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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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2/16

沈黙に値段はつかない

 水野さんに呼ばれた時点で、怒られることは決まっていた。


 問題は、どの程度で済むかだった。


「佐伯くん」


 オーディションが一時休憩に入ったあと、俺は第三スタジオの隅にある機材置き場へ呼ばれた。


 折りたたみ椅子。

 古い照明スタンド。

 コードを巻いた黒い箱。

 誰かが飲み残した紙コップ。


 華やかな芸能界、という言葉から一番遠い場所。


 水野さんはそこで、煙草も吸わず、腕も組まず、ただ俺を見ていた。


 その目が一番きつい。


 怒鳴られる方がまだ楽だった。


「まず、確認するけど」


「はい」


「君は今日、何の立場でここにいる?」


「制作補助です」


「違う」


 即答だった。


「雑用だ」


「……はい」


 反射的に、背筋が伸びた。


 顎を少し引く。

 視線を相手の目よりわずかに下へ落とす。

 怒らせない角度で、申し訳なさそうに口元を緩める。


 気持ち悪いくらい、身体が先に正解を選んだ。


 子どもの頃から、大人の機嫌を損ねない立ち方だけは上手かった。


 監督にも、プロデューサーにも、マネージャーにも。

 泣けと言われれば泣き、笑えと言われれば笑い、謝れと言われれば、何に対して謝っているのかわからないまま頭を下げた。


 今も同じだ。


 内側では冷や汗をかいているくせに、外側の俺は、ちゃんと反省している下っ端の顔をしていた。


「書類を運んで、候補者を呼んで、終わった台本を回収する。それが今日の君の仕事だ」


「はい」


「審査員じゃない」


「はい」


「演出家でもない」


「はい」


「俳優でもない」


 そこだけ、少し間があった。


 水野さんの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。


「少なくとも、今は」


 俺は何も言わなかった。


 言えば、何かが余計に剥がれる気がした。


 水野さんは小さく息を吐いた。


「わかってて、口を出したんだな」


「……はい」


「最低だよ」


「はい」


「外部事務所の子だぞ。十七歳の新人だ。落とすにしても、通すにしても、こっちは手順を踏まなきゃいけない」


「はい」


「君の一言で、あの子は傷つくかもしれない。変な期待を持つかもしれない。事務所が文句を言ってくるかもしれない」


「はい」


「それでも言った」


「はい」


「理由は?」


 理由。


 そんなものは、いくつか並べようと思えば並べられる。


 彼女の沈黙が良かったから。

 台詞を飛ばしたわけではなかったから。

 あれを失敗として終わらせるのが惜しかったから。


 でも、たぶん全部違う。


 もっと単純で、もっとどうしようもない。


「……見なかったことにできませんでした」


 水野さんは、少しだけ黙った。


 機材置き場の向こうから、次の候補者の声が聞こえる。


 明るい声だった。

 大きく、はっきりしていて、よく通る。


 たぶん、澪よりずっと上手い。


「佐伯くん」


「はい」


「あの子の何を見た」


 俺は、さっきの三秒を思い出した。


 言えなかった唇。

 揺れた目。

 逃げきれなかった視線。

 喉の奥で止まった言葉。


 嫌いだと言わなければいけない役が、まだ好きでいることをやめられない。


 あの迷いは、技術じゃない。


 でも、ただの偶然とも違う。


「言葉になる前の感情です」


「ずいぶん曖昧だな」


「はい」


「それを演技と呼ぶには、まだ早い」


「わかってます」


「台詞は下手だった」


「かなり」


「声も硬い」


「はい」


「間も悪い」


「はい」


「芝居の基礎は、たぶんほとんど入ってない」


「そう思います」


「じゃあ、なぜ止めた」


 水野さんの声が、少し低くなった。


「下手な子ならいくらでもいる。顔がいい子もいくらでもいる。泣ける子も、叫べる子も、器用な子もいる」


「はい」


「それでも、あの子だった理由は?」


 俺は少し考えた。


 答えを間違えたら、たぶんここで終わる。


 澪のチャンスも。

 俺の仕事も。


 けれど、上手い言葉を選ぼうとした時点で嘘になる。


「あの子は、嘘をつくのが下手です」


 水野さんの眉が動いた。


「女優志望としては致命的だな」


「はい」


「なのに?」


「だからです」


 俺は言った。


「台詞で嘘をつこうとすると、全部死ぬ。でも、嘘をつけないところまで追い詰められると、画面に残る」


 水野さんは俺を見ていた。


 表情は変わらない。


 でも、話を切る気配もない。


「好きじゃない、って言えなかっただけだろ」


「はい」


「演技じゃなくて、ただの不器用かもしれない」


「そうかもしれません」


「再現性がなければ意味がない」


「はい」


「現場は偶然を待つ場所じゃない」


「わかってます」


 水野さんはそこで、初めて腕を組んだ。


「じゃあ、どうする」


「……どうする、とは」


「君が見つけたんだろ」


 嫌な言い方だった。


 でも、正しい。


「偶然かもしれない沈黙を、どうやって芝居にする」


 俺は答えられなかった。


 さっきまでなら、言えたかもしれない。


 彼女を追い込めばいい。

 言いたくない台詞を渡せばいい。

 黙るしかない状況を作ればいい。


 昔の俺なら、たぶんそう考えた。


 感情を引き出すために、心の柔らかいところを探して、そこを押す。


 泣かせる。

 黙らせる。

 震えさせる。


 それを、演技と呼んでいた。


 でも、それは違う。


 少なくとも、今の朝比奈澪にやるべきことではない。


「わかりません」


 水野さんの目が少しだけ鋭くなる。


「わからない?」


「はい」


「君が止めたんだぞ」


「はい」


「なのに?」


「今、適当に方法を言ったら、たぶんあの子を壊します」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 水野さんも黙った。


