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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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3/16

白紙を傷つける

 朝比奈澪の仮押さえは、正式決定ではない。


 水野さんはそう言った。


 台詞は二つだけ。


 久しぶり。


 元気でね。


 たったそれだけ。


 けれど、その二つで落ちることもある。


 それも、水野さんは言った。


 だから翌日の夕方、第三スタジオの隅に澪が立っていたこと自体は、別におかしくなかった。


 おかしくなかったが。


「……何してるんですか」


 俺がそう聞くと、澪はビニールテープの上で背筋を伸ばしたまま、ぎくりと肩を揺らした。


 手には台本。


 床には誰かが昨日貼ったままの立ち位置のテープ。


 その上に、彼女は一人で立っていた。


 無人のスタジオは、オーディションの日とは違う顔をしている。


 審査員もいない。

 候補者もいない。

 照明も半分しか点いていない。


 なのに、澪だけは昨日と同じ場所に立っている。


「練習、です」


「見ればわかります」


「じゃあ聞かないでください」


「時間を聞いてます」


 壁の時計を見る。


 午後七時四十分。


 スタッフの大半は帰った。


 俺は片付けのために戻ってきただけだ。


「いつからいます?」


「……少し前からです」


「少し」


「はい」


「何時から」


 澪は目を逸らした。


「五時半くらいから」


「二時間以上じゃないですか」


「少し長めの少しです」


「便利な日本語ですね」


 澪は台本を胸に抱えた。


「家でやっても、うまくできなかったので」


「ここならできますか」


「できませんでした」


「正直ですね」


「嘘ついても、佐伯さんにはたぶんバレるので」


 それは、買いかぶりだ。


 俺に見えるのは、人がどこで無理をしているかだけだ。


 その人間が本当に何を抱えているかまでは、わからない。


 わかると思っていた時期はある。


 そういう時期の俺は、たぶん最低だった。


「何回やりました?」


「数えてません」


「数えた方がいいです」


「そうなんですか」


「数えないと、失敗した回数だけが増えた気になります」


 澪は少し黙った。


 それから、小さく言った。


「増えてる気はします」


 台本の端が、少し歪んでいた。


 何度も開いて、握って、閉じた跡。


 白い紙に、彼女の指の跡がついている。


「やってみてもいいですか」


 澪が言った。


「俺に聞いてるんですか」


「はい」


「俺は演出家じゃありません」


「でも、見てはくれますよね」


 その言い方は、少しずるかった。


 助けてください、ではない。


 教えてください、でもない。


 見てくれますよね。


 第一話のオーディションで、俺が彼女にしてしまったことを、彼女はもう覚えている。


 俺が見た。


 見つけた。


 だから、今も見ろと言っている。


 厄介だ。


 かなり。


「水野さんの許可は?」


「取りました」


「本当に?」


「はい。『スタジオを汚すな。機材に触るな。佐伯が残ってたら勝手に捕まえろ』って」


 水野さんらしい。


 俺はため息をついた。


「勝手に捕まえられました」


「すみません」


「謝るくらいなら帰ってください」


「帰ったら、もっとできなくなる気がします」


 澪はそう言って、床のテープを見た。


 その目は、逃げたいと言っている。


 なのに足は動いていない。


 昨日と同じだ。


 怯えているのに、立ち姿だけはぶれない。


 俺はそこで、ふと思い出す。


 書類の特技欄。


 書道。


「朝比奈さん」


「はい」


「書道、いつからやってるんですか」


 澪の目が少し丸くなった。


「え」


「書類に書いてありました」


「ああ……小学生の頃からです」


「長いですね」


「おばあちゃんが先生で。実家で教室をやってるんです」


