沈黙に値段はつかない
水野さんに呼ばれた時点で、怒られることは決まっていた。
問題は、どの程度で済むかだった。
「佐伯くん」
オーディションが一時休憩に入ったあと、俺は第三スタジオの隅にある機材置き場へ呼ばれた。
折りたたみ椅子。
古い照明スタンド。
コードを巻いた黒い箱。
誰かが飲み残した紙コップ。
華やかな芸能界、という言葉から一番遠い場所。
水野さんはそこで、煙草も吸わず、腕も組まず、ただ俺を見ていた。
その目が一番きつい。
怒鳴られる方がまだ楽だった。
「まず、確認するけど」
「はい」
「君は今日、何の立場でここにいる?」
「制作補助です」
「違う」
即答だった。
「雑用だ」
「……はい」
反射的に、背筋が伸びた。
顎を少し引く。
視線を相手の目よりわずかに下へ落とす。
怒らせない角度で、申し訳なさそうに口元を緩める。
気持ち悪いくらい、身体が先に正解を選んだ。
子どもの頃から、大人の機嫌を損ねない立ち方だけは上手かった。
監督にも、プロデューサーにも、マネージャーにも。
泣けと言われれば泣き、笑えと言われれば笑い、謝れと言われれば、何に対して謝っているのかわからないまま頭を下げた。
今も同じだ。
内側では冷や汗をかいているくせに、外側の俺は、ちゃんと反省している下っ端の顔をしていた。
「書類を運んで、候補者を呼んで、終わった台本を回収する。それが今日の君の仕事だ」
「はい」
「審査員じゃない」
「はい」
「演出家でもない」
「はい」
「俳優でもない」
そこだけ、少し間があった。
水野さんの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「少なくとも、今は」
俺は何も言わなかった。
言えば、何かが余計に剥がれる気がした。
水野さんは小さく息を吐いた。
「わかってて、口を出したんだな」
「……はい」
「最低だよ」
「はい」
「外部事務所の子だぞ。十七歳の新人だ。落とすにしても、通すにしても、こっちは手順を踏まなきゃいけない」
「はい」
「君の一言で、あの子は傷つくかもしれない。変な期待を持つかもしれない。事務所が文句を言ってくるかもしれない」
「はい」
「それでも言った」
「はい」
「理由は?」
理由。
そんなものは、いくつか並べようと思えば並べられる。
彼女の沈黙が良かったから。
台詞を飛ばしたわけではなかったから。
あれを失敗として終わらせるのが惜しかったから。
でも、たぶん全部違う。
もっと単純で、もっとどうしようもない。
「……見なかったことにできませんでした」
水野さんは、少しだけ黙った。
機材置き場の向こうから、次の候補者の声が聞こえる。
明るい声だった。
大きく、はっきりしていて、よく通る。
たぶん、澪よりずっと上手い。
「佐伯くん」
「はい」
「あの子の何を見た」
俺は、さっきの三秒を思い出した。
言えなかった唇。
揺れた目。
逃げきれなかった視線。
喉の奥で止まった言葉。
嫌いだと言わなければいけない役が、まだ好きでいることをやめられない。
あの迷いは、技術じゃない。
でも、ただの偶然とも違う。
「言葉になる前の感情です」
「ずいぶん曖昧だな」
「はい」
「それを演技と呼ぶには、まだ早い」
「わかってます」
「台詞は下手だった」
「かなり」
「声も硬い」
「はい」
「間も悪い」
「はい」
「芝居の基礎は、たぶんほとんど入ってない」
「そう思います」
「じゃあ、なぜ止めた」
水野さんの声が、少し低くなった。
「下手な子ならいくらでもいる。顔がいい子もいくらでもいる。泣ける子も、叫べる子も、器用な子もいる」
「はい」
「それでも、あの子だった理由は?」
俺は少し考えた。
答えを間違えたら、たぶんここで終わる。
澪のチャンスも。
俺の仕事も。
けれど、上手い言葉を選ぼうとした時点で嘘になる。
「あの子は、嘘をつくのが下手です」
水野さんの眉が動いた。
「女優志望としては致命的だな」
「はい」
「なのに?」
「だからです」
俺は言った。
「台詞で嘘をつこうとすると、全部死ぬ。でも、嘘をつけないところまで追い詰められると、画面に残る」
水野さんは俺を見ていた。
表情は変わらない。
でも、話を切る気配もない。
「好きじゃない、って言えなかっただけだろ」
「はい」
「演技じゃなくて、ただの不器用かもしれない」
「そうかもしれません」
「再現性がなければ意味がない」
「はい」