 言葉にして初めて、俺は自分が何を怖がっていたのかわかった。


 朝比奈澪の沈黙を、俺は見つけた。


 でも、見つけたものを磨くのと、削って壊すのは違う。


 俺は昔、その違いがわからなかった。


 いや。


 わからないふりをしていた。


「……言うようになったな」


 水野さんが、低く言った。


 怒っているのではなかった。


 少し、疲れたような声だった。


「昔は、そんなこと気にしなかったくせに」


「昔の話です」


「便利な言葉だ」


「はい」


「で、今は雑用か」


「はい」


「逃げるには、ちょうどいい場所だな」


 反論はできなかった。


 水野さんは、機材箱の上に置いてあった台本を一冊取った。


 表紙には、深夜ドラマのタイトルが印刷されている。


 『青い夜の終わり』


 今回のオーディション作品だ。


「朝比奈澪は、メインの元恋人役には弱い」


「……はい」


「今のままでは無理だ。台詞量もある。相手役との掛け合いも多い。現場が止まる」


「はい」


「ただ」


 水野さんは台本を開いた。


「四話に、写真だけ残っている元同級生の回想シーンがある」


「はい」


「台詞は二つ」


 水野さんがページをめくる。


「一つ目。『久しぶり』」


 次のページ。


「二つ目。『元気でね』」


 俺はその台本を見た。


 短い。


 役としては小さい。


 名前もない。


 本来なら、爽やかな回想の中に一瞬だけ差し込まれる少女。


 昔の同級生と偶然すれ違って、少し懐かしんで、それで終わる。


 たぶん脚本上は、それ以上でもそれ以下でもない。


 澪に都合よく用意された役ではない。


 むしろ、何も起きないことが役割の場面だった。


「朝比奈さんに、その役を?」


「まだ決めてない」


 水野さんは即答した。


「テストする」


「テスト」


「次の休憩明け、彼女を残す。台詞二つだけ読ませる」


「はい」


「君も残れ」


「俺も、ですか」


「君が見つけたんだろ」


 さっきと同じ言い方だった。


 でも、今度は逃げ場がなかった。


「ただし」


 水野さんの声が冷える。


「勝手な演出はするな」


「はい」


「俺が聞いたら答えろ」


「はい」


「朝比奈さんに直接言う時は、俺の許可を取れ」


「はい」


「もう一度、現場を止めたら帰す」


「はい」


「あと」


 水野さんは俺を見る。


「君の過去を使う気はない」


 俺は顔を上げた。


「元天才子役だろうが、何だろうが、今の君は制作補助だ」


「……はい」


「でも、目はまだ腐ってない」


 水野さんは台本を閉じた。


「それだけは使う」


 褒められたのか、道具扱いされたのか、判断が難しかった。


 たぶん両方だ。


「ありがとうございます」


「礼を言う場面じゃない」


「はい」


「仕事に戻れ」


 俺は頭を下げて、機材置き場を出た。


 スタジオでは、次の候補者が演技をしていた。


 上手かった。


 声が通る。

 表情も作れる。

 台詞の意味も理解している。


 会場の空気も悪くない。


 たぶん、普通に考えればこの子を選ぶべきだ。


 なのに、俺の頭にはさっきの三秒が残っていた。


 上手い演技は、流れていく。


 でも、あの沈黙だけは引っかかる。


 傷みたいに残る。


 控室の前を通ると、中から小さな話し声が聞こえた。


「朝比奈さん、さっき何だったの?」


「雑用の人に助けてもらってたよね」


「いいなあ、顔がいいと拾ってもらえて」


 軽い声。


 悪意というより、暇つぶしに近い。


 だから余計に質が悪い。


 俺は足を止めなかった。


 止めたらまた何か言ってしまいそうだった。


 廊下の端で、澪が一人で立っていた。


 控室から出てきたのか、戻れなくなったのかはわからない。


 台本を胸に抱えて、壁際に立っている。


