カメラは褒めない
翌日、朝比奈澪は遅刻しなかった。
むしろ、早すぎた。
第三スタジオの前に着いた時、彼女はすでに廊下の端に立っていた。
台本を胸に抱えて、壁に背中を預けず、まっすぐ立っている。
昨日より顔色は悪い。
目の下に、うっすら影もある。
たぶん、あまり眠れていない。
それでも、姿勢だけは崩れていなかった。
白紙の前に立つ人間の姿勢。
俺は、その立ち方を見ただけで、少し嫌な気分になった。
また見ている。
また、彼女の中の使えるものを探している。
朝から最悪だ。
「早いですね」
俺が声をかけると、澪は肩を小さく跳ねさせた。
「あ、佐伯さん」
「集合は十時です」
「はい」
「今、九時十五分です」
「はい」
「四十五分前です」
「計算できます」
「なら帰って寝てください」
「それは無理です」
「でしょうね」
澪は台本を抱え直した。
その台本の端から、昨日の白い余白が少しだけ見えた。
捨てなかったらしい。
久しぶり。
元気でね。
何度も書かれた、汚れた文字。
昨日、床に落ちていた切れ端は俺の台本に挟まっている。
言うべきではない。
返すべきでもない。
そもそも拾うべきではなかった。
そう思いながら、まだ持っている。
自分でも気持ちが悪い。
「寝ましたか」
「少しだけ」
「どのくらい」
「三時間くらいです」
「それは寝たとは言いません」
「目は閉じました」
「屁理屈が上手くなってきましたね」
「佐伯さんのせいです」
「責任転嫁です」
澪はほんの少しだけ口元を緩めた。
でも、その笑いはすぐに消える。
スタジオの扉を見たからだ。
今日は、水野さんの前でテストがある。
昨日の練習とは違う。
俺だけが見るわけではない。
水野さんが見る。
助監督が見る。
録画用のカメラも回る。
つまり、残る。
澪はそのことを、きっと何度も考えたのだろう。
台本を抱える指に、力が入りすぎている。
「手」
俺は言った。
澪が瞬きをする。
「え」
「台本、潰れてます」
「あ」
澪は慌てて指の力を抜いた。
白い紙の端に、爪の跡が残っている。
「すみません」
「台本に謝るんですか」
「何に謝ればいいかわからなくて」
「謝らなくていいです」
「はい」
そう言って、また少し力が入る。
駄目だ。
今日の彼女は、緊張の逃がし場所がない。
怖い。
でも逃げられない。
逃げたくない。
でも怖い。
その全部を、細い指先で台本に押しつけている。
昨日は紙に叩きつけた。
今日は、まだ叩きつける前から潰しにかかっている。
「朝比奈さん」
「はい」
「昨日の字、持ってきましたか」
澪は台本を少しだけ持ち上げた。
「はい」
「見せなくていいです」
「え」
「俺に見せるために持ってきたなら、しまってください」
澪の顔が、少し固まった。
「違います」
「ならいいです」
「……違います」
二回言った。
たぶん、自分に言い聞かせるために。
「じゃあ、誰に見せるんですか」
「誰にも」
「なら、何のために持ってきたんですか」
澪は少し黙った。
それから、台本に目を落とす。
「忘れないためです」
「何を」
「自分が、綺麗に言えないってことを」
その答えは、悪くなかった。
綺麗に言えない。
綺麗に書けない。
でも、だからこそ残るものがある。
そこに気づけるなら、昨日の練習は無駄ではない。
「なら、持っていてください」
「はい」
俺はスタジオの扉に手をかけた。
澪はまだ動かない。
「入らないんですか」
「入ります」
「足が動いてません」
「今、動かします」
「今すぐ」
「はい」
澪は一歩踏み出した。
その一歩は、小さかった。
けれど、逃げる足ではなかった。
スタジオの中は、昨日より冷えていた。
照明が点いている。
中央には床のテープ。
その少し前に、テスト用のカメラが一台。
大がかりなものではない。
ただの記録用。
けれど、レンズはレンズだ。
こちらを見ている。
褒めもせず。
助けもせず。
逃げも許さず。
全部残す目。
澪はそのカメラを見た瞬間、息を止めた。
わかりやすい。