「現場は偶然を待つ場所じゃない」
「わかってます」
水野さんはそこで、初めて腕を組んだ。
「じゃあ、どうする」
「……どうする、とは」
「君が見つけたんだろ」
嫌な言い方だった。
でも、正しい。
「偶然かもしれない沈黙を、どうやって芝居にする」
俺は答えられなかった。
さっきまでなら、言えたかもしれない。
彼女を追い込めばいい。
言いたくない台詞を渡せばいい。
黙るしかない状況を作ればいい。
昔の俺なら、たぶんそう考えた。
感情を引き出すために、心の柔らかいところを探して、そこを押す。
泣かせる。
黙らせる。
震えさせる。
それを、演技と呼んでいた。
でも、それは違う。
少なくとも、今の朝比奈澪にやるべきことではない。
「わかりません」
水野さんの目が少しだけ鋭くなる。
「わからない?」
「はい」
「君が止めたんだぞ」
「はい」
「なのに?」
「今、適当に方法を言ったら、たぶんあの子を壊します」
言ってから、自分でも少し驚いた。
水野さんも黙った。
言葉にして初めて、俺は自分が何を怖がっていたのかわかった。
朝比奈澪の沈黙を、俺は見つけた。
でも、見つけたものを磨くのと、削って壊すのは違う。
俺は昔、その違いがわからなかった。
いや。
わからないふりをしていた。
「……言うようになったな」
水野さんが、低く言った。
怒っているのではなかった。
少し、疲れたような声だった。
「昔は、そんなこと気にしなかったくせに」
「昔の話です」
「便利な言葉だ」
「はい」
「で、今は雑用か」
「はい」
「逃げるには、ちょうどいい場所だな」
反論はできなかった。
水野さんは、機材箱の上に置いてあった台本を一冊取った。
表紙には、深夜ドラマのタイトルが印刷されている。
『青い夜の終わり』
今回のオーディション作品だ。
「朝比奈澪は、メインの元恋人役には弱い」
「……はい」
「今のままでは無理だ。台詞量もある。相手役との掛け合いも多い。現場が止まる」
「はい」
「ただ」
水野さんは台本を開いた。
「四話に、写真だけ残っている元同級生の回想シーンがある」
「はい」
「台詞は二つ」
水野さんがページをめくる。
「一つ目。『久しぶり』」
次のページ。
「二つ目。『元気でね』」
俺はその台本を見た。
短い。
役としては小さい。
名前もない。
本来なら、爽やかな回想の中に一瞬だけ差し込まれる少女。
昔の同級生と偶然すれ違って、少し懐かしんで、それで終わる。
たぶん脚本上は、それ以上でもそれ以下でもない。
澪に都合よく用意された役ではない。
むしろ、何も起きないことが役割の場面だった。
「朝比奈さんに、その役を?」
「まだ決めてない」
水野さんは即答した。
「テストする」
「テスト」
「次の休憩明け、彼女を残す。台詞二つだけ読ませる」
「はい」
「君も残れ」
「俺も、ですか」
「君が見つけたんだろ」
さっきと同じ言い方だった。
でも、今度は逃げ場がなかった。
「ただし」
水野さんの声が冷える。
「勝手な演出はするな」
「はい」
「俺が聞いたら答えろ」
「はい」
「朝比奈さんに直接言う時は、俺の許可を取れ」
「はい」
「もう一度、現場を止めたら帰す」
「はい」
「あと」
水野さんは俺を見る。
「君の過去を使う気はない」
俺は顔を上げた。
「元天才子役だろうが、何だろうが、今の君は制作補助だ」
「……はい」
「でも、目はまだ腐ってない」
水野さんは台本を閉じた。
「それだけは使う」
褒められたのか、道具扱いされたのか、判断が難しかった。
たぶん両方だ。
「ありがとうございます」
「礼を言う場面じゃない」
「はい」
「仕事に戻れ」
俺は頭を下げて、機材置き場を出た。
スタジオでは、次の候補者が演技をしていた。
上手かった。
声が通る。
表情も作れる。
台詞の意味も理解している。
会場の空気も悪くない。
たぶん、普通に考えればこの子を選ぶべきだ。
なのに、俺の頭にはさっきの三秒が残っていた。
上手い演技は、流れていく。
でも、あの沈黙だけは引っかかる。
傷みたいに残る。
控室の前を通ると、中から小さな話し声が聞こえた。
「朝比奈さん、さっき何だったの?」
「雑用の人に助けてもらってたよね」
「いいなあ、顔がいいと拾ってもらえて」
軽い声。
悪意というより、暇つぶしに近い。
だから余計に質が悪い。
俺は足を止めなかった。
止めたらまた何か言ってしまいそうだった。
廊下の端で、澪が一人で立っていた。
