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式部省の呪詛係  作者: 浮田葉子
第二章 陰陽寮の闇
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三 北野の密談

 翌日。


 真薫(ちかゆき)のもとに、一通の文が届いた。

 見覚えのある、繊細な筆跡。


 ——明日の午の刻、北野(きたの)の社にお参りに参ります。合歓(ねむ)


「なみ……」


 真薫は、文を握りしめた。


 大江次子(おおえのなみこ)

 真薫の幼馴染だ。

 今は、弘徽殿中宮(こきでんちゅうぐう)に仕える女房。

 女房名を、合歓の君という。


 次子から、話がある、ということか。


 真薫は、北野天神(きたのてんじん)への参詣を決めた。



 翌日、午の刻。

 北野天神は、参詣者で賑わっていた。

 学問の神を祀るこの社には、貴族や庶民が絶えず訪れる。


 真薫は、境内の片隅、神木の下に立っていた。


 しばらくして、牛車(ぎっしゃ)が社の前に止まった。


 前簾(まえすだれ)が上がり、女性が降りてくる。


 小袿(こうちぎ)は淡い萌黄色(もえぎいろ)

 檜扇(ひおうぎ)を手にした、しなやかな姿。


 次子だった。


 従者が二人、後ろに控えている。


 真薫は、胸が締め付けられるような思いがした。


 幼い頃、隣家の庭で一緒に遊んだ少女。

 「四郎」「なみ」と呼び合った、あの頃。


 今、次子は中宮に仕える女房として、都で最も高貴な場所にいる。

 一方、真薫は左遷された式部少録(しょうさかん)


 立場は、あまりにも違った。


 次子は、本殿に向かって歩き始めた。


 衣の裾が、ふわりと風に揺れる。

 その後ろ姿を、真薫はただ見つめていた。


 真薫は、少し離れて後を追った。


 次子は本殿で手を合わせ、祈る。

 その横顔は、幼い頃と変わらぬ清らかさを湛えていた。


 真薫も、同じように祈った。


 祈りを終えた次子は、境内を歩き始めた。


 神木の下、石の手水舎(ちょうずや)の前で、次子は立ち止まった。

 真薫は、さりげなく近付いた。


「なみ」


 小声で呼びかけると、次子は振り向いた。


 一瞬、次子の目が大きく見開かれた。

 そして、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。


「四郎様」

 次子の声は、わずかに震えていた。

「お元気そうで」


「ああ。お前も」


 二人は、手水舎で手を清めるふりをして、並んだ。


 従者たちは、少し離れたところで待っている。

 しかし、油断はできない。

 いつ、誰が見ているかわからない。


「四郎様」


 次子は、檜扇で口元を隠しながら、小声で言った。


 その仕草は、宮中で身につけたものだろう。

 優雅で、しかし用心深い。


賀茂光保(かものみつやす)殿のこと、ご存じですか」


 真薫の手が、一瞬止まった。


「ああ。陰陽師だな。昨日、調べに行った」

「その光保殿、実は……」


 次子は、檜扇を持つ手に、わずかに力を込めた。

 その手が、震えているように見えた。


 次子は、周囲を確認した。


 参詣者たちは、それぞれに祈り、歩き回っている。

 誰も、二人に注意を向けていない。


「右大臣様の密命で、呪詛を行っていたそうです」


 真薫は、息を呑んだ。


「やはり……」


「宮中では、そう噂されています。光保殿が、左大臣派の公卿たちを呪っていたと」


 次子の声が、小さくなった。


「そして、その公卿の一人が、最近亡くなりました」

「誰だ」


源公通(みなもとのまさみち)様。左大臣様のご一族です」


 次子は、真薫を見た。

 その瞳には、心配の色が浮かんでいた。


「公通様は、病で亡くなったとされていますが……宮中では、呪詛ではないかと囁かれています」


「それが、光保の仕業だと」

「ええ」


 次子は、檜扇を少し下げた。

 その顔に、切なげな表情が浮かんだ。


「そして、右大臣様が、四郎様のことを話題にされたと」


「……私のことを」

「“式部省に、面倒な男がいる”と。中宮様の御前で、そうおっしゃったそうです」


 次子の声が、震えた。

 檜扇を持つ手が、わずかに強く握られる。


「四郎様、どうかお気をつけて」


 その言葉には、幼い頃と変わらぬ優しさがあった。


「ありがとう、なみ」

 真薫は、小さく頷いた。

「お前も、無理をするな。右大臣様の娘君に仕えているのだろう」


「はい」

 次子は、寂しそうに笑った。

「でも、四郎様が心配で。こうして、お会いできてよかった」


 次子の目が、わずかに潤んだ。


「……なみ」


 真薫は、思わず手を伸ばしかけた。

 しかし、すぐに我に返る。


 ここは、人目の多い社。

 次子は中宮女房。

 触れることなど、できるはずもない。


「では、私はこれで」

 次子は、檜扇を上げた。

「またお会いできることを」


「ああ」

 次子が去ろうとしたとき、真薫は小声で言った。

「なみ。お前も、気をつけてくれ」


 次子は、振り返らずに、小さく頷いた。

 そして、従者たちのもとへ戻っていった。


 真薫は、境内に残った。


 次子の乗った牛車が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 出衣(いだしぎぬ)が揺れる。

 簾の隙間から、わずかに見える萌黄色の小袿。


 真薫は、その姿が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。


 参詣者たちは、何事もなかったかのように行き交っている。

 誰も、今ここで二人が密かに情報を交換していたことなど、気づかない。


 木を隠すには森。

 次子の知恵だろう。


「源公通……」


 真薫は、呟いた。

 光保が呪詛で害した者。

 その者が怨霊となり、光保を殺したのか。


 そして、右大臣である道顕が、真薫を厄介な存在として認識しているという話――


 次子の震える声が、耳に残っている。

 真薫は、拳を握りしめた。


「なみ……すまない」

 小さな呟きが、風に消えた。

「お前まで、危険に巻き込んで」


 真薫は、境内を後にした。



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