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ここにいていい  作者: Noct
第一部 ここにいていい

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3/9

第三話 居てもいいと言われる

窓枠の小さな傷は、誰かが先にここにいた印です。

 翌日も、踊り場に来た。昨日と同じ場所に座った。窓の下の壁に背中をつけると、昨日と同じ高さに、昨日と同じ光があった。パンを取り出した。

 昨日と同じだった。でも、少し違った。昨日は「誰かに見つかったら恥ずかしい」と思いながら座っていた。今日は、少しだけ「ここが自分の場所かもしれない」という感じがあった。たった一日で変わるものか、と世奈は思った。でも、変わっていた。

 窓枠の傷を、指でそっとなぞってみた。浅い、爪の先ほどの線。誰が付けたのかは、わからなかった。

 十分ほど経った頃、足音がした。昨日と同じ足音だった。春之進が降りてきた。急がない、同じ間隔の音。それだけで、誰が来たのかわかった。

 世奈を見て、「また来てた」と言った。ただ、確認した、という感じだった。

「先輩も来たんですか」

「うん」春之進は世奈から少し離れた壁に寄りかかった。「ここ、意外と人来ないんだよね。みんな購買行ったり教室いたりするから」

「知らない人が来るかと思って、最初は緊張しました」

「俺が来た」春之進は言った。

「……先輩も知らない人でした」

 春之進は少し笑った。「そうだね」

 世奈も、少し笑った。笑ったことに、自分で少し驚いた。学校で、ちゃんと笑ったのは久しぶりな気がした。笑い声のあとの静けさは、いつもの静けさと、少し違っていた。窓から入る光が、二人のあいだの床に、四角く落ちていた。

 しばらくして、春之進が言った。「教室、苦手って言ってたけど」

「はい」

「慣れないといけない、って思ってる?」

 世奈は少し考えた。パンの袋が、指の中でかさりと鳴った。

「……思ってます。慣れなきゃいけないって」

「そっか」

 春之進はすぐには続けなかった。窓のほうへ顔を向けたまま、窓枠に指を置いた。傷のあるあたりだった。親指が、浅い線の上を、一度ゆっくり往復した。

 踊り場に、少しだけ長い沈黙が落ちた。階下から、椅子を引く音が遠く聞こえた。

「慣れた方がいいとは思う」春之進は言った。「でも、慣れるまでの間、どこかにいていい場所がある方がいい気もして」

 世奈は春之進を見た。

「ここ、いていい場所だよ」

 窓の外を見ながら、特別なことを言っているわけじゃない、という声だった。

「誰に迷惑かけるわけでもないし」

 世奈は踊り場を見た。いていい場所。その言葉が、思いがけず胸の奥まで届いた。迷惑じゃない。ここにいていい。それだけのことが、今の世奈には大きかった。

 パンを持つ手が、止まっていた。喉の奥が、少しだけ熱かった。何かを飲み込む順番を、体が忘れてしまったみたいだった。返事を探して、見つからなくて、世奈はただ春之進を見ていた。

 春之進は、急かさなかった。

「……ありがとうございます」世奈は言った。

「別に」春之進は言った。「俺もたまに来るから、いる時は一緒にいるだけで」

「一緒にいるだけで」という言い方が、世奈には、とても軽くて、とても重かった。

 指が、窓枠から離れた。

「この傷さ」春之進が言った。「俺が来る前から、あったんだよね」

「……誰のなんですか」

「さあ。たぶん、前にここにいた誰か」

 春之進は、それ以上言わなかった。その「誰か」が、春之進にとってどういう人なのかは、世奈にはわからなかった。ただ、傷の上を往復した指の動きだけが、残った。

 春之進は文庫本を開いた。ページをめくる音が、ときどき、踊り場に落ちた。世奈はパンを食べながら、その音を数えるともなく聞いていた。チャイムが鳴る前に、春之進は「じゃあ」と言って、先に階段を降りていった。「また」とは言わなかった。それでも、また来る気がした。

 その日から、踊り場が変わった。逃げ場所だったものが、自分の場所になった。誰かに「ここにいていい」と言われただけで、そうなった。

 世奈は不思議に思った。場所は変わっていない。自分も変わっていない。ただ、一言あっただけだ。でも、確かに変わった。

 翌朝、昇降口で靴箱の蓋を閉める音が、前より少しだけ小さく聞こえた。

 数日後、朝から雨が降った。傘をさして、遊歩道を歩いた。海は、雨の向こうで白く溶けていて、水平線はどこにもなかった。それでも、波の音だけは、傘の布越しに聞こえていた。

 昼になっても、雨は止まなかった。購買のパンは、雨の日のせいか、いつもより早く減っていた。残っていたコッペパンを一つ買って、階段をのぼった。濡れた床で、上履きの底がきゅっと鳴った。踊り場は、いつもより暗かった。窓の外は灰色で、グラウンドには大きな水たまりがいくつもできている。雨粒が窓ガラスを叩く音が、廊下の静けさの上に、絶えず降っていた。

 世奈は、袖口が濡れているのに気づいた。傘から落ちた水が、いつのまにか染みていた。指でつまんで、少し絞った。壁にもたれて、座った。春之進は、来なかった。

 曇った窓ガラスに、指を当ててみた。冷たさが、指先に残った。指を離すと、小さな丸い跡が、ゆっくり消えていった。

 来る日と来ない日がある。わかっていた。わかっているのに、階段の下で足音が鳴るたびに、顔が上がった。違う足音だった。

 一人で、パンを食べた。コッペパンにはミルククリームが挟まっていて、噛むたびに、甘さが遅れて口に広がった。

 雨の匂いが、窓の隙間から入ってきていた。土と、濡れたコンクリートと、遠い海の匂いが混ざっていた。

 その時、階段の下から足音がして、女子生徒が一人、のぼってきた。急いでいる足取りだった。踊り場に座っている世奈を、ちらりと見て、そのまま上の階へ行ってしまった。

 世奈の体が、一瞬だけ固くなった。でも、立ち上がらなかった。誰も何も言わなかった。足音は上の階に消えて、また雨の音だけが残った。

 世奈は、パンを持ち直した。いつもなら、あの視線を一日中引きずっていたはずだった。今日は、袖を絞った指の冷たさのほうが、先に消えた。

(ここにいていい)

 声には出さなかった。でも、その言葉が、膝の上のパンの袋の下で、静かに温かかった。

 窓枠の傷に、そっと指を置いてみた。春之進がしたのと同じように。親指で、浅い線をなぞる。冷たかった。それでも、誰かが先にここにいたということだけは、指先に伝わってきた。その人にも、雨の日があったのだろうか、と思った。

 春之進が来ない日も、踊り場に来るようになった。一人でも、以前より落ち着いていられた。「ここにいていい」という言葉が、一人でいる時間を守ってくれている気がした。

 窓の外で、雨が少しだけ弱くなった。雲の切れ間が、一度だけ薄く明るくなって、すぐに閉じた。

 放課後、傘を広げた。布を打つ雨の音が、頭の上で、丸く響いた。校門を出ると、坂の下に、海の気配があった。見えないのに、音と匂いだけで、そこにあるとわかった。

 歩きながら、世奈は思った。傘の下は、狭い。でも、この狭さの中なら、誰にも見られずに、息ができる。踊り場も、そうだった。言葉も、そうなのかもしれない。見えなくても、そこにある。

 濡れた靴で、遊歩道を歩いた。水たまりを一つ避けて、一つは避けなかった。「いていい」と言われることは、存在を認められること。世奈の中で、何かが少し動き始めた。

場所は変わらないまま、「いていい」のひと言で、そこは違う場所になりました。

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