昨日の廊下で、彼女は言った。
カメラの前も、白紙と同じなら、逃げたら映るんですよね。
そうだ。
映る。
その恐怖が、今、彼女の喉元を押さえている。
水野さんはすでに長机の前に座っていた。
コーヒーの紙カップ。
赤ペン。
台本。
昨日と同じようで、少し違う。
今日は審査ではない。
それでも、判断はされる。
「おはようございます」
澪が頭を下げる。
「おはよう」
水野さんは書類から顔を上げた。
「眠れた?」
「少しだけです」
「正直だな」
「すみません」
「謝らなくていい。顔には出てる」
澪が固まる。
水野さんはそれ以上追い詰めず、台本をめくった。
「昨日の続き。四話回想。台詞は二つ」
「はい」
「今日はカメラを回す」
澪の指が震えた。
水野さんは見逃さなかった。
「怖い?」
「……怖いです」
「ならいい」
澪が顔を上げる。
「いい、ですか」
「怖くないやつは、だいたい雑になる」
水野さんは赤ペンを置いた。
「ただし、怖がってる自分を演技に使うな」
澪は少し混乱した顔をした。
「使うな、ですか」
「そう。怖い顔を見せればいいわけじゃない。震えればいいわけでもない。涙ぐめばいいわけでもない」
「はい」
「怖いなら、怖いまま立て。余計なことをするな」
乱暴な言葉だ。
でも、たぶん正しい。
水野さんは俺の方を見なかった。
当然だ。
今日は俺の練習ではない。
澪のテストだ。
俺は機材棚の横に立って、手元の書類を揃えた。
仕事をしているふり。
いや、実際に仕事はある。
でも、目は澪を見ている。
最悪だ。
まだ見ている。
「佐伯くん」
水野さんの声が飛んだ。
「はい」
「君はそこ」
水野さんはカメラの横を指した。
「画角に入らない位置。朝比奈さんからは見えないところ」
澪の肩が、少しだけ揺れた。
俺は頷いた。
「はい」
カメラの横。
レンズの近く。
澪からは直接見えない。
けれど、俺からは彼女の顔がよく見える位置。
意地が悪い。
水野さんは、俺を使う気でいる。
澪が俺を見てしまわないように。
でも、俺には澪を見せる。
嫌な大人だ。
そして、正しい大人だ。
俺は指定された位置に移動した。
澪の視線が一瞬だけこちらを探す。
でも、俺の姿は彼女の正面にはない。
澪は少し不安そうな顔をした。
すぐに、カメラのレンズへ視線を戻す。
いい。
俺を見るな。
俺に返すな。
カメラに返せ。
「まず一回、普通に」
水野さんが言った。
「はい」
助監督が相手役の位置に立つ。
カメラが回る。
赤いランプが点いた。
その小さな光で、澪の呼吸が変わった。
浅くなる。
喉が硬くなる。
目が少しだけ泳ぐ。
けれど、足は動かない。
床を踏んでいる。
白紙の前に立っている。
「よーい」
助監督が声を出す。
「はい」
澪が返事をする。
「……朝比奈?」
相手役が読む。
澪は顔を上げる。
目が合う。
ほんの少しだけ、昨日より遅れて口を開く。
「久しぶり」
硬い。
昨日より硬い。
カメラがあるだけで、声が一段階死んだ。
水野さんのペンが止まる。
澪も、自分でわかったのだろう。
目の奥に、失敗の色が浮かぶ。
だが、台詞は続く。
「元気だった?」
「うん」
小さい。
悪くはない。
でも、守りに入っている。
昨日の歪みが消えている。
台本にない返事なのに、昨日ほど自然ではない。
カメラに残ることを意識した瞬間、彼女はまた綺麗にしようとしている。
相手役が続ける。
「俺、あの時――」
澪は遮る。
「元気でね」
早い。
逃げた。
いや、違う。
逃げようとしているふりをした。
昨日の彼女は、本当に逃げていた。
今の彼女は、「逃げる役」を演じようとしていた。
だから死んだ。
「カット」
水野さんが言った。
静かな声だった。
澪の肩が落ちる。
「すみません」
「謝るな」
「はい」
「今、何をした?」
澪は答えられない。
水野さんは俺を見ない。
俺も口を開かない。
ここで俺が言えば、昨日と同じになる。
澪が俺を見る。
だから黙る。
「朝比奈さん」
「はい」