「好きなんですか」


 澪はすぐには答えなかった。


 好きです、と言うには少し重い沈黙だった。


「嫌いでは、ないです」


「好きではない?」


「……怖いです」


「怖い?」


 澪は台本を持つ指を少し緩めた。


「半紙って、一回墨を落としたら戻せないじゃないですか」


「はい」


「書き直せないんです。線が震えたら、その震えも残るし。迷ったら滲むし。止まったら、そこだけ黒く重くなる」


 彼女は床のテープを見た。


「でも、そこが好きでもありました」


「怖いのに?」


「はい」


 澪は小さくうなずく。


「うまく書こうとすると、だいたい失敗するんです。きれいに見せようとすると、線が死ぬって、おばあちゃんによく言われました」


 線が死ぬ。


 俺はその言葉に、少しだけ引っかかった。


 芝居にも似た言葉がある。


 台詞が死ぬ。


 目が死ぬ。


 間が死ぬ。


 死ぬものばかりだ。


「じゃあ、昨日のテープの上は半紙みたいなものですか」


 澪は少し考えてから、うなずいた。


「似てます」


「どういうところが」


「一回始めたら、戻れないところです」


 その言葉は、彼女にしてははっきりしていた。


「台詞って、声に出したら戻せないです。言った後で、違うって思っても、もう聞こえちゃってるから」


「だから言うのが怖い」


「はい」


 なるほど。


 澪が台詞を怖がる理由が、少しだけ形になった。


 彼女にとって言葉は、音ではない。


 墨だ。


 一度落としたら、白紙を汚すもの。


 だから、言葉を出す前に止まる。


 だから、沈黙が映る。


 声に出す前の、白い紙がまだ白いままでいる最後の一瞬を、彼女の身体は知っている。


「なら、台詞を墨だと思ってください」


 俺は言った。


 澪が顔を上げる。


「墨、ですか」


「はい」


「でも、私、台詞を言うと下手になります」


「墨も、書くと下手な時はあります」


「すごく当たり前のことを言いましたね」


「でも、書かないと作品になりません」


 澪は黙った。


「沈黙は、筆を入れる前の白紙です」


 俺は続ける。


「あなたはそこが強い。でも、それだけだと、ずっと白紙のままです」


「白紙のまま……」


「きれいかもしれない。でも、作品にはならない」


 澪の指が、台本の端を押さえた。


 少し痛い言い方だったかもしれない。


 でも、必要だった。


 彼女の沈黙は武器になる。


 けれど、それだけに逃げればすぐに終わる。


「だから、書く練習をしましょう」


「台詞を、ですか」


「はい」


「どうやって」


「まず、上手く読まない」


「またそれですか」


「またそれです」


 澪は困ったように眉を寄せた。


「上手く読まない練習って、何をすればいいんですか」


 その問いは、昨日より少し強かった。


 助けを求めるというより、苛立っている。


 いい。


 やっと少し、感情が表に出てきた。


「一回、その口を閉じてください」


 俺は言った。


 澪の目が止まる。


「……え」


「君の芝居が下手なのは、声で嘘をつけないのに、声だけで何とかしようとしているからです」


 澪の指が台本を握る。


「台詞を言おうとするたびに、声が役から逃げてる」


「……逃げてる」


「はい」


 少しきつい言い方だとわかっていた。


 でも、やめなかった。


「だから一回、声を捨ててください」


「声を……」


「書道ができるんですよね」


「はい」


「なら、その手でやってください」


 俺は台本の裏の白い余白を指した。


「上手く書かなくていい。綺麗な字もいらない。おばあさんに褒められる字もいらない」


 澪は黙っている。


「その役が飲み込んだものを、紙に叩きつけてください」


「叩きつける……」


「はい」


 俺は彼女の目を見る。


「声にすると嘘になるなら、まず手で汚せ」


 言った瞬間、自分の腹の底が冷えた。


 ああ。


 まただ。


 気づけば、俺は彼女を助ける言葉ではなく、壊し方を選んでいる。


 声では駄目なら、手を使わせる。

 台詞では逃げるなら、白紙に追い込む。

