第二話 階段で春之進に会う
誰も通らない踊り場に、急がない足音がひとつ降りてきます。
次の日も、世奈は踊り場に来た。教室を出る前に、一度だけ廊下の左右を見た。誰にも見られていないことを確かめてから、階段をのぼった。悪いことをしているわけでもないのに、足音をなるべく立てないようにしていた。
昨日一人でいた場所だ。誰もいなかった。静かだった。窓から光が入ってきていた。階下から、購買の声が薄く上がってくる。「焼きそばパン、あと三つ!」「並んで並んで」。その声は、ガラスを一枚隔てたみたいに遠かった。
世奈は窓の下の壁に背中をつけて、腰を下ろした。床のリノリウムは、昼の光を受けて、ほんのり温かかった。窓枠には、誰かがいつか付けた小さな傷がある。爪で引っかいたような、短い線。世奈は、その傷を目で追った。
窓の外には、グラウンドの端が見えた。体育の白線が、午後の光で薄く光っている。その向こうの空を、雲がゆっくり動いていた。
パンを取り出した。袋を開けると、小麦と砂糖の匂いが、踊り場の埃っぽい空気に混じった。ここが昼休みの定位置になりそうだ、と思った。寂しいかもしれない。でも、教室の笑い声の中で浮いている感じより、ここで一人でいる方が楽だった。
パンを一口食べた。廊下に足音がした。世奈は少し身を縮めた。見つかったら、なんとなく恥ずかしい気がした。一人でこんな場所にいることを、誰かに見られたくなかった。
足音は、上の階から降りてきていた。急いでいない音。上履きの底が、一段ずつ、同じ間隔で床を鳴らす。音が、踊り場の手前で止まった。男子生徒だった。二年生か三年生に見えた。背が高くて、姿勢がよかった。手に、文庫本を一冊、指で挟んで持っている。
その人は踊り場で足を止めた。手すりに片手を置いた。金属の手すりが、光を受けて、細く光った。世奈を見た。
世奈は思わず目を伏せた。パンを持つ指に、力が入った。
「……ここ、よく来るの?」
ただ、気になったから聞いた、という声だった。
「き、昨日も来ました」世奈は小さく答えた。
「そっか」その人は言った。「静かでいいよね、ここ」
世奈は顔を上げた。その人は窓の外を見ていた。光が横顔の半分に当たっていた。
「先輩、ですか」
「二年。春之進」
春之進。聞いたことのない響きだった。世奈は心の中で、音だけをなぞった。
「……世奈です」
春之進は世奈を見た。特別な感じじゃなかった。ただ、聞こえたから受け取った、という感じで頷いた。
「昼、ここで食べてるの?」
「教室が、少し苦手で」世奈は正直に言った。言ってから、余計だったかと思った。知らない先輩に、そんなことを言う必要はなかった。
返事が来るまで、少し間があった。でも春之進は「そっか」と言った。それだけで、責めたりせず、「教室にいた方がいいよ」とも言わなかった。
「急がなくて大丈夫」春之進は続けた。「慣れるまで時間かかることあるから」
世奈は春之進を見た。春之進は窓の外を見ていた。しばらく、二人とも黙っていた。変な沈黙じゃなかった。踊り場の静かさの中に、それぞれがいる感じだった。
世奈はパンをもう一口食べた。春之進は窓の外を見ていた。何かを考えているようだった。あるいは、何も考えていないのかもしれなかった。手すりに置いた春之進の指が、間を置いて、とん、と一度だけ手すりを叩いた。考えごとの拍子みたいだった。
階下から、誰かが笑う声が上がってきて、また下がっていった。
「先輩も、昼ここに来るんですか」
「たまに。考えることがある時」
「何を考えるんですか」
「いろいろ」春之進は言った。「でも、ここにいると少し整理される気がして。本読むのにも、ちょうどいいし」
世奈は、春之進の手の中の文庫本に目をやった。紙のカバーがかかっていて、題名は見えなかった。
「何を読んでるんですか」
「まだ、読み始めたところ」春之進は、指で挟んだページを少しだけ開いて、すぐに閉じた。「面白いかどうかは、読み終わらないとわからないんだよね」
その言い方を、少しだけ覚えておこうと思った。
