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ここにいていい  作者: Noct
第二部 名前に届くまで

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5/9

第五話 春之進だけ声がやわらかい気がする

同じ「そっか」なのに、なぜか温度が違って聞こえる日があります。

 五月の終わり頃だった。世奈は少しずつ、春之進の話し方が気になっていた。

 踊り場で春之進に会う日が増えていた。週に二、三回は顔を合わせた。その度に少し話した。今日の授業がどうだったとか、外の天気がどうとか、踊り場から見える景色がどうとか。

 そういう小さな話の中で、春之進の声の温度が、いつも同じだと世奈は気づいていた。こちらが何を言っても、「そっか」か「そうだね」か「うん」で受け取る。

(みんなにこうなのかな)

 世奈はそう思っていた。春之進は委員で、クラスの人とも話す。他の人との話し方も、きっとこうなんだろうと思っていた。

 その日、踊り場には先に春之進がいた。窓の下の壁に背中をつけて、文庫本を開いている。世奈の足音に、顔を上げた。

「来た」

 それだけ言って、また本に目を戻した。世奈は、その短さが、なぜか好きだった。

 隣に座って、鞄から紺色の本を出した。借りて、もう二週間近く経つ。短い話が七つ入っていて、世奈は一日に一つずつ、寝る前に読んでいた。読み終えるたびに、ちゃんと終わった感じがした。美汐の言った通りだった。

「それ、図書室の?」

「はい。美汐先輩に薦めてもらって」

「美汐」春之進は、そこで少し笑った。「あいつの薦める本、薄いのばっかりなんだよね」

「……そうなんですか」

「入口に立った人には、薄いのを渡す。そういう人」

 ずっと前から知っている人の癖を、そっと撫でるような言い方だった。

 世奈は、表紙の海の絵に、指を置いた。

「まだ、全部は読み終わってなくて。あと一つ残ってるんですけど、返却日が」

「今日だっけ」

「今週中、です」

「間に合う?」

「……たぶん」

 言ってから、少し足りない気がした。

「間に合わなかったら、延長してもらえばいいよ」春之進は言った。「急いで読むと、読み終わった時の顔が変わるから」

「顔、ですか」

「本って、急いで読み終わると、もったいない顔になる」

 世奈は思わず、小さく笑った。その声の温度が、また、いつもと同じだった。パンを持つ手が、止まっていた。いつのまにか、袋の端を、指でぎゅっとつまんでいた。力を抜こうとして、うまく抜けなかった。

(この声は、どうしてこんなに、急がせないんだろう)

 聞いてみたい、と思った。でも、聞いたら、何かが変わってしまう気がした。だから、聞かなかった。

 代わりに、本を開いた。残りの一編の、最初のページ。春之進も、自分の文庫本に目を戻した。二人分のページをめくる音が、少しずれて、踊り場に落ちた。

 予鈴が鳴るまで、どちらも、何も言わなかった。それが、居心地よかった。

 数日後の昼休み、踊り場に来ると春之進がいた。廊下側に立って、一年生らしき男子と話していた。男子生徒の手には、折れ目のついたプリントが一枚あった。

 世奈は、最後の一段で足を止めた。手すりを握った指に、少し力が入った。

「それ、今日までらしいよ」

 春之進が言った。少し簡潔な言い方だった。男子生徒は「わかりました」と言って、階段を駆け下りていった。上履きの音が、途中で一度すべって、また走り出した。

 春之進は世奈に気づいた。「来てたんだ」

「いました」世奈は言った。「今の、後輩ですか」

「うん。提出物の確認」

「……なんか、私と話し方違う気がします」

 言ってから、世奈は少し焦った。余計なことを言った気がした。耳のあたりが、急に熱くなった。

 でも春之進は「そう?」と言っただけだった。不思議そうに。

「先輩って、私には『急がなくて大丈夫』とか言ってくれるのに、さっきは少し短い感じで」

「……そうかもしれない」春之進は少し考えた。「自分では気づいてなかったけど」

 世奈は春之進を見た。春之進は窓の外を見ていた。窓の向こうでは、雲が一枚、ゆっくり形を変えていた。

(気づいてなかったんだ)

