第四話 図書室で美汐と出会う
白灯文庫の引き戸は、思ったより軽く動きます。
五月になった。踊り場での昼休みが、世奈の日課になっていた。毎日春之進が来るわけじゃなかった。来る日と来ない日があった。来ない日は一人でいた。でも、一人でいることが、以前ほど重くなかった。「ここにいていい」という言葉が、そこにあったから。
窓枠の傷には、もう指を伸ばさなくなっていた。そこにあるとわかっていれば、触れなくても、よかった。
春之進が来る日は、たいてい文庫本を読んでいた。世奈は、隣でパンを食べた。声はあまりかけなかったし、かけられなかった。それで、よかった。
教室では、少しずつ声をかけられることが増えていた。隣の席の子が話しかけてくれることがあった。グループの端っこに入れてもらえることがあった。
その日の昼休みの終わり、教室に戻ると、窓際に四、五人が集まっていた。誰かが持ってきたクッキーの缶が、机の真ん中に置かれていた。
「あ、世奈ちゃん」
隣の席の子が顔を上げた。
「食べる? バター多めのやつ」
缶の蓋の裏で、クッキーが小さく鳴った。四角いのと、丸いのと。
世奈は、一瞬、足を止めた。英語の時間の「だいじょうぶ」が、喉まで上がってきた。あの言葉を言えば、いちばん簡単だった。
「……ありがとう」
世奈は、丸いほうを一枚、つまんだ。輪の端に、立った。誰かの話に、みんなが笑う。世奈の笑いは、半拍、遅れた。遅れても、誰も気にしなかった。クッキーは、バターの味がして、噛むとほろりと崩れた。
「世奈ちゃん、お昼、いつもいないよね」
隣の子は、責めるでもなく、言った。
「……ちょっと、静かなところに」
「そっか。いいね、そういうの」
それ以上は、聞かれなかった。世奈は、そのことに、少しだけ救われた。
予鈴が鳴って、輪がほどけていく。世奈の指先に、細かい粉が残っていた。それをハンカチでそっと拭きながら、席に戻った。
世奈の方から声をかけることは、まだできなかった。でも、かけてもらえれば、答えられるようになっていた。それだけで、少し違った。
放課後、図書室に行った。春之進が本を読むと言っていたから、図書室がどんな場所か気になっていた。一階の廊下の突き当たりに、その部屋はあった。扉の上に、古い木の札がかかっている。生徒は誰も「図書室」としか呼ばないけれど、札には、墨のような字で「白灯文庫」と彫ってあった。
引き戸を、そっと引いた。思ったより、軽く動いた。扉を閉めると、廊下の音が、一枚分、遠くなった。古くなった紙と、新しい紙と、窓から入る埃の匂いが、薄く混ざっていた。
入ってみると、静かだった。棚が並んでいて、窓から光が入っていた。踊り場と違う静けさだったけれど、どちらも落ち着く静けさだった。
入口のすぐ脇に、貸出のカウンターがあった。誰もいなくて、返却された本が、ひと山、斜めに積まれている。壁の時計の秒針の音が、いつもより近かった。
棚の間を歩いていたら、窓際の席に女子生徒がいた。世奈と目が合った。
女子生徒は少し微笑んだ。「こんにちは」
「こんにちは」世奈は言った。
読んでいた本を指で押さえたまま、その人は世奈を見ていた。
「よく来るの? 図書室」
「初めてです」
「そっか」女子生徒は言った。「いい場所だよ、ここ。静かで」
世奈は少し考えてから、近くの席に座った。その人から少し離れた席に。
机の木目が、指に触れた。誰かの鉛筆の跡が、薄く残っている。窓の外で、運動部の声が、小さく聞こえた。
しばらく本を選ぼうとしたけれど、どれを選べばいいかわからなかった。ただ棚を見ていた。背表紙の文字は、どれも知らない名前で、どれも知らない題で、並んで静かにしていた。背の高い一冊に手を伸ばして、重さに驚いて、そっと戻した。