踊り場を見渡した。廊下の途中にある、特に何もない場所だった。窓があって、光が入ってきていて、外の音が少し聞こえる。確かに、整理される感じがするかもしれなかった。
世奈は、窓の外に目を移した。同じ空を、同じ高さで見ているはずなのに、隣に立つ人がいるだけで、空の広さが少し違って見えた。
「困ってない?」春之進が聞いた。
「え?」
「学校。困ってることあったら、聞けるよ。二年の学級委員だから。入ったばかりの一年の相談も、たまに受けてるし」
世奈は少し考えた。困っていることはあった。でも、委員に聞く種類のことじゃなかった。輪の外にいる感じとか、声をかけられない自分のこととか。
昨日、英語の時間に口から出た言葉が、まだ喉の奥に残っていた。
「……大丈夫です」と世奈は言った。
春之進は頷いた。「そっか。何かあったら言って」
それだけだった。春之進は「じゃあ」と言って、階段を降りていった。
世奈はその背中を見ていた。春之進は、最後まで振り返らなかった。それがかえって、安心だった。
上履きの音が、一段ずつ遠ざかる。下の階を曲がって、聞こえなくなるまで、世奈は息を細くしていた。足音が消えたあとの静けさは、さっきまでのものと、少し違っていた。
「そっか」という声の高さを、口の中で、一度だけ真似してみた。自分の声では、同じ温度にならなかった。
何だったんだろう、と思った。知らない先輩が話しかけてきて、少し話して、行ってしまった。
手に持ったままのパンは、まだ半分残っていた。でも、踊り場の空気が少し変わった気がした。さっきより、少し明るかった。パンの袋を小さく畳んで、鞄の内ポケットに入れた。
予鈴が鳴って、世奈は立ち上がった。窓枠の傷に、もう一度だけ目をやった。教室に戻ると、扉の前で、いつもほど止まらなかった。
隣の子が教科書をめくる音が、昼までと同じ大きさで聞こえた。同じ教室だった。光の入り方も、きっと同じだった。それなのに、座っている椅子の高さが、ほんの少し変わったような気がした。
放課後、帰り道を歩きながら、世奈は春之進のことを考えていた。「急がなくて大丈夫」、「困ってない?」という言葉が心に残っていた。ただ、そこにいてくれた。声の温度が、やわらかくて。
世奈には、そういう声をかけてもらったことが、あまりなかった気がした。最後にそういう声を聞いたのは、いつだっただろう。思い出そうとして、途中でやめた。
前を歩く生徒たちの声は、今日は少し遠くで鳴っていた。聞こえているのに、そこに自分を重ねなくて済んだ。
遊歩道の途中で、足が止まった。ベンチがあった。いつもは通り過ぎるだけだった、海側のベンチ。
鞄を膝に抱えて、座ってみた。靴の裏で、砂がざり、と鳴った。鞄のファスナーの金具が、手の甲に冷たかった。木の座面は、一日分の日光を吸って、まだ温かかった。目の前に防波堤があって、その向こうに、海があった。教室の窓から見ていたものより、ずっと近くて、ずっと大きかった。
水は、思っていたより青くなかった。灰色と緑のあいだの色をしていて、波が来るたびに、その色が少しずつ違う方へ傾いた。防波堤の根元に小さな波が当たって、白く崩れる。短い音を立てて、また引いていく。遠くで、海鳥が一羽、風の上に浮かんでいた。
海が好きかどうか、世奈はまだわからなかった。でも、嫌いじゃなかった。ここにいても、誰にも何も言われなかった。
波の音を聞きながら、今日聞いた名前を思い出した。春之進。声には出さず、心の中だけで。もう一度、音だけ繰り返してみた。やっぱり、聞いたことのない響きだった。でも、嫌な響きじゃなかった。
(明日も、来るかもしれない)
そう思ってから、自分で少し驚いた。
日が傾いて、ベンチの温かさが、少しずつ薄れていった。世奈は立ち上がった。鞄を持ち直して、坂を下って帰った。
アパートの階段をのぼる足音が、昨日より少しだけ軽かった。部屋の窓を開けると、遠くの波の音が、ベンチで聞いたものと同じ形をしていた。
何も解決しなくても、ただそこに立っていてくれた人のことを、思い出しています。