 それが、なぜか少し嬉しかった。意識してやっていることじゃない。無意識に、世奈への話し方がやわらかいとしたら。でも、すぐに「気のせいかもしれない」と思い直した。

 春之進は、窓枠に置いていた文庫本を手に取って、栞代わりの指を、ページから抜いた。

「あのさ」

「はい」

「今のこと、言ってくれてよかった」

「え」

「気づいてなかったから。自分じゃ、わからないことって、あるから」

 世奈は、返事の言葉を探した。見つからなくて、ただ頷いた。喉の奥で、小さく何かが鳴った。

 春之進は、それ以上は何も言わなかった。ただ、文庫本の背で、窓枠を一度だけ、とん、と叩いた。昼休みの終わりを告げる、いつもの合図みたいに。

 その日の放課後、図書室に行くと美汐がいた。カウンターに、紺色の本を置いた。結局、最後の一つは、昨日の夜、ゆっくり読んだ。

「返却です。あと、えっと」世奈は少し言いよどんだ。「もう一冊、借りたくて」

「お」美汐は笑って、貸出カードを引き出しから出した。「次は何にする?」

「まだ、決めてないです」

「じゃあ、決まるまでここにいなよ」

 返却印を押す、ぽん、という音が、図書室の静けさに、一つ落ちた。

 世奈は、窓際の席に座った。美汐も、隣の席に、本を持って座った。

「世奈ちゃん、最近よく来るね」

「落ち着くので」

「うん、わかる」美汐は言った。「ところで、最近顔上げて歩いてるよ」

 世奈は首を傾けた。「そうですか?」

「うん。最初の頃より、前を見てる感じがして」

 世奈は自分では気づいていなかった。「……踊り場に居場所ができたからかもしれないです」

「踊り場?」

「昼休みによく行く場所があって。そこで、先輩に声かけてもらって」

 美汐は少し考えた顔をした。「どんな先輩?」

「春之進先輩っていう二年生で」

 美汐の顔が、少し柔らかくなった。「春之進か」

「知ってますか?」

「うん、知ってる」美汐は言った。「……世奈ちゃんには、声がやわらかかった?」

 世奈は少し驚いた。「どうしてわかるんですか」

「なんとなく」美汐は笑った。「あの人、そういうとこあるから」

 美汐は、栞の端を、指でなぞった。少しの間、何も言わなかった。窓の外で、風が木の葉をひっくり返していた。

「あの人ね」美汐は言った。「前に一度だけ、言ってたことがあるの。自分も、誰かに『だいじょうぶ』って言ってもらったんだって」

 世奈の指が、止まった。

「……誰に、ですか」

「それは、聞かなかった」美汐は首を振った。「聞いたら、あの人、困る気がして」

 窓枠の傷が、頭の中で、小さく光った。「たぶん、前にここにいた誰か」。春之進の声が、あの日と同じ温度で、よみがえった。

 世奈は美汐を見た。美汐は何か知っているような顔をしていた。でも、それ以上は言わなかった。

 世奈は図書室を出てから、美汐の言葉を繰り返した。「そういうとこがある」。

(やっぱり、気のせいじゃないのかもしれない)

 帰り道は、橙色だった。遊歩道の上に、世奈の影が、長く伸びていた。いつもより、少しだけ背が高く見えた。

 遊歩道の先に、いつもの喫茶店の灯りが見えた。窓の橙色が、夕方の空と、同じ濃さになっていた。

 鞄の中には、新しく借りた本が一冊入っている。歩くたびに、とん、とん、と背中に当たった。

 防波堤の向こうで、海が金色に光っていた。波が一つ崩れるたびに、光が細かく割れた。

 世奈は、口の中で、そっと言ってみた。

「だいじょうぶ」

 英語の時間に、喉から出た言葉と、同じ言葉だった。あの日は、壁だった。誰も入ってこられないようにするための。でも、今日の「だいじょうぶ」は、少し違う形をしていた。誰かから、誰かへ。渡されるための言葉の形を、していた。

 世奈は立ち止まって、海を見た。波の音が、足元で、規則正しく寄せては返していた。誰かが気づいた時、それは現実になる。美汐は、世奈の中で何かが動いていることを、静かに見ていた。

人は、自分が渡している優しさを、案外知らないまま誰かを照らしています。

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