた。移動教室の前に、教科書を取りに戻っていて、予鈴に間に合うかどうか微妙だった。
前から春之進が歩いてきた。いつもの廊下でのすれ違いなら、「先輩、こんにちは」と言って通り過ぎるだけだった。でも今日は向こうが廊下の角を曲がろうとしていた。このままでは見えなくなってしまう。
(呼ばなきゃ)
でも何と呼ぶか。「先輩」では誰のことかわからない。廊下に他の生徒もいる。「春之進先輩」と名前を呼ぶのは、なぜか今まで一度もできていなかった。朝、波と数えた九文字が、頭の中で、ばらばらになった。
角が迫った。窓から入った夏の光が、春之進の白いシャツの背中に、四角く落ちていた。廊下のざわめきが、一瞬だけ、遠くなった気がした。靴の裏が、廊下のワックスの上で、きゅ、と鳴った。
「……は、春之進先輩!」
声が出た。思っていたより大きかった。廊下の何人かが、振り返った。
春之進が振り返った。
世奈は自分の声に驚いて、少し赤くなった。
「世奈さん? どうした」
「あ、えっと」世奈は必死に考えた。「……今日、踊り場に来ますか」
実は、聞きたいことは別にあった。期末テストの範囲のことだった。でも、最初に口から出たのは、それだった。
春之進は「昼ね? 行けると思う」と言った。「何かあった?」
「あ、テストのことで聞きたいことがあって」
「わかった」春之進は頷いた。「また昼に」
そして行ってしまった。
世奈はその場で少し立ち尽くした。予鈴が鳴り始めていた。「春之進先輩」と言えた。ちゃんと届いた。心臓がまだ速かった。でも、恥ずかしさより、別の何かの方が大きかった。自分から呼べた、という感じ。踏み出した、という感じ。
教科書を握った手のひらが、汗ばんでいた。走って、移動教室へ向かった。途中、廊下の窓から、海が、白く光って見えた。
昼休み、踊り場に来た。
春之進がいた。「さっきは何の用? テストの話?」
「はい」世奈は言った。「数学の範囲、どこまでかわかりますか」
「先生に聞いた方が確実だけど、たぶん三章まで」
「ありがとうございます」
「ここ、つまずきやすいとこだけどね」
春之進は、世奈のノートを、そっと自分のほうへ引き寄せた。ペンを借りて、余白に、小さな図を描いた。線がまっすぐで、迷いがなかった。描き終えたペン先が、紙の上で、一度だけ、軽く止まった。
「ここを、こう見ると」
「……あ」
「わかった?」
「わかりました」
ノートが、世奈の手元に、静かに戻ってきた。余白の図は、少しだけ、春之進の体温が残っているような気がした。でも世奈は、テストの話より、「春之進先輩」と呼べた話の方を心の中で繰り返していた。
窓の外で、蝉が、また一度、鳴いた。
パンの袋を開けたのに、世奈は、一口も食べていなかった。袋の口から、甘い匂いだけが、立ちのぼっていた。
「さっき、名前呼んでくれたね」春之進が言った。
世奈は少し固まった。「気づいてましたか」
「気づくよ」春之進は少し笑った。「最初から名前で呼んでくれてよかったのに」
「緊張してて」
春之進は、何も言わなかった。窓のほうを向いて、少しの間、黙っていた。蝉の声が、遠くで途切れて、また始まった。
世奈は、パンを持つ手を止めて、その横顔を見ていた。聞こえなかったのかな、言い方を間違えたのかな、と思った。喉の奥が、少しだけ乾いた。窓枠の傷が、光の筋の中で、細く浮かんでいた。それを見ていたら、少しだけ、呼吸が戻った。
「そっか」
やっと、春之進が言った。それだけだった。でもその「そっか」が、温かかった。窓から入った光が、春之進の指先を、白く透かしていた。
その日の放課後、図書室で美汐に会った。期末前の図書室は、いつもより席が埋まっていた。窓際の長い机に、美汐が先に座っていて、世奈のために、隣の椅子を引いてくれていた。
机の上に、数学の問題集と、ノートを広げる。美汐のペンケースは、色あせた青い布製で、ファスナーの引き手に、小さな貝殻の飾りがついていた。
「ここ、つまずきやすいんだよね」
美汐は、世奈のノートの余白に、小さく図を描いた。線が、まっすぐで、迷いがなかった。昼に、春之進がノートの余白に描いた図と、同じ線の引き方をしていた。
世奈は、何も言わなかった。ただ、二つの図が、頭の中で、静かに重なった。
「ここを、こう見ると、ほら」
「……あ」
「わかった?」
「わかりました」世奈は、小さく息を吐いた。「先輩、教えるの、うまいですね」
「うまくないよ。あたしも、昔、教えてもらっただけ」
美汐は、消しゴムのカスを、指先で集めて、机の端に寄せた。その手つきが、誰かの癖をなぞるみたいに、丁寧だった。
問題を三つ解いたところで、世奈は、ペンを置いた。
「今日、春之進先輩って呼べました」と世奈は言った。
美汐は少し嬉しそうな顔をした。「どんな感じだった?」
「すごく緊張しました。でも、呼べて、よかった」
「それでいい」美汐は言った。「やっと言えたね」
世奈は美汐を見た。「美汐先輩も、最初は緊張しましたか」
「したよ」美汐は笑った。「すごく」
「でも呼べたんですよね」
「うん。呼べた。そしたら、何かが前に動いた気がした」
美汐は、そこで、窓の外を見た。夏の夕方の光が、横顔の輪郭を、薄く縁取っていた。美汐の手の中で、ペンが、くるりと一度だけ回って、止まった。
問題集のページを、世奈は、めくった。紙の音が、二人のあいだで、ささやくように鳴った。世奈は頷いた。前に動いた、という感覚が、少しわかった気がした。
窓の外で、下校のチャイムが鳴った。机の上の消しゴムのカスを、二人で、同じ方向へ、払った。
帰り道、遊歩道は、蝉の声で満ちていた。遊歩道の先の喫茶店の窓には、夏の夕方なのに、もう灯りが点いていた。橙色が、道に、柔らかく伸びていた。防波堤の向こうの海が、夕方の光で、溶けた金属みたいに揺れていた。
世奈は、足を止めた。誰もいなかった。波の音だけがあった。
「春之進先輩」
小さく、声に出した。朝は、平仮名の九文字を、三歩で数えていた。今は、一息で、言えた。その声は、海風に、薄くほどけていった。届いた気がした。
夕日が、世奈の影を、遊歩道の端まで、長く伸ばしていた。その影が、いつもより少しだけ、前を向いていた。
アパートの階段をのぼる前に、もう一度だけ、口の中で言ってみた。数えなくても、もう、迷わなかった。名前を呼ぶことは、心を前に出すこと。世奈は今日、少しだけ前に出た。
名前を呼ぶことは、心をほんの一歩、前に出すことでした。