 照明の届かない廊下では、彼女はさっきよりずっと幼く見えた。


「あの」


 向こうから声をかけてきた。


「佐伯さん」


「はい」


「私、落ちましたよね」


 直球だった。


 俺は答えに困った。


 嘘をつくのは簡単だ。


 まだわかりません。

 可能性はあります。

 きっと大丈夫です。


 でも、そういう言葉はたいてい、相手を楽にするためではなく、自分が気まずさから逃げるために使う。


「メインの役は、厳しいと思います」


 澪の指が、台本の端を握った。


「……ですよね」


 その声には、思ったより大きな落胆がなかった。


 落胆する前に、もう慣れているような声だった。


 それが嫌だった。


「ただ」


 澪が顔を上げる。


「別のテストがあるかもしれません」


「別の……?」


「まだ確定じゃないです。だから期待しすぎないでください」


「はい」


「でも、残るように言われると思います」


 澪は一瞬、何を言われたのかわからないような顔をした。


「私が、ですか」


「はい」


「どうして」


「水野さんが、もう一回見たいと思ったからです」


「水野さんが……」


 澪はその言葉を、信じていいのか迷っているようだった。


 それから、小さく首を振る。


「違いますよね」


「何がですか」


「佐伯さんが、言ってくれたからです」


 俺は少し黙った。


 否定すべきだった。


 彼女が俺に余計な期待を持つのはよくない。


 俺は審査員ではない。

 演出家でもない。

 この子を救える立場でもない。


 でも、完全な嘘もつけなかった。


「俺が言ったのは、きっかけです」


「きっかけ」


「残れるかどうかは、あなたの演技次第です」


 澪の顔が、少しだけ強ばった。


「演技……」


 その言葉を怖がっている。


 女優になりたいくせに、演技という言葉が怖い。


 厄介だ。


 かなり厄介だ。


 でも、たぶんそこが彼女の入口でもある。


「次のテスト、台詞は少ないと思います」


「少ない……」


「二つくらいです」


 澪は少しだけ安心したような顔をした。


 けれど、その安心を見た瞬間、俺は言った。


「ただし、少ない方が難しいです」


 澪の顔が固まる。


「ですよね」


「はい」


「佐伯さんって、安心させる気あります?」


「適当な安心なら、ないです」


「……そうですか」


 澪は台本を抱え直した。


 少しだけ、口元が揺れた。


 笑いかけたのかもしれない。


 でも、笑いにはならなかった。


「私、さっきの三秒がよかったって言われても、どうしたらいいのかわからないです」


「はい」


「もう一回やってって言われても、同じようにできる気がしません」


「でしょうね」


「ですよね」


 澪は下を向いた。


「さっきは、本当に言えなかっただけなんです。上手くやろうとしたわけじゃなくて。ただ、言ったら、その役がかわいそうな気がして」


 その言葉は、かなり大事だった。


 彼女は自分を上手く見せたいのではない。


 役を裏切りたくなかった。


 だから言えなかった。


 その不器用さが、たぶん彼女の核だ。


「朝比奈さん」


「はい」


「次も、上手くやろうとしない方がいいです」


 澪が顔を上げる。


「でも、それだと下手なままです」


「はい」


「はいって」


「下手なまま、見つけるしかないです」


「何をですか」


「その役が、どうしてその台詞を言うのか」


 澪は黙った。


 俺は続けた。


「声を震わせようとか、泣こうとか、可愛く見せようとか、そういうのは一回捨ててください」


「捨てる」


「台詞を上手く読むんじゃなくて、その人が言いたくないことを探してください」


「言いたくないこと……」


「言いたくないけど、言わなきゃいけない。そこに引っかかった時だけ、あなたはたぶん映ります」