「何か探してる?」女子生徒が言った。
「いえ、なんとなく来ました」
「なんとなく、か」その人は笑った。「あたしも最初そうだった。なんとなく来て、気づいたら定位置になってた」
「先輩ですか」
「二年。美汐」
美汐先輩。世奈は繰り返した。
「世奈です」
「世奈ちゃんか」美汐は言った。「一年生?」
「はい」
「灯凪、慣れてきた?」
世奈は少し考えた。「少しずつ」
「それでいいと思う」美汐は言った。「最初からわかることなんてないから」
その言葉は、春之進の「急がなくて大丈夫」と、同じ温度をしていた。この学校の人は、急かさないのかもしれない、と世奈は思った。
美汐は、読んでいた本を閉じた。ページのあいだに、薄い青色の栞を挟んでから。栞の端は少し擦れていて、何度も、同じ場所に挟まれてきた形をしていた。薄い青は、朝の海の色に、少し似ていた。
「世奈ちゃん、本、苦手?」
「苦手というか……どれを読めばいいか、わからなくて」
「最初は、薄いのがいいよ」
美汐は立ち上がって、棚の間をゆっくり歩いた。世奈は、少し離れて、その背中を追った。美汐の指が、背表紙の上を、いくつか通り過ぎて、一冊の前で止まった。
「これ」
薄い、紺色の本だった。表紙に、小さく、海の絵が描いてあった。
「短い話が、いくつか入ってるの。一つ読み終わるたびに、ちゃんと終わった感じがするから」
世奈は、受け取った。思ったより、軽かった。
「借りてみたら?」
「……借りても、いいんですか」
「いいに決まってるじゃん」美汐は笑った。「そのための部屋だよ」
世奈は、その「いいに決まってる」を、胸の中で、少しの間そのままにしておいた。
カウンターに、貸出カードが置いてあった。美汐が、カードの束から一枚を抜いて、世奈に渡した。
「名前、ここ」
ボールペンを借りて、カードの欄に、自分の名前を書こうとした。手が、一瞬、止まった。自分の名前を、自分の手で書くのは、久しぶりな気がした。名簿の上では、他の人の字で並んでいる自分の名前。それを今、自分の字で、小さな欄の中に置く。書き終えた字は、少し震えていた。
美汐は、それをちらっと見て、何も言わなかった。ただ、カードを受け取って、本の裏に、静かに挟んだ。
「二週間ね。延長したかったら、言って」
「はい」世奈は言った。
本は、両手で持つと、体温より少し冷たかった。
図書室に三十分いた。
美汐とは、ぽつりぽつりと話した。会話が続くわけじゃなかったけれど、静かな時間を共有していた。美汐は、窓際の席に戻って、栞を挟んだ場所から、また読み始めた。世奈は、借りたばかりの本の最初のページを、そっと開いた。
最初の一行は、雨の降る朝の話だった。世奈は、その一行を、二回読んだ。活字の列が、ゆっくり目に入ってきた。ページをめくる音が、二つ、少しずれて、図書室に落ちた。
窓の外が、いつのまにか、橙色に変わっていた。棚の影が長く伸びて、床の木目を横切っていた。
帰り際、美汐が言った。「また来なよ。ここ」
「はい」世奈は言った。
外に出て、遊歩道を歩きながら、世奈は今日のことを考えていた。踊り場の春之進先輩、図書室の美汐先輩。知らない人に声をかけられて、話して、また来てと言われた。鞄の中で、借りた本が、歩くたびに軽く揺れた。
遊歩道の先に、小さな喫茶店の灯りが見えた。まだ一度も入ったことのない店だった。窓の中が、橙色に、ぼんやり明るかった。
(灯凪って、こういう町なのかもしれない)
なんとなくそう思った。
アパートに帰って、机の上に、その本を置いた。名簿の隣に。紺色の表紙の海が、蛍光灯の下で、少し深い色になった。気づく人が現れた時、変化は静かに始まる。
震えた字で名前を置くことは、「ここにいます」と小さく言うことでした。