 上手く見せようとするなら、綺麗に書くなと命じる。


 やっていることは、昔と何も変わっていない。


 泣けない子どもを、泣ける位置まで追い詰めた。

 笑えない役者に、笑うしかない状況を作った。

 黙れない人間から、黙る瞬間を奪い取った。


 そのくせ俺は、それを演出と呼んでいた。


 最低だ。


 目の前に、未完成の白紙がある。


 そこにどんな傷が残るのか、見たいと思ってしまっている。


 朝比奈澪を救いたいからじゃない。


 彼女がどう壊れずに汚れるのかを、俺の目が欲しがっている。


 そのことに気づいて、吐き気がした。


 澪は、しばらく何も言わなかった。


 怒ったのかもしれない。


 傷ついたのかもしれない。


 それでも、彼女は台本を閉じなかった。


「……佐伯さんって」


「はい」


「たまに、すごく嫌なこと言いますよね」


「自覚はあります」


「あるんですね」


「あります」


「直さないんですか」


「今のところは」


 澪は小さく息を吐いた。


 諦めたような、腹をくくったような息だった。


「わかりました」


 彼女は鞄からペンを出した。


 細い黒のボールペン。


 そして台本の裏の白い余白を開く。


「何を書けばいいんですか」


「『久しぶり』」


「普通にですか」


「普通に書けるなら」


「……嫌な言い方です」


「はい」


 澪はペンを構えた。


 その瞬間だけ、空気が変わる。


 さっきまで揺れていた指が、ぴたりと止まった。


 白紙の前の顔。


 新人女優の顔ではない。


 墨を落とす場所を決める人間の顔だった。


 ペン先が紙に触れる。


 久しぶり。


 最初の一つは綺麗だった。


 整っている。


 整いすぎて、死んでいた。


「違います」


 俺は言った。


 澪の肩が揺れる。


「綺麗に書くなと言いました」


「……はい」


「もう一回」


 澪はもう一度書いた。


 久しぶり。


 今度は線が細すぎた。


 逃げている。


「違う」


 また書く。


 久しぶり。


 今度は強すぎる。


 怒りだけが出ている。


「違う」


 また書く。


 久しぶり。


 何度も。


 何度も。


 白い余白に、同じ五文字が増えていく。


 綺麗な字。

 弱い字。

 逃げた字。

 怒った字。

 媚びた字。

 何も感じていない字。


 そのたびに、澪の呼吸が少しずつ荒くなる。


「わからないです」


 彼女は小さく言った。


「どれが正解なのか、わからないです」


「正解を書こうとするからです」


「じゃあ、何を書けばいいんですか」


「正解じゃなくて、傷です」


 澪が顔を上げる。


「その役が隠した傷を書いてください」


 澪は白い余白を見た。


 何度も書かれた、久しぶり。


 その下に、まだ少しだけ白が残っている。


 ペン先がそこへ向かう。


 今度は、書き始めるまでが長かった。


 白い余白の上で、ペン先が少し浮く。


 書かない。


 でも、逃げない。


 昨日の三秒と似ていた。


 やがて、澪は一文字目を書いた。


 久。


 少し重い。


 し。


 細い。


 ぶ。


 迷いがある。


 り。


 最後だけ、急に軽くなった。


 まるで、そこで全部を誤魔化したみたいに。


「それです」


 俺は言った。


 澪が顔を上げる。


「え」


「今の字です」


「これ、変じゃないですか」


「変です」


「変なのに?」


「役に近いです」


 澪は、台本の裏に書いた文字を見つめた。


 綺麗ではない。


 整ってもいない。


 でも、その字には迷いがあった。


 会いたかったことを認めたくない人間の、みっともない線があった。


「その字のまま、言ってください」


「字のまま?」


「はい」


「どういう意味ですか」


「わからなくていいです」


「また禅問答」


「いいから」


 澪は少しだけむっとした。


 けれど、台本を持ち直す。


 床のテープに立つ。


 俺は長机の端から、助監督が置いていった椅子を一つ引いた。


「相手役は俺が読みます」


 澪の表情が固まる。


「佐伯さんが?」