「今の『元気でね』は、誰に見せた?」
澪が目を揺らす。
「誰に……」
「カメラ?」
「……はい」
「じゃあ駄目だ」
水野さんは台本を閉じた。
「カメラは客じゃない。評価者でもない。君のことを好きにも嫌いにもならない」
澪は黙る。
「カメラに好かれようとするな」
「はい」
「もう一回」
もう一度、カメラが回る。
澪は床のテープに立つ。
赤いランプが点いた瞬間、彼女の中にあったものが、少しずつ固まっていくのが見えた。
昨日、白紙の上では揺れていた線が、レンズの前では急に飾りになった。
目線を逃がす。
けれど、逃がし方が綺麗すぎる。
息を止める。
けれど、止めたことを見せようとしてしまう。
言葉を飲み込む。
けれど、飲み込んでいる自分を意識した瞬間、その沈黙はただの間になる。
「元気でね」
遅すぎる。
「元気でね」
今度は軽い。
「元気でね」
震えた。
「元気でね」
震えを隠そうとして、全部死んだ。
カメラは何も言わない。
ただ、失敗だけを淡々と残していく。
澪の呼吸が浅くなる。
指先が白くなる。
台本の端が、少しずつ歪んでいく。
水野さんは止めなかった。
助監督も何も言わない。
誰も助けない。
それが現場だった。
俺はカメラの横で、書類を握ったまま動けなかった。
やめろ。
口を出すな。
今は違う。
昨日の練習は、俺の言葉で彼女を白紙へ追い込んだ。
でも今日は違う。
ここでまた俺が正解を出したら、彼女はカメラではなく俺に返す。
それでは意味がない。
わかっている。
わかっているのに。
澪の手が震え始めた。
昨日と同じ、落ちる震え。
自分で自分を責め始めた震え。
胸の奥がざらつく。
助けたい、ではない。
見たい。
ここから、彼女がどう立て直すのかを見たい。
その欲が最低だ。
そして、その欲を隠すように、俺は黙っている。
「休憩」
水野さんが言った。
澪が息を吐く。
吐いたというより、崩れそうになる。
けれど、倒れはしなかった。
床のテープの上で踏みとどまる。
「五分」
水野さんは立ち上がった。
スタッフたちが少し動く。
カメラのランプが消える。
スタジオの緊張が、わずかに緩んだ。
澪は一人で床のテープの上に残っていた。
誰も声をかけない。
声をかけづらい。
俺も、かけるべきではない。
なのに、彼女の指が台本へ向かったのを見てしまった。
昨日の紙。
台本の裏に書いた、歪んだ文字。
澪はそれを開こうとして、途中で止めた。
見ない。
彼女は紙を見なかった。
その代わり、目を閉じた。
白紙を、頭の中に置いている。
俺は息を止めた。
澪の唇が、ほんの少しだけ動く。
声は出ていない。
何かを書いているように、指先が空中で動いた。
久しぶり。
元気でね。
空中に、見えない線を書く。
馬鹿みたいな動きだった。
オーディションの場でやるようなことじゃない。
けれど、彼女にとってはたぶん、それしかなかった。
声にする前に、線にする。
白紙を汚す前に、空中で一度だけ傷をつける。
水野さんが戻ってきた。
その動きを見て、少しだけ眉を上げる。
「朝比奈さん」
「はい」
「何してる?」
澪は一瞬、固まった。
それから、正直に言った。
「書いてました」
「何を」
「台詞を」
「空中に?」
「はい」
水野さんはしばらく黙った。
怒るかと思った。
だが、水野さんは俺の方をちらりと見た。
目が合う。
お前か。
そういう目だった。
俺は何も言わなかった。
水野さんは小さく息を吐く。
「いい。続けろ」
澪が驚いた顔をする。
「え」
「ただし、本番でそれをやるな」
「はい」
「今だけだ」
「はい」
澪はうなずいた。
その返事は、さっきより少し落ち着いていた。
「もう一回。カメラ回して」
赤いランプが点く。
澪は床のテープに立つ。
今度は、カメラを見なかった。
カメラを無視したのではない。
そこにあることを認めた上で、媚びなかった。
目の前の相手を見る。
足の裏が床に吸いついている。
白紙の前。
筆を入れる前。
彼女は一度だけ、息を吸った。
吸いすぎない。
