第六話 春之進に「世奈」と呼ばれる
梅雨の晴れ間の廊下で、名前がひとつ落ちてきます。
六月になった。梅雨入りの知らせが、朝のニュースで流れた。窓の外の空気が、少し重くなった。踊り場の窓を開けると、湿った風が入ってきて、世奈の前髪を、一度だけ持ち上げた。窓の下の花壇では、紫陽花の蕾が、固い緑の色をしていた。まだ、何色になるのかわからない。
踊り場での昼休みは続いていた。春之進との会話が、以前より少し増えていた。言葉のやり取りが自然になってきた。世奈の方から話しかけることも、少しずつできるようになっていた。
「先輩、今日の一時間目の先生、厳しいって聞いてたんですけど、そうでしたか」
「そんなに厳しくないよ。ただ静かにしてるだけで」
「なんか怖そうで」
「最初だけ。慣れると普通」
こういう話を、少しずつできるようになっていた。世奈はそれが嬉しかった。自分から話しかけることが、こんなにできるようになるとは思っていなかった。春之進が話しやすいせいだと思った。
「梅雨、苦手?」春之進が聞いた。
「髪が、広がるので」
「それは、ご愁傷さま」
そう言って、春之進は少しだけ笑った。世奈も笑った。窓の外で、風が紫陽花の葉を、一枚ずつ揺らしていた。
ただ、「先輩」と呼ぶたびに、その二文字が、口の中で少しだけ空いている感じがした。名前のかわりに置いてある、仮の言葉みたいに。春之進の名前を、本人の前で呼んだことは、まだ一度もなかった。
(呼んでみたい)
そう思う日と、思わない日があった。呼べなかった自分が、そのあと一日、小さくなる気がして。
その日の放課後、廊下は長い光で満たされていた。梅雨の晴れ間だった。窓ガラスに、昼の雨の名残が、細い筋になって残っている。
世奈は数学のノートを抱えて歩いていた。廊下の床のワックスが、光を受けて、水たまりみたいに光っていた。上履きの音が、ぺたぺたと、一人分だけ響いた。ノートの角が、腕のあいだから、少しずつずり落ちていた。気づかなかった。窓の外を見ていた。雨上がりの空は、水で薄めた青色をしていて、その端に、遅れた雲がひとつ、ほどけていた。
気づかずに歩いていたら、後ろから声がした。
「世奈さん、これ」
振り返った。春之進が立っていた。ノートを持って、差し出していた。
「……ありがとうございます」世奈は受け取った。
それだけだった。春之進は「うん」と言って、別の方向へ歩いていった。廊下の光の中を、背の高い後ろ姿が遠ざかる。角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。
世奈はその場で少し止まった。
(世奈さん、って言った)
今まで春之進は、呼びかけるとき、いつも「あのさ」と言っていた。名前を呼ばれたことは、一度もなかった。それが、今日、自然に出てきた。「世奈さん」という四文字が、耳の中でもう一度鳴った。
心臓が少し速くなっていた。何かが降りてきた感じがした。存在を認められた感じ、と言えばいいのか。自分の名前がそこにある、という感じ。
世奈はノートを胸に抱えたまま、廊下に立っていた。窓の光が、足元で、ゆっくり傾いていた。遠くで、吹奏楽の音出しが一音だけ鳴って、止まった。
昇降口に降りると、いつのまにか小雨が降り始めていた。傘立ての青い骨の傘を、手に取った。持ち手が、少し冷たかった。傘を広げると、布を打つ細かい雨の音が、頭の上で鳴った。その音の下で、世奈は小さく、もう一度だけ、口の中で繰り返してみた。
「世奈さん」
自分の声で言うと、全然違う音になった。やっぱり、あの声でなければ、あの温度にならなかった。
夜、机のライトだけをつけて、数学のノートを開いた。表紙の右下に、四月に書いた自分の名前がある。クラスと、出席番号と、「世奈」。黒いペンの字は、少し固くて、どこか遠慮がちだった。書いた日の自分を、そのまま写しているみたいだった。
その字を、指でなぞった。インクの跡は、紙に少しだけ、へこんでいた。余白に、鉛筆で、試しに「世奈さん」と書いてみた。見慣れない字面だった。自分の名前に「さん」がつくと、どこか他人の名前みたいに見えた。しばらく眺めて、消しゴムで、そっと消した。消し跡の白い粉が、ライトの下で、細かく光った。