「はい」


「大丈夫なんですか」


「何がですか」


「その……演技」


 正直な心配だった。


 俺は少し笑いそうになった。


 昔の俺なら、笑ったかもしれない。


 俺を誰だと思ってるんだ、と。


 でも、今は笑えなかった。


 俺自身も、今の自分が演技をできるのか、よくわからなかったからだ。


「読むだけです」


「そうですか」


「期待しないでください」


「はい」


 そこはすぐ返事するのか。


 俺は台本を開いた。


 四話、回想シーン。


 駅のホーム。


 夕方。


 主人公は偶然、昔の同級生と再会する。


 本来なら、ほんの短い青春の残像。


 湿っぽくする必要はない。


 水野さんはそう言った。


 なのに、澪がやると別れ損ねた人間のシーンになる。


 それは欠点か。


 それとも、武器か。


 まだわからない。


「いきます」


「はい」


 澪は床のテープに立った。


 姿勢が伸びる。


 やはり、立ち方だけは異様に綺麗だった。


 綺麗というより、静かだ。


 白い半紙の前で筆を構える人間の、あの動かない静けさ。


 声はまだ死ぬ。


 でも身体は、もう始め方を知っている。


 俺は台本を見ずに、相手役の台詞を読んだ。


「……朝比奈?」


 澪は俺を見る。


 今度は、口を開く前に、さっきの字を見るように目を伏せた。


 綺麗ではない線。


 逃げた最後の一画。


 それを思い出したのだろう。


「……久しぶり」


 声は、まだ上手くなかった。


 でも、今までで一番、彼女の中から出ていた。


 俺は少し黙った。


 澪が不安そうにこちらを見る。


「今の、どうでしたか」


「よかったです」


 澪の顔が、少しだけ明るくなる。


「本当ですか」


「はい」


「どこがですか」


「最後の『り』で逃げました」


「褒めてます?」


「褒めてます」


「褒め方が嫌です」


「でも、今の役は逃げる人なので」


 澪は、少しだけ息を吐いた。


 笑いそうになって、やめたような顔だった。


 その顔も、たぶん映る。


 そう思ってしまった自分が嫌だった。


 また見ている。


 また、彼女の中から使えるものを探している。


 救いたいわけじゃない。


 優しくしたいわけでもない。


 ただ、画面に残るものを探している。


 最悪だ。


「次、『元気でね』を書いてください」


 俺は言った。


 澪は頷いた。


 今度は、すぐには書かなかった。


 しばらく白い余白を見ている。


「どうしました」


「元気でね、って」


「はい」


「書くと、すごく嘘っぽいですね」


 澪は小さく言った。


「言葉は優しいのに、字にしようとすると、どこに力を入れればいいかわからないです」


「なら、嘘っぽいまま書いてください」


「嘘っぽいまま」


「はい」


 澪はペンを入れた。


 元。


 少し強い。


 気。


 途中で迷う。


 で。


 軽い。


 ね。


 最後の丸みが、変に優しい。


 本人もそれに気づいたのだろう。


 書き終えたあと、嫌そうな顔をした。


「気持ち悪い字です」


「見せてください」


 澪は渋々、台本の裏を見せた。


 たしかに、気持ち悪かった。


 優しい言葉に見せようとして、最後だけ取り繕っている。


 それが、露骨に出ている。


「いいですね」


「本当にそう思ってます?」


「はい」


「佐伯さんのいいですね、だんだん信用できなくなってきました」


「信用しなくていいです」


「え」


「その字を信用してください」


 澪は紙を見た。


 元気でね。


 嘘っぽい字。


 取り繕った最後の丸み。


 相手を傷つけないように見せかけて、本当は自分が逃げるための蓋。


「読んでみてください」


 澪は頷いた。


 床のテープに立つ。


 俺は台本を開く。


「俺、あの時――」


 澪は、すぐには言わなかった。


 聞きたい。


 でも、聞きたくない。


 その迷いが目に出る。


 昨日より少しだけ、深い。


 そして彼女は、さっき書いた嘘っぽい字を思い出すように、一度だけまばたきをした。