 澪は、じっと俺を見ていた。


 理解したという顔ではなかった。


 でも、何かを必死に掴もうとしている顔だった。


「佐伯さんは」


「はい」


「どうして、そんなことがわかるんですか」


 聞かれると思った。


 でも、答えたくはなかった。


 俺は少しだけ視線を外す。


 廊下の壁には、昔の作品のポスターがいくつか貼られている。


 その中の一枚に、子どもの頃の俺が映っていた。


 今よりずっと小さい俺が、雨の中で泣いている。


 その映画は、たしか賞を取った。


 俺は天才子役と呼ばれた。


 でも、あの時なぜ泣いたのか、今でもよく思い出せない。


 泣けと言われたから泣いたのか。


 本当に悲しかったのか。


 それとも、悲しいふりをするのが上手かっただけなのか。


 わからない。


「昔、少しだけ現場にいたので」


 俺はそれだけ言った。


 澪はポスターを見た。


 そして、何かに気づきかけた顔をした。


 けれど、それ以上は聞かなかった。


 たぶん、優しいのではない。


 自分も踏み込まれたくない場所を持っているから、人のそれにも触れなかっただけだ。


 その沈黙は、少し居心地が悪くて、少しだけありがたかった。


「朝比奈澪さん」


 スタッフの声が廊下に響いた。


 澪の肩が跳ねる。


「はい」


「残ってください。追加でテストします」


 その瞬間、澪の顔から血の気が引いた。


 喜びより先に、怖さが来た顔だった。


「……はい」


 小さく返事をして、彼女は台本を抱きしめた。


 俺は言った。


「息を吸いすぎない方がいいです」


 澪がこちらを見る。


「さっき、吸いすぎてました」


「そんなところまで見てたんですか」


「見えたので」


「怖いです」


「よく言われます」


 少しだけ、澪の表情が緩んだ。


 ほんの少し。


 でも、それだけでさっきより呼吸が浅くなる。


 いい。


 緊張が消えたわけではない。


 けれど、緊張に飲み込まれてはいない。


「佐伯さん」


「はい」


「次も、下手だったらどうしますか」


「下手だと思います」


「言い切りますね」


「急には上手くならないので」


 澪は唇を結んだ。


 傷ついた顔ではなかった。


 むしろ、少しだけ腹をくくった顔だった。


「でも」


 俺は言った。


「下手でも、届く時はあります」


 澪は一度だけ、深くうなずいた。


 今度は息を吸いすぎなかった。


 第三スタジオに戻ると、空気が少し変わっていた。


 さっきまでただの不合格者だった澪に、何人かの視線が向いている。


 好意ではない。


 警戒。

 興味。

 苛立ち。


 あの子、何で残ってるの。


 そんな空気。


 澪は床のテープの前に立った。


 声を出す前から、彼女の指は台本の端を強く押さえている。


 緊張しているのは、誰が見てもわかった。


 けれど、不思議なことに、立ち姿だけは崩れなかった。


 怯えている。

 自信もない。

 今にも逃げ出しそうな顔をしている。


 それなのに、足の裏だけは床に吸いついたみたいに動かない。


 白い半紙の前に立つ人間の姿勢だ、と俺は思った。


 書類の特技欄にあった「書道」という二文字を思い出す。


 筆を入れる前の、あの静けさ。

 一度墨を落としたら、もう戻せない白。

 迷えば滲む。

 止まれば死ぬ。


 たぶん彼女の身体は、声より先にそれを知っている。


 台詞は下手だ。


 でも、立ち方だけは嘘をついていなかった。


 水野さんが台本をめくる。


「四話の回想。主人公が駅で偶然、昔の同級生とすれ違う場面。台詞は二つだけ」


「はい」


「状況を説明する」


 水野さんの声は淡々としていた。


「君の役は、昔の同級生。主人公と駅で偶然すれ違う。昔、少しだけ仲が良かった。でも、今はそれ以上でもそれ以下でもない」


「はい」