浅くもない。
相手役が読む。
「……朝比奈?」
澪は顔を上げた。
目が合う。
今度は、すぐに逃げなかった。
見てしまった。
会いたくなかった人に、会ってしまった。
その一瞬があった。
「……久しぶり」
声は小さい。
でも、硬くない。
綺麗でもない。
その「久しぶり」は、再会の挨拶ではなかった。
昔の自分を見つけられた人間が、どうにか今の顔を作ろうとして失敗した音だった。
スタジオの空気が、少しだけ止まる。
相手役も、それを受けて続ける。
「元気だった?」
澪は小さく笑おうとした。
失敗する。
昨日と同じ。
いや、昨日より少し深い。
「うん」
台本にない返事。
けれど、今度は減点の音がしなかった。
水野さんのペンが動かない。
相手役が読む。
「俺、あの時――」
澪の目が揺れる。
聞きたい。
でも、聞いてはいけない。
自分から閉じたはずの扉を、相手に開けられたくない。
澪の指が、ほんの少しだけ動く。
空中に線を書くように。
けれど、すぐに止めた。
本番でそれをやるな。
水野さんの言葉を守ったのだろう。
その代わり、彼女は唇だけで線を引いた。
薄い蓋を置くみたいに。
「……元気でね」
声は震えなかった。
泣きもしなかった。
感情を込めたようにも見えなかった。
でも、その一言で、相手の言葉は止まった。
もう何も言わせない。
これ以上、昔に触らないで。
そう言っているように見えた。
カメラは、黙ってそれを残していた。
水野さんはカットをかけなかった。
一秒。
二秒。
澪は立っている。
もう台詞はない。
それでも、逃げずに立っている。
相手役が、台本にない小さな息を漏らした。
その瞬間、水野さんが言った。
「カット」
スタジオが静かだった。
良かったのか。
駄目だったのか。
澪にはわからない。
俺にも、すぐにはわからなかった。
ただ一つだけわかったのは、今の彼女は俺に返していなかった。
俺の方を見なかった。
俺の言葉をなぞらなかった。
カメラの前で、自分の線を引いた。
それだけは、わかった。
水野さんはモニターを確認している。
一度巻き戻す。
もう一度見る。
誰も喋らない。
澪は床のテープの上で、息を止めたままだ。
「朝比奈さん」
水野さんが言った。
「はい」
「今の、何点だと思う?」
澪の顔がこわばる。
「……わかりません」
「じゃあ、佐伯くん」
来た。
俺は水野さんを見る。
「今の、何点?」
嫌な振り方だ。
助け舟ではない。
今この場で、俺の目を使う。
そして澪にも聞かせる。
俺は少しだけ黙った。
澪は俺を見ていない。
床のテープを見ている。
それでいい。
「点はつけられません」
水野さんの眉が動く。
「逃げるな」
「逃げてません」
「じゃあ何」
俺はモニターを見る。
小さな画面の中に、澪がいる。
声は下手だ。
顔の使い方も危うい。
基礎は足りない。
でも、さっきの「元気でね」のあと、画面がほんの少しだけ冷えた。
それは点数では測れない。
「商品としては、まだ危ないです」
澪の指が動く。
「現場で毎回これが出せるかはわからない。台詞二つでも落ちる可能性はあります」
水野さんは黙っている。
「でも」
俺は言った。
「今の一回は、捨てるのが惜しいです」
澪が息を止めた。
水野さんが、薄く笑う。
「最初からそう言えばいい」
「言ったら嘘っぽくなるので」
「面倒だな、君は」
「よく言われます」
「誰に?」
「昔の人たちに」
水野さんは少しだけ黙った。
それから、モニターへ視線を戻した。
「朝比奈さん」
「はい」
「正式に出てもらう」
澪は反応できなかった。
言葉が届いていない顔だった。
「四話の回想。役名はまだない。台詞は二つ。現場で変えられる可能性もある。カットされる可能性もある」
「……はい」
「でも、君でいく」
澪の目が大きく揺れた。
「私で……」
「勘違いするな」
水野さんの声が冷える。
「主役じゃない。重要キャストでもない。二言だけの小さな役だ」
「はい」
「ただし」
水野さんはモニターを指した。