「……元気でね」


 声は小さかった。


 でも、昨日と違った。


 昨日のそれは、偶然に近かった。


 今のは、彼女が自分で白紙に墨を落とした一画だった。


 歪で、未熟で、整っていない。


 でも、彼女自身が選んだ線だった。


 俺はしばらく黙った。


 澪も黙っている。


 不安そうに、でも逃げずに立っている。


「覚えられますか」


 俺は聞いた。


 澪は、台本の裏の文字を見た。


 久しぶり。


 元気でね。


 そこに並んだ二つの台詞は、もうただの文字ではなかった。


 彼女が一度、身体を通した線だった。


「……少しだけ」


「少しだけ?」


「はい」


 澪は顔を上げる。


「でも、昨日よりは、逃げないで覚えられる気がします」


 その答えは、悪くなかった。


 できると言い切らないところも。


 できないと逃げないところも。


「じゃあ、今日はそこまでにしましょう」


「え」


「やりすぎると崩れます」


「でも、まだ」


「まだやりたいなら、帰って寝てください」


「それ、練習ですか」


「必要な練習です」


 澪は納得していない顔をした。


「私、まだ下手なのに」


「下手です」


「また言った」


「でも、昨日より一つ、自分で探しました」


 澪は台本を抱えた。


 その顔が、少しだけ変わる。


「自分で……」


「はい」


「佐伯さんが教えてくれたんじゃないんですか」


「俺は邪魔しただけです」


「邪魔?」


「上手くやろうとしているところを」


 澪は少し考えた。


 そして、小さく頷いた。


「邪魔されると、少し楽でした」


「普通は怒るところです」


「怒るのも、まだ下手なので」


「そこは練習しなくていいです」


「そうですか」


 澪は、ほんの少し笑った。


 今度は、すぐには消えなかった。


 俺はその笑顔から目を逸らした。


 見たら、また何かを探してしまう気がした。


 スタジオの片隅で、古い空調が低く鳴っている。


 薄暗い照明の下、澪は台本の裏に書いた文字をじっと見ていた。


 自分の台詞を、文字として見る。


 声にする前に、線として見る。


 それは、彼女なりの入口になるかもしれない。


 あるいは、ただの遠回りかもしれない。


 まだわからない。


「朝比奈さん」


「はい」


「その紙、捨てない方がいいです」


 澪は台本を抱え直した。


「捨てません」


「ならいいです」


「今日のは、赤入れしなくていいんですか」


「俺は書道の先生じゃありません」


「でも、見てはくれるんですよね」


 またそれだ。


 見てくれる。


 見つけてくれる。


 その期待は危うい。


 俺が見れば見るほど、彼女は俺の目を意識するようになる。


 俺が正解になる。


 それはまずい。


「毎回は見ません」


 俺は言った。


 澪の顔が少し止まる。


「どうしてですか」


「俺の目を気にするようになるからです」


「もう、少し気にしてます」


「だからです」


 澪は黙った。


 痛いところを突かれた顔だった。


「あなたは、俺に褒められるために女優になるわけじゃない」


「……はい」


「俺が見つけたものを、俺に返しても意味がないです」


 澪は台本の裏の文字を見た。


 久しぶり。


 元気でね。


「じゃあ、誰に返せばいいんですか」


「カメラです」


 澪が顔を上げる。


「カメラは、褒めません」


「はい」


「下手とも言いません」


「はい」


「でも、全部残します」


 澪はゆっくり瞬きをした。


 その言葉は、怖かったのだと思う。


 俺も怖い。


 カメラは優しくない。


 けれど、残酷なほど正直だ。


 嘘も、逃げも、偶然も、全部残る。


 だから、怖い。


 だから、面白い。


 そう思ってしまう自分が、一番怖い。


「全部、残るんですね」


「残ります」


「じゃあ、ちゃんと立たないと」


 澪はそう言って、床のテープを見た。


 その声が妙に静かだった。


「書道みたいに?」


 俺が聞くと、澪は少しだけ驚いた顔をした。


 それから、考えるように目を伏せた。


「たぶん」