名前を呼ばれただけだ。委員として名前を覚えているのは当然だし、名前で呼ぶのも普通のことだ。でも、だいじょうぶじゃなかった。「世奈さん」という声が、ずっと残っていた。今日一日のいろいろな音の上に、その声だけが乗っていた。
世奈はノートを手に取った。無意識に、表紙をなでていた。
(なんで表紙なでてるんだろう)
自分でも気づいて、少し笑った。おかしいな、と思った。でも止められなかった。
窓の外で、遠い波の音がしていた。世奈は、小さく声に出してみた。
「……春之進、先輩」
部屋に、自分の声だけが落ちた。誰にも聞こえない声だった。それなのに、頬が熱くなって、慌ててノートで顔を隠した。「先輩」の二文字は、すんなり出た。「春之進」のところだけが、舌の上で、少し重かった。
名前を呼ぶのは、呼ばれるよりも、ずっと勇気がいる。そのことを、世奈は、初めて知った。
電気を消して、ベッドに入った。暗い天井に、「世奈さん」が、もう一度浮かんだ。声には出さず、唇だけで、その四文字をなぞった。毛布の中で、足先が、いつもより温かかった。波の音が、ゆっくり遠ざかっていく。眠る直前まで、廊下の光の色を、思い出していた。
翌日、踊り場で春之進に会った。
「昨日、ノートありがとうございました」と世奈は言った。
「落としてたから」春之進は言った。「気づかなかった?」
「全然。声かけてもらわなかったら、どこいったかわからなくなってました」
「大事なこと書いてた?」
「数学のノートで。テスト前だったら困ってたと思います」
「よかった」春之進は言った。「テスト前じゃなくて」
その会話は、それだけだった。普通の会話だった。
春之進は文庫本を開いた。いつもの、ページをめくる音。その横顔を、世奈は、昨日までより少しだけ長く見てしまった。目が合いそうになって、慌てて窓の外へ逸らした。紫陽花の蕾が、昨日より、ほんの少し膨らんでいた。
「あの、は」
言いかけて、世奈は口を閉じた。「春之進先輩」の「は」だけが、先に外へ出てしまった。
「は?」春之進が、本から目を上げた。
「……歯が、痛いわけじゃなくて」
「うん」
「今日、蒸しますね、って言おうとして」
「梅雨だからね」春之進は、少し不思議そうに言って、また本に目を戻した。
世奈は、膝の上で、パンの袋を握りしめた。耳の奥が、熱かった。
春之進は、今日は、世奈の名前を呼ばなかった。それなのに、呼ばれるのを待っている自分に気づいて、世奈はパンの袋を、静かに畳んだ。昨日の「世奈さん」が、温かいままだった。名前で呼ばれた日は、特別じゃない日に来る。だから余計に、ずっと残る。
その日の放課後、図書室に行くと美汐がいた。世奈は隣に座って、「昨日、春之進先輩に名前で呼んでもらいました」と言った。自分でも驚くくらい、すぐに言った。
美汐は少し笑った。「どうだった?」
返事の前に、世奈は、膝の上で指を組んだ。ほどいて、また組んだ。
「……なんか、ずっと残ってます」
「そっか」美汐は本を閉じた。「それはね、認められたんだよ」
「え?」
「名前を呼ぶって、ちゃんと見てるってことだから。世奈ちゃんのことをちゃんと見てる、って証明みたいなもの」
世奈は美汐を見た。美汐は窓の外を見ていた。何かを思い出しているような顔をしていた。窓ガラスを、細い雨が斜めに流れていた。図書室の蛍光灯が、少しだけ、いつもより白く見えた。壁の時計の秒針が、いくつか進んだ。美汐の指が、栞の端を、静かに折り曲げては、戻した。
「美汐先輩も、そういう経験がありますか」
窓の外で、運動部の掛け声が、遠くへ流れていった。
「うん」美汐は言った。「あるよ」
それ以上は言わなかった。でも、先輩も同じ経験をした。その事実が、世奈を少し楽にした。誰に、とも、いつ、とも、聞かなかった。ただ、栞の薄い青を、見ていた。
美汐は、また本を開いた。さっきと同じページだった。目が、文字の上を、動いていなかった。
世奈は、カウンターの脇の小さな返却ベルを、指で一度だけ弾いた。ちん、という細い音が、棚の奥へ消えていった。「世奈さん」という呼び方が、世奈の中で何かを変えた。それは、自分がここにいることを信じる始まりだった。
呼ばれた名前は、特別ではない日にやってきて、いちばん長く残ります。