「その二言で、画面を止めろ」
澪は、台本を抱きしめた。
強く。
でも、潰さないように。
「はい」
その返事は、今日一番はっきりしていた。
俺はその声を聞いて、息を吐いた。
安心ではない。
たぶん、もっと嫌なものだ。
見つけてしまったものが、正式に現場へ出る。
それを喜んでいる自分がいる。
最悪だ。
テストが終わったあと、澪はなかなかスタジオから出ようとしなかった。
床のテープを見ている。
そこに何かが残っているわけではない。
でも彼女には、何かが残って見えているのかもしれない。
「朝比奈さん」
「はい」
「終わりましたよ」
「……はい」
「帰って寝てください」
「今日は、そればっかりですね」
「昨日も言いました」
「じゃあ、昨日からそればっかりです」
「正しいことなので」
澪は少しだけ笑った。
それから、台本を胸に抱える。
「正式に、決まったんですよね」
「はい」
「私、役がもらえたんですよね」
「はい」
「二言だけでも」
「二言だけでも」
澪はゆっくりうなずいた。
「嬉しいです」
その声は、小さかった。
でも、さっきの台詞より自然だった。
「でも、怖いです」
「でしょうね」
「また下手って言われますよね」
「言われると思います」
「カットされるかもしれないんですよね」
「はい」
「それでも、嬉しいです」
澪はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「変ですか」
「普通です」
「普通なんですか」
「たぶん」
澪は俺を見る。
「佐伯さんのたぶん、今日は少し信用できます」
「それはよかったです」
「あの」
「はい」
「今日の、見てましたか」
「見てました」
「どうでしたか」
聞いてきた。
まだ、俺に返そうとしている。
完全には抜けていない。
当然だ。
一日で変わるわけがない。
「俺に聞かない方がいいです」
澪の顔が少し曇る。
「……はい」
「でも」
俺は続けた。
「俺の方を見なかったのは、よかったです」
澪が瞬きをした。
「見ない方がいいんですか」
「はい」
「じゃあ、次も見ません」
「俺に言われたから見ない、だと同じです」
「難しいです」
「難しいです」
澪は困ったように笑った。
その笑い方が、少しだけ柔らかかった。
昨日より。
一昨日より。
彼女は少しずつ、言葉の前で固まるだけの少女ではなくなっている。
怖がりながらも、自分で線を引こうとしている。
それは成長だ。
たぶん。
そう思った瞬間、俺はまた自分を気持ち悪く感じた。
人の変化に名前をつけるな。
成長だと決めるな。
それは便利な言葉だ。
誰かを育てている気分になれる、最低の言葉だ。
「佐伯さん?」
「何でもありません」
「顔、怖いです」
「元からです」
「それは否定します」
「否定するんですか」
「はい」
澪は少しだけ真面目な顔になった。
「佐伯さん、怖いことは言いますけど、顔はずっと怖いわけじゃないです」
「それ、褒めてます?」
「たぶん」
「便利ですね、たぶん」
「佐伯さんの真似です」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
緩んだことに、俺は少し困った。
近づくな。
近づけるな。
彼女は俺の作品じゃない。
俺が拾っていい感情じゃない。
「帰りましょう」
俺は言った。
「はい」
澪は頷いた。
スタジオを出る前に、もう一度だけカメラを見た。
赤いランプは消えている。
ただの黒いレンズ。
それでも、澪は軽く頭を下げた。
「何してるんですか」
俺が聞くと、澪は少し恥ずかしそうにした。
「なんとなく」
「カメラに挨拶ですか」
「変ですか」
「少し」
「でも、残してくれたので」
澪はそう言った。
「今日の私を」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
カメラは褒めない。
でも、残す。
それが救いになる時もある。
呪いになる時もある。
俺はそれを知っている。
