第一話 教室の空気が苦しい
扉を開けるまでの十歩を、毎朝数えている人がいます。
朝の遊歩道は、まだ眠っている途中の匂いがした。海の水がゆっくり動いている音と、遠くの自転車のブレーキ。制服の袖口に、潮の湿り気がうっすらつく。
世奈は鞄の持ち手を両手で握って歩いていた。前を行く生徒たちの背中は、二人ずつ、三人ずつ、同じ速さで揺れている。その速さに自分の足を合わせることが、世奈にはまだ難しかった。合わせようとすると、かえって歩幅がずれた。
入学して三週間。三週間あれば、もう少し慣れると思っていた。前の中学では、慣れるのに一ヶ月かかった。だから高校では、もう少し早くなるかもしれないと思っていた。
正門坂をのぼって、昇降口で靴を履き替える。世奈の靴箱は、上から二段目の端だった。隣の靴箱の扉には、もう誰かのキーホルダーが揺れていた。蓋を閉める音が、廊下の奥まで響いた。
階段をのぼって、一年の教室の前に立つ。扉の向こうから、声がしていた。昨日のドラマの話。誰かの笑い声。世奈の席は、窓際の前から三番目。扉を開けてから席に着くまで、十歩。毎朝、その十歩を数えていた。
世奈は取っ手に手をかけたまま、そこで止まった。入るだけだ。扉を開けて、席に座るだけ。誰も世奈を見ない。見たとしても、すぐに目を逸らす。わかっているのに、手のひらが取っ手の冷たさを覚えるまで、動けなかった。
一つ息を吸った。扉を引いた。四月の教室は、明るすぎた。窓から春の光が入ってきて、新しい制服の白が眩しくて、どこもかしこもぴかぴかしていた。世奈はその明るさの中で、少しだけ息が詰まる感じがしていた。
「おはよう」
隣の席の子が、ちらりとこちらを見て言った。
「……おはよう」
返事は、思ったより小さく出た。隣の子はもう前の席の子の方を向いていて、その声が届いたのかどうかは、わからなかった。その背中を、世奈は少しの間見ていた。
窓際の席に座って、窓の外を見た。グラウンドが見えた。その向こうに、少しだけ海が見えた。
灯凪は海のある町だった。世奈は海が好きかどうかわからなかった。ただ、遠くに見える水平線が、教室の空気よりずっと広くて、少し楽だった。
教室にはもう、グループができていた。こんなに早く、と世奈は思っていた。入学初日に隣になった子が仲良くなって、その子の知り合いと繋がって、気づいたら輪ができている。そういうものらしかった。
休み時間のたびに、輪は少しずつ形を変えた。笑う場所と、笑う順番が、いつのまにか決まっていた。世奈は、その順番表を見せてもらえないまま、教室に座っていた。
世奈は、輪の端っこに引っかかっていた。完全に一人というわけじゃない。声をかければ答えてくれる子はいる。でも、昼休みに「一緒に食べよう」と声をかけられることはなかった。
(声をかければいいのか)
わかっていた。でも、声をかけることが怖かった。迷惑じゃないだろうか。もう人数が揃っているんじゃないか。断られたら、どうしよう。
休み時間は、机の中の教科書を揃えて過ごした。揃えたものを、もう一度揃える。時計の針が進むのを、教室の端から見ていた。針は、思っていたよりもゆっくり動いた。考えているうちに、昼休みが終わる。それを毎日繰り返していた。
三時間目は、英語だった。先生が教卓から教室を見渡して、明るい声で言った。
「じゃあ、隣同士でペアになってください。今日は会話練習です」
椅子が一斉に鳴った。机が少しずつ寄せられて、あちこちで「よろしく」「どうする?」という声が弾けた。
世奈の隣の席の子は、もう後ろの席の子と向き合っていた。振り返ったその子の顔は、悪気のない顔だった。ただ、世奈の席のほうへは、体が向いていなかった。
世奈は教科書を開いたまま、動かなかった。指先で、ページの端を折りそうになって、やめた。周りがだんだんと静かになって、会話の声が、あちこちで英語に変わっていく。ペアのできていない机は、教室の中でたぶん世奈だけだった。時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。窓の外では、体育の笛が一度だけ鳴った。