「本来は、ただの回想だ。青春の一ページ。湿っぽくする必要はない」


「はい」


「一つ目の台詞。『久しぶり』」


「はい」


「二つ目。『元気でね』」


「はい」


「それだけだ」


 それだけ。


 たった二つ。


 けれど、たった二つだから難しい。


 説明ができない。

 泣けない。

 叫べない。

 長い台詞で感情を積めない。


 ただの挨拶に、何を乗せるか。


 あるいは、何も乗せないか。


「やってみて」


 助監督が相手役に入る。


 澪は小さく息を吸った。


 少し深い。


 でも、さっきよりは浅い。


 助監督が読む。


「……朝比奈?」


 役名ではなく、仮で本人の名字を入れた。


 澪が顔を上げる。


 目が合う。


「久しぶり」


 下手だった。


 やはり、声が硬い。


 久しぶり、という言葉が、ただの音になって落ちた。


 審査員の一人が少し目を伏せる。


 候補者の誰かが、また小さく息を吐いた。


 澪の指が揺れる。


 まずい。


 彼女自身が、今の下手さに気づいている。


 気づいた瞬間、さらに硬くなる。


 助監督が続ける。


「元気だった?」


「うん」


 本来、そこに台詞はない。


 でも、澪は小さく返してしまった。


 水野さんの眉がわずかに動く。


 台本にない反応。


 普通なら、減点だ。


 でも、声はさっきより自然だった。


 余計な演技をしなかったからだ。


 助監督が、少し間を置いて読む。


「俺、あの時――」


 主人公が昔の話をしようとする。


 けれど、少女はそれを止める。


 最後の台詞。


『元気でね』


 澪は口を開いた。


 すぐには言わなかった。


 さっきの三秒ほど長くはない。


 でも、言葉の手前で一度だけ止まった。


 昔のことを言わせたくない。


 言われたら、自分も何かを言わなければいけなくなる。


 だから、何もなかったみたいに終わらせる。


「……元気でね」


 上手くはなかった。


 滑舌も完璧じゃない。

 声も少し震えていた。

 台詞としては、たぶん弱い。


 でも。


 その声には、言わなかった時間があった。


 告白しなかったこと。

 待たなかったこと。

 会えなかったこと。

 それでも、今さら何も言わないと決めたこと。


 全部を説明するほど器用ではない。


 だから、二文字ずつ置くように言った。


 元気でね。


 ただの別れの挨拶なのに、なぜか、もう会えない気がした。


 スタジオが静かになった。


 水野さんは、しばらく何も言わなかった。


 澪は立ったまま、息を止めている。


 たぶん、自分が今どうだったのか、わかっていない。


「もう一回」


 水野さんが言った。


 澪の肩が跳ねる。


「はい」


「今の最後だけ」


 助監督が同じ箇所を読む。


「俺、あの時――」


 澪は目を伏せた。


 今度は、少し早かった。


 早すぎた。


「元気でね」


 軽い。


 さっきより弱い。


 水野さんが首を傾ける。


「違うな」


 澪の顔がこわばる。


「すみません」


「謝らなくていい。もう一回」


 助監督が読む。


「俺、あの時――」


「元気でね」


 今度は感情を込めようとしすぎた。


 声が揺れすぎる。


 さっきの自然さが消える。


 水野さんは何も言わない。


 沈黙が落ちる。


 澪の手が震え始めた。


 まずい。


 これは落ちる震えだ。


 緊張ではない。


 自分で自分を責め始めた震え。


 俺は口を開きかけた。


 けれど、水野さんの目がこちらに向いた。


 勝手に言うな。


 そういう目だった。


 俺は黙った。


 今ここで助けたら、彼女はまた俺を見る。


 俺の答えを待つようになる。


 それは違う。


 水野さんが言った。


「朝比奈さん」


「はい」


