二 触れてはならぬもの
数日後。
真薫が式部省に出仕すると、すでに藤原兼遠が渡殿に立っていた。
待ち構えていた、という表現が、もっとも近い。
「やあ、真薫くん」
兼遠は、いつものように軽く手を振る。
その仕草だけを見れば、何の変哲もない。
「最近、大人しくしてるね」
真薫は、一瞬、言葉を選んだ。
「……はい」
「それでいい」
間を置かずに、兼遠は言った。
「それが、一番いい」
にこやかな笑顔。
だが、その目は、まったく笑っていなかった。
真薫は、その違和感を見逃さない。
兼遠がこうした表情を浮かべる時、必ず“触れてはならぬ何か”が背後にある。
「兼遠様」
真薫は、意を決して口を開いた。
「賀茂保規殿のことを……ご存じですか」
空気が、わずかに変わる。
「ああ」
兼遠は、あっけらかんと頷いた。
「陰陽助だった人だね」
まるで、天気の話でもするかのように。
「病死だって聞いたよ。可哀想にね」
真薫は、兼遠の目を見た。
そこに、揺らぎはない。
「……そうですか」
「うん」
それ以上、話は広がらなかった。
兼遠は、真薫の肩を軽く叩く。
だが、その力は、思ったよりも強い。
「真薫くん」
声が、わずかに低くなる。
「定明くんを、大事にしてあげてね」
一言一言が、慎重に置かれている。
「あの子、今、すごく不安だと思うから」
真薫は、喉の奥に引っかかるものを感じた。
「……はい」
それ以上、返す言葉はなかった。
兼遠は、にこやかな笑顔を取り戻し、そのまま歩み去っていく。
振り返ることもない。
真薫は、その場に一人残された。
耳の奥で、兼遠の言葉が反芻される。
——定明くんを、大事にしてあげてね。
それは忠告であり、警告でもあった。
兼遠も、知っているのだ。
定明が、危険な位置に立たされているということを。
だが。
何を、どこまで知っているのか。
そして、どこまで“見ないふり”をしているのか。
それは、真薫にも、わからなかった。