「あの」
斜め前の席の女子が、振り向いた。三人組の一人だった。
「三人でもよかったら、入る?」
その子は、笑って言った。嫌そうな顔じゃなかった。本当に、入ってもいいという声だった。
世奈は、その子の目を見た。入りたい、と思った。でも、三人の中に自分の椅子を差し込む音を想像したら、喉の奥が固くなった。
「……だいじょうぶ」
言ってから、自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「そっか」
その子は少し首を傾げて、前を向いた。
先生が気づいて、世奈の机の前までやってきた。
「じゃあ、先生とやろうか」
先生は笑っていた。やさしい笑い方だった。世奈は、「はい」と答えた。
英語の例文を読み上げながら、世奈は、さっきの「だいじょうぶ」を思い出していた。だいじょうぶじゃなかった。でも、だいじょうぶと言うのが、いちばん簡単だった。
その日の昼休み、世奈は購買でパンを買った。教室に戻ろうとして、戻れなかった。教室から笑い声が聞こえた。楽しそうな声だった。その声の中に入っていけない気がした。
世奈は廊下を少し歩いた。どこかに座れる場所がないか探した。購買の前の列は、まだ長かった。階段の下の自販機が、低い音で唸っている。窓ガラスに、パンの袋を抱えた自分が薄く映って、その横を誰かが笑いながら通り過ぎていった。映った自分は、廊下の景色のひとつみたいだった。
階段の踊り場に、誰もいなかった。窓があって、外が見えた。光が入ってきていた。世奈はそこに腰を下ろした。パンの袋を膝の上に置くと、袋がかさりと鳴った。
誰もいない場所で、一人でパンを食べた。味は、よくわからなかった。噛むたびに、袋の端が指の中で小さく折れた。
おかしいな、と思った。高校生になったら何かが変わると、中学の時と同じじゃないと思っていた。でも、同じだった。輪の外で、声をかけられなくて、一人でいる。
(うまくいかないな)
窓から空を見た。空は広かった。教室の明るさとは違う、落ち着いた明るさだった。世奈はそれを少しの間見ていた。
遠くで予鈴が鳴った。昼休みが終わる前に、教室に戻った。何事もなかったように席に座った。誰も気づかなかった。
放課後、世奈は一人で帰った。校門を出ると、坂の下に海が見えた。昼より少し深い色に変わっていて、水平線の上に、薄い雲が一本だけ伸びていた。
遊歩道を歩いた。海の匂いがした。風が吹いた。前を歩く生徒たちが、二人で、三人で、笑いながら歩いていた。世奈は少し遅れて、一人で歩いた。
おかしいことじゃない。一人で歩いている人は他にもいる。でも、二人の間にある会話が、今日の世奈には少し遠く感じた。
アパートに帰って、制服を脱いで、ハンガーにかけた。部屋は、夕方の色をしていた。カーテンの端が、窓の隙間から入る風で、ほんの少し揺れた。遠くで、波の音がしていた。窓を少し開けると、潮の匂いが部屋に入ってきた。一日ぶんの息を、そこでようやく吐いた気がした。
机の上に、入学式の日にもらった名簿が置いてあった。クラスの名前が、五十音の順に並んでいる。世奈は、なんとなく指で上からなぞった。知らない名前が、まだほとんどだった。自分の名前のところで、指が止まった。紙の上の文字は、誰が読んでも同じ形をしていた。名簿を、そっと元の場所に戻した。
ベッドに横になって、天井を見た。何が苦手なんだろう、と考えた。人が嫌いなわけじゃない。話しかけてもらえれば、ちゃんと話せる。でも、自分から踏み出す最初の一歩が怖い。断られる気がする。迷惑かもしれないと思う。だから止まる。止まったまま、三週間が過ぎた。
波の音が、規則正しく、遠くで寄せては返していた。このまま一年間が終わるんだろうか、と思った。おかしくはない。一人でいることは、別に悪くない。でも、誰かとパンを食べる昼休みを、少しだけ想像した。その想像が、少しだけ温かく感じた。
目を閉じる前に、もう一度だけ、昼間の踊り場の光を思い出した。教室の空気が苦しい時、どこかに逃げ場所がいる。
いちばん簡単だった「だいじょうぶ」は、あの日、何を守っていたのでしょう。