「君は今、何を言おうとして失敗してる?」


 澪は混乱した顔をした。


「何を……」


「元気でね、を上手く言おうとしてる?」


「……はい」


「じゃあ失敗する」


 水野さんは台本を置いた。


「その台詞は、上手く言う台詞じゃない」


 澪が黙る。


 その沈黙を、水野さんはすぐには助けなかった。


 むしろ、わざと少し長く置いた。


 澪の逃げ場を、ひとつずつ塞ぐみたいに。


 それから、水野さんは俺を見た。


「佐伯くん」


「はい」


「君が止めた子だ」


 スタジオの空気が、また少し冷えた。


「客観的に見て、今の芝居は何がダメだ?」


 意地の悪い振り方だった。


 助け舟じゃない。


 現場を止めた俺に、責任を取らせるための問い。


 そして、澪に現実を聞かせるための問いでもあった。


 下手だと言え。


 足りないと認めろ。


 そのうえで、それでも見る価値があるのか示せ。


 水野さんの目は、そう言っていた。


 俺は一度だけ息を吐いた。


 許可は出た。


 だから言える。


「上手く言おうとしているところです」


 澪の目が、こちらを向いた。


「声を震わせようとして、感情を作ろうとして、優しい別れにしようとしている」


 水野さんは黙っている。


「でも、あの役、相手に元気でいられたらムカつくんじゃないですか」


 澪の指が、台本の端を握る。


「自分がいなくても平気だったみたいで、腹が立つ。でも、弱っていてほしいわけでもない。引き止めてほしいわけでもない」


 スタジオが静かになる。


「だから、さっさと終わらせたい」


 俺は続けた。


「元気でね、って優しい言葉に見えますけど」


 少しだけ迷ってから言った。


「本当は、相手に何も言わせないための蓋だと思います」


 澪は台本を見た。


 元気でね。


 たった五文字。


 でも、その五文字の底に、言えないものがある。


 水野さんはしばらく俺を見ていた。


 それから、短く言った。


「もう一回」


 澪が顔を上げる。


「……はい」


 その返事は、さっきより少しだけ低かった。


 助監督が読む。


「俺、あの時――」


 澪は、すぐに遮らなかった。


 相手の言葉を聞きたい顔をした。


 聞きたい。


 でも、聞いたらきっと、自分も何かを言わなければいけなくなる。


 だから、澪は一度だけ笑おうとした。


 失敗した。


 笑顔になりきれなかった口元のまま、彼女は小さく言った。


「……元気でね」


 それは、優しい別れではなかった。


 祈りでもなかった。


 相手のための言葉ですらなかった。


 もう何も言わせないために置いた、薄い蓋だった。


 なのに、その蓋の隙間から、言えなかったものが全部漏れていた。


 スタジオが止まった。


 助監督が次の台詞を読むのを忘れている。


 ほんの一瞬。


 けれど、その一瞬は確かにあった。


 水野さんは、しばらく黙っていた。


 それから、台本を見下ろして、低く笑った。


「……本当は、もっとカラッとしたシーンだったんだけどな」


 助監督が顔を上げる。


「青春の一ページ、みたいなやつですか」


「そう。昔の同級生と偶然会って、少し懐かしんで、それで終わる」


 水野さんは澪を見る。


「なのに、今のは違った」


 澪の肩が小さく揺れる。


「君がやると、別れ損ねた人間のシーンになる」


 褒めているのか、困っているのか、わからない言い方だった。


 でも、水野さんの目はもう、書類を見ていなかった。


 澪を見ていた。


「今の」


 澪が固まる。


「覚えておける?」


 澪はすぐに答えられなかった。


 けれど、さっきとは違った。


 怖がって黙ったのではない。


 今、自分の中に起きたものを逃がさないように、必死に掴んでいる沈黙だった。


「……覚えたいです」


 それは、たぶん答えになっていなかった。