知りすぎている。
澪はまだ知らない。
知らなくていいことも、たぶんある。
でも、彼女はもうレンズの前に立つ。
正式に。
自分の二言を持って。
廊下に出ると、外は夕方だった。
窓の向こうに、薄いオレンジ色の光が残っている。
澪は台本を抱えたまま、ゆっくり歩いている。
足取りは軽くない。
でも、昨日より前へ進んでいる。
「あの、佐伯さん」
「はい」
「私、今日のこと、忘れないようにします」
「忘れてもいいです」
「え」
「覚えようとしすぎると、固まります」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「忘れても、身体に残るくらい練習してください」
「結局、練習ですね」
「結局、練習です」
澪は小さくうなずいた。
「わかりました」
その返事は、素直だった。
素直すぎて、危うい。
俺はまた、釘を刺したくなる。
俺の言葉を全部飲むな。
自分で疑え。
俺を信用するな。
でも、言いすぎれば、それもまた俺の言葉になる。
面倒だ。
育てるとは、こんなに面倒だったのか。
いや。
俺は育てていない。
育てるつもりもない。
そう言い聞かせる。
その時、廊下の向こうから声がした。
「あれ、朝比奈さん?」
澪の足が止まる。
昨日、控室で話していた候補者の一人だった。
名前はたしか、白瀬玲奈。
書類で見た。
同じ事務所ではない。
だが、現場慣れしている。
声がよく通り、表情も作れる。
今日のメイン候補の一人だった。
白瀬玲奈は、廊下の中央に立っていた。
姿勢が綺麗だ。
澪とは違う。
澪が白紙の前で固まる静けさなら、玲奈はすでに完成されたポスターみたいだった。
自分がどこから見られているかを知っている立ち方。
目線も、顎の角度も、髪の落ち方も、全部が整っている。
上手い。
会った瞬間にわかる。
この子は、見られることに慣れている。
「お疲れ様です」
澪が頭を下げる。
「お疲れ様」
玲奈は笑った。
綺麗な笑顔だった。
嫌味がない。
本当に、ない。
だから余計に残酷だった。
「残ってたんだ」
「はい」
「追加テスト?」
「……はい」
「そっか。大変だよね、急に呼ばれると」
玲奈はさらっと言った。
その声には、澪を刺そうとする色がなかった。
ただ、現場に慣れた人間が、当然のこととして言っているだけだった。
「役、決まったの?」
澪は一瞬、迷った。
言っていいのか。
言わない方がいいのか。
その迷いが見える。
「四話の回想に、少しだけ」
「すごいじゃん」
玲奈はすぐに笑った。
明るく。
自然に。
心から祝っているように。
「よかったね」
「……ありがとうございます」
「台詞あるの?」
「……二つだけです」
「二つもあるんだ」
玲奈は本気でそう言った。
見下しているわけではない。
この現場では、名前のない回想役に二つ台詞があるだけでも、ちゃんと仕事なのだと知っている声だった。
「大事だよね。短い台詞って」
その言い方にも、嫌味はなかった。
だから、澪は何も返せなかった。
玲奈は続ける。
「私、短い台詞の方が怖いかも。逃げ場ないし」
笑っている。
軽い。
でも、その言葉の置き方が、もう上手かった。
短い台詞が怖い、と言いながら、その怖さすら余裕に変えている。
その場の空気の湿度を、自分の声一つで調整できる人間の話し方だった。
澪の指が台本を握る。
玲奈はそれに気づいた様子もなく、廊下の向こうにいるスタッフへ顔を向けた。
「あ、すみません。さっきのシーンなんですけど」
声の温度が、自然に仕事のものへ変わった。
「私の二つ目の台詞、もう少し早めに入った方が、主役の表情が残りますよね。受けを長くしすぎると、私が持っていっちゃう気がして」
スタッフが「ああ、たしかに」と頷く。
玲奈は笑ったまま続けた。
「じゃあ、次は少しだけテンポ上げます。最後の語尾は落とさずに、次のカットに渡す感じで」
呼吸みたいだった。
考えているのではない。
身体が知っている。
台詞をどこで渡し、どこで引き、どこで残すか。