「たぶん?」


「白紙の前では、逃げたら線に出るんです」


 澪は台本を撫でた。


「カメラの前も、同じなら」


 少し間を置いて、彼女は言った。


「逃げたら、映るんですよね」


 いいところに気づいた。


 俺は頷きそうになって、やめた。


 褒めすぎるな。


 導きすぎるな。


 彼女が今掴みかけているものに、俺の言葉を被せるな。


「たぶん」


 俺はそれだけ言った。


 澪は少し不満そうにこちらを見た。


「佐伯さんのたぶん、信用できる時とできない時があります」


「今回は?」


「半分くらいです」


「十分です」


 澪は台本を鞄にしまった。


 そして床のテープから一歩下がる。


 その一歩が、昨日とは少しだけ違って見えた。


 逃げるための一歩ではない。


 今日の線を、そこで終えるための一歩。


「ありがとうございました」


 澪は頭を下げた。


「俺は何もしてません」


「しました」


「邪魔しただけです」


「それがよかったです」


 そう言われて、俺は少し黙った。


 邪魔がよかった。


 それは、演出としては悪くない言葉だった。


 けれど、人間としてはどうなのか。


 俺はまた、誰かの呼吸を止めて、迷わせて、揺らして、画面に残るものを探している。


 やめたはずなのに。


 もうしないと決めたはずなのに。


「朝比奈さん」


「はい」


「次は、水野さんの前でやってください」


「はい」


「俺の前でできても、意味はないです」


 澪は少しだけ目を伏せた。


「……はい」


「怖いですか」


「怖いです」


 即答だった。


「でも、やります」


 これも即答だった。


 昨日より少しだけ、返事が早い。


 それが成長なのか、無理をしているだけなのかは、まだわからない。


 でも、今はそれでいい。


 澪は鞄を持ち、スタジオの出口へ向かった。


 ドアの前で一度立ち止まる。


「あの、佐伯さん」


「はい」


「今日、書いた字」


「はい」


「変でしたよね」


「変でした」


「でも、捨てなくていいんですよね」


「はい」


 澪は少しだけ笑った。


「じゃあ、持って帰ります」


 彼女はそう言って、スタジオを出ていった。


 ドアが閉まる。


 無人のスタジオに、薄い静けさが戻る。


 床のビニールテープだけが、白い照明の下に残っている。


 俺は一人で、しばらくそのテープを見ていた。


 あそこに立った彼女の姿勢。


 白紙の前のような、妙に座りのいい身体。


 声はまだ下手だ。


 台詞も危ない。


 でも、筆を入れる前の静けさだけは、もう持っている。


 あとは、その白を汚す覚悟を持てるかどうか。


 そして俺は、その瞬間を見たいと思ってしまっている。


 最低だ。


 俺は照明を落とすためにスイッチへ向かった。


 その途中で、床に一枚の紙が落ちているのに気づいた。


 台本の裏に挟んでいた白い余白の切れ端だった。


 拾い上げる。


 そこには、何度も同じ言葉が書かれていた。


 元気でね。


 元気でね。


 元気でね。


 最初の字は綺麗だった。


 次の字は細かった。


 その次は、途中で線が潰れていた。


 最後の一つは、文字というより傷だった。


 「ね」の最後の線で、紙が少し破れている。


 俺はその破れを指でなぞった。


 怖い、とは書かれていなかった。


 つらい、とも書かれていなかった。


 それでも、その破れた白紙の方が、どんな言葉よりも彼女の恐怖を残していた。


 捨てるべきだった。


 こんなものを拾ってはいけない。


 人の怖さを、勝手に持ち帰るな。


 そう思った。


 けれど、手は動かなかった。


 俺はその紙片を、台本の間に挟んだ。


 最悪だ。


 また、残そうとしている。


 誰かの感情を、勝手に。


 スタジオの照明を落とす。


 暗くなる直前、床のビニールテープだけが、白く浮かんだ。


 そこはもう、ただの立ち位置ではなかった。


 朝比奈澪が、初めて自分の言葉で白紙を傷つけた場所だった。

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