 でも、水野さんはそれ以上聞かなかった。


「四話の回想、朝比奈さんで仮押さえ」


 スタジオの空気が揺れた。


 澪は、意味がわかっていないような顔をした。


 助監督が小さく言う。


「おめでとう。まだ正式決定じゃないけどね」


「……え」


 澪は瞬きをした。


「私、ですか」


「仮押さえ」


 水野さんが言った。


「正式決定じゃない。勘違いしないように」


「はい」


「台詞二つだ」


「はい」


「でも、その二つで落ちることもある」


「はい」


「次までに、上手くなろうとするな」


 澪が顔を上げる。


 水野さんは言った。


「その役が何を言いたくないのかを考えてこい」


 澪は、台本を強く抱きしめた。


「はい」


 その返事は、今日聞いた彼女の声の中で一番はっきりしていた。


 オーディションが終わったあと、第三スタジオの廊下には、夜の匂いが入り込んでいた。


 外はもう暗い。


 地方制作会社の窓に映る街の明かりは、東京のそれほど派手ではない。


 けれど、澪はその窓の前で立ち止まっていた。


 手元の台本を、何度も見ている。


 久しぶり。


 元気でね。


 たった二つの台詞。


 それでも彼女にとっては、初めて自分で掴みかけた役だった。


「あの」


 澪が振り返る。


「佐伯さん」


「はい」


「仮押さえって、喜んでいいんですか」


「少しだけなら」


「少しだけ」


「正式決定じゃないので」


「ですよね」


 澪は小さくうなずいた。


 それから、台本を胸の前で抱えた。


「でも、少しだけ嬉しいです」


「それはよかったです」


「……私、さっきの『元気でね』、またできると思いますか」


 不安な声だった。


 けれど、最初の時とは違う。


 助けてほしい声ではなかった。


 自分でやるために、足場を確かめている声だった。


「わかりません」


「そこは、できますって言ってくれないんですね」


「言ってできるなら言います」


「厳しいです」


「でも」


 俺は窓の外を見た。


 暗いガラスに、俺と澪が薄く映っている。


 制作補助の男と、仮押さえの新人女優。


 どちらも、まだ何者でもない。


「今日、あなたは一回できました」


 澪が黙る。


「偶然かもしれない。でも、一回できたなら、次は偶然じゃなくせます」


「どうやって」


「考えるしかないです」


「何を」


「その役が、本当は何を言いたくなかったのか」


 澪は台本に目を落とした。


「……言いたくないこと」


「はい」


「そればっかりですね」


「あなたは、言いたくないことの方が映るので」


 澪はしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ困った顔をした。


「それって、いいことなんでしょうか」


「まだ、わかりません」


「またそれですか」


「でも」


 俺は言った。


「武器にはなります」


 澪の目が、少しだけ開いた。


「武器」


「はい」


「私に、武器なんてあるんですか」


「あります」


 即答した。


 澪が息を止める。


 その反応を見て、少しだけ言いすぎたかと思った。


 でも、取り消すつもりはなかった。


「ただし、扱い方を間違えたら自分に刺さります」


「怖いこと言いますね」


「怖いものなので」


 沈黙は、才能にもなる。


 でも、逃げ道にもなる。


 黙っていれば伝わると思い込めば、きっとすぐに終わる。


 いつか彼女は、言わなければいけない。


 言えないことを抱えたまま、言葉を選ばなければいけない日が来る。


 その時、沈黙だけに逃げないために。


「朝比奈さん」


「はい」


「台詞は、下手なままでいいとは言ってません」


 澪の顔が引き締まる。


「はい」


「発声も、滑舌も、間も、全部やった方がいいです」