彼女にとって言葉は、怖い墨ではない。
もう、扱い慣れた道具だった。
澪はその横顔を見ていた。
自分とは違う生き物を見る目で。
玲奈はもう一度、澪に笑いかけた。
「お互い頑張ろうね」
「……はい」
「じゃあ、また」
そう言って、彼女は去っていった。
足音も綺麗だった。
まっすぐで、迷いがない。
悪意はなかった。
ひとかけらも。
だからこそ、残された格差だけが廊下に残った。
澪はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「……あの人、すごいですね」
「はい」
「私と全然違いました」
「はい」
「声の出し方も、立ち方も、話してる時の間も」
「はい」
「全部、分かってる人の感じがしました」
「そうですね」
澪は台本を抱え直した。
「私、あの人みたいにはなれないですよね」
答えは簡単だった。
「なれません」
澪は小さく息を吸った。
その呼吸すら、玲奈のものよりずっと不器用だった。
「……ですよね」
彼女は笑わなかった。
傷ついた顔もしなかった。
ただ、答えを知っていた人間が、その答えを他人の口から聞いただけの顔をした。
「分かってます」
澪は台本を見下ろした。
「でも」
そこから先の声は、さっきまでとは違った。
小さい。
震えている。
でも、澄んではいなかった。
泥が混じっていた。
「あの人の声、綺麗でした」
「はい」
「上手くて、明るくて、ちゃんと届いて」
「はい」
「でも」
澪の指が、台本の端を握った。
今度は、潰さないようにではなかった。
爪の跡が、白い紙に残る。
「私の二つの台詞で、あの綺麗な声のあとに、消えない傷を残したいです」
俺は、すぐには返せなかった。
朝比奈澪の声は震えていた。
けれど、それは怯えだけではなかった。
悔しさ。
怖さ。
羨望。
屈辱。
それらが混ざって、まだ名前のない黒い線になっていた。
「沈黙だけじゃないです」
澪は言った。
「台詞、あります」
「はい」
「二つだけです」
「はい」
「でも、その二つで」
一度、彼女は唇を結んだ。
「ちゃんと、傷をつけたいです」
その言葉は、綺麗ではなかった。
前向きでもなかった。
女優として正しいかどうかも、まだわからない。
でも、初めて彼女が、誰かに見つけられるのではなく、自分から画面に爪を立てようとした言葉だった。
俺は何かを言うべきではなかった。
褒めるな。
導くな。
名前をつけるな。
だから、短く返した。
「はい」
澪はその一文字を受け取って、小さくうなずいた。
廊下の窓から、夕方の光が消えかけている。
白紙のような床に、二人分の影が伸びていた。
その影はまだ、どちらも薄い。
でも、澪の足元だけは、昨日より少し濃く見えた。
第四話の小さな回想。
台詞二つ。
正式決定。
それは大きな成功ではない。
世間の誰も知らない。
SNSで話題にもならない。
けれど、朝比奈澪にとっては初めて、自分の声で掴んだ役だった。
白瀬玲奈の方が圧倒的に上手い。
現場は、上手い人間を好む。
当然だ。
だけど、本番のカメラが回ったその時。
あの完成されたポスターのような少女の横で、朝比奈澪の歪な「元気でね」が画面を冷え立たせる瞬間を、俺はもう想像している。
上手い声は、流れていく。
下手な声が、傷みたいに残る。
それを、白瀬玲奈が目撃した時、どんな顔をするだろう。
最悪だ。
俺は朝比奈澪の二言で、この現場の予定調和が綺麗に壊れる瞬間を、他の誰よりも特等席で見たいと願ってしまっている。
いや、違う。
壊されるのは、現場だけじゃない。
あの子が本番のカメラの前で白紙を傷つけるその瞬間、俺が積み上げてきた冷徹なロジックも、雑用という安全な逃げ場所も、全部一緒に引き裂かれる。
俺はたぶん、それを知っている。
それでも目を逸らせない。
あの子の沈黙を見つけた日から、俺はもう観客ではいられなかった。
最悪だ。
その底知れない恐怖に、俺の腐った目が、気持ち悪いくらい歓喜に震えていた。