「はい」


「たぶん、しんどいです」


「はい」


「何回も、下手だと言われると思います」


「……はい」


「それでもやりますか」


 澪は少しだけ黙った。


 窓の向こうの明かりが、彼女の目に映っていた。


 弱い光だった。


 でも、消えてはいなかった。


「やります」


 小さな声だった。


 けれど、逃げる声ではなかった。


「だって、私」


 澪は台本を抱え直した。


「今日、初めて少しだけ、女優になれた気がしたんです」


 その言葉を聞いて、俺は何も言えなくなった。


 昔の俺なら、すぐに否定したかもしれない。


 気がした、だけでは現場に立てない。

 少しだけ、では仕事にならない。

 女優という言葉は、そんなに簡単に使うものじゃない。


 でも、今は言わなかった。


 その小さな実感を、潰したくなかった。


「じゃあ」


 俺は言った。


「次は、少しじゃなくしてください」


 澪は俺を見た。


 それから、今日初めて、ほんの少しだけ笑った。


 きれいな笑顔ではなかった。


 ぎこちなくて、控えめで、すぐ消えそうな笑顔。


 でも、作り物ではなかった。


「はい」


 その返事は、台詞ではなかった。


 だから、ちゃんと届いた。


 廊下の向こうで、水野さんがこちらを見ていた。


 何も言わない。


 ただ、顎だけでスタジオの奥を示す。


 片付けろ。


 書類を回収しろ。


 仕事に戻れ。


 そういう、いつもの無言の命令だった。


「……今行きます」


 俺はそう答えた。


 逃げない、と即答はできなかった。


 その言葉を言うには、俺はまだ逃げすぎていた。


 澪が小さく首を傾げる。


「佐伯さん、逃げてたんですか」


「いろいろと」


「……そうですか」


 澪はそれ以上、聞かなかった。


 聞かない優しさではない。


 たぶん、自分にも聞かれたくないことがあるからだ。


 少しの沈黙が落ちる。


 窓の向こうは暗かった。


 地方制作会社の廊下に映る俺たちは、制作補助の男と、仮押さえの新人女優でしかない。


 どちらも、まだ何者でもない。


 澪は台本に目を落とした。


「私も、逃げてたのかもしれません」


「何からですか」


 澪はすぐには答えなかった。


 台詞から。


 下手だと言われることから。


 自分の声から。


 たぶん、答えはいくつもあった。


 けれど彼女は、どれも選ばなかった。


「……まだ、わかりません」


 その答えが、今の彼女には一番正しい気がした。


 わからないまま、彼女は台本を抱えている。


 わからないまま、俺もここに立っている。


 似ている、とは思わなかった。


 同じですね、なんて綺麗な言葉で括れるほど、俺たちはまだ何も知らない。


 ただ、逃げてきた人間と、逃げそうな人間が、同じ廊下で少しだけ足を止めていた。


 それだけだった。


 そのはずだった。


 なのに俺は、彼女の台本を見ていた。


 久しぶり。


 元気でね。


 たった二つの台詞。


 その二つを、朝比奈澪が次にどう壊すのかを、もう考えていた。


 見たい。


 もう一度、画面の中で見たい。


 そう思った瞬間、腹の底が冷えた。


 最悪だ。


 俺はただの制作補助でいたかった。


 書類を運んで、台本を回収して、誰かの感情に触れずに一日を終えるだけの人間でいたかった。


 なのに、あの子の沈黙は、俺の中で腐ったまま眠っていた目を起こした。


 もう一度、現場の泥を啜りたいと。


 もう一度、誰かの感情を画面に残したいと。


 そんな最低な欲を、俺に思い出させた。


 俺は台本から目を離した。


 離したつもりだった。


 けれど、頭の中ではまだ、彼女の「元気でね」が消えていなかった。

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