控室から出てきたのか、戻れなくなったのかはわからない。
台本を胸に抱えて、壁際に立っている。
照明の届かない廊下では、彼女はさっきよりずっと幼く見えた。
「あの」
向こうから声をかけてきた。
「佐伯さん」
「はい」
「私、落ちましたよね」
直球だった。
俺は答えに困った。
嘘をつくのは簡単だ。
まだわかりません。
可能性はあります。
きっと大丈夫です。
でも、そういう言葉はたいてい、相手を楽にするためではなく、自分が気まずさから逃げるために使う。
「メインの役は、厳しいと思います」
澪の指が、台本の端を握った。
「……ですよね」
その声には、思ったより大きな落胆がなかった。
落胆する前に、もう慣れているような声だった。
それが嫌だった。
「ただ」
澪が顔を上げる。
「別のテストがあるかもしれません」
「別の……?」
「まだ確定じゃないです。だから期待しすぎないでください」
「はい」
「でも、残るように言われると思います」
澪は一瞬、何を言われたのかわからないような顔をした。
「私が、ですか」
「はい」
「どうして」
「水野さんが、もう一回見たいと思ったからです」
「水野さんが……」
澪はその言葉を、信じていいのか迷っているようだった。
それから、小さく首を振る。
「違いますよね」
「何がですか」
「佐伯さんが、言ってくれたからです」
俺は少し黙った。
否定すべきだった。
彼女が俺に余計な期待を持つのはよくない。
俺は審査員ではない。
演出家でもない。
この子を救える立場でもない。
でも、完全な嘘もつけなかった。
「俺が言ったのは、きっかけです」
「きっかけ」
「残れるかどうかは、あなたの演技次第です」
澪の顔が、少しだけ強ばった。
「演技……」
その言葉を怖がっている。
女優になりたいくせに、演技という言葉が怖い。
厄介だ。
かなり厄介だ。
でも、たぶんそこが彼女の入口でもある。
「次のテスト、台詞は少ないと思います」
「少ない……」
「二つくらいです」
澪は少しだけ安心したような顔をした。
けれど、その安心を見た瞬間、俺は言った。
「ただし、少ない方が難しいです」
澪の顔が固まる。
「ですよね」
「はい」
「佐伯さんって、安心させる気あります?」
「適当な安心なら、ないです」
「……そうですか」
澪は台本を抱え直した。
少しだけ、口元が揺れた。
笑いかけたのかもしれない。
でも、笑いにはならなかった。
「私、さっきの三秒がよかったって言われても、どうしたらいいのかわからないです」
「はい」
「もう一回やってって言われても、同じようにできる気がしません」
「でしょうね」
「ですよね」
澪は下を向いた。
「さっきは、本当に言えなかっただけなんです。上手くやろうとしたわけじゃなくて。ただ、言ったら、その役がかわいそうな気がして」
その言葉は、かなり大事だった。
彼女は自分を上手く見せたいのではない。
役を裏切りたくなかった。
だから言えなかった。
その不器用さが、たぶん彼女の核だ。
「朝比奈さん」
「はい」
「次も、上手くやろうとしない方がいいです」
澪が顔を上げる。
「でも、それだと下手なままです」
「はい」
「はいって」
「下手なまま、見つけるしかないです」
「何をですか」
「その役が、どうしてその台詞を言うのか」
澪は黙った。
俺は続けた。
「声を震わせようとか、泣こうとか、可愛く見せようとか、そういうのは一回捨ててください」
「捨てる」
「台詞を上手く読むんじゃなくて、その人が言いたくないことを探してください」
「言いたくないこと……」
「言いたくないけど、言わなきゃいけない。そこに引っかかった時だけ、あなたはたぶん映ります」
澪は、じっと俺を見ていた。
理解したという顔ではなかった。
でも、何かを必死に掴もうとしている顔だった。
「佐伯さんは」
「はい」
「どうして、そんなことがわかるんですか」
聞かれると思った。
でも、答えたくはなかった。
俺は少しだけ視線を外す。
廊下の壁には、昔の作品のポスターがいくつか貼られている。
その中の一枚に、子どもの頃の俺が映っていた。
今よりずっと小さい俺が、雨の中で泣いている。
その映画は、たしか賞を取った。
俺は天才子役と呼ばれた。
でも、あの時なぜ泣いたのか、今でもよく思い出せない。
泣けと言われたから泣いたのか。
本当に悲しかったのか。
それとも、悲しいふりをするのが上手かっただけなのか。
わからない。
「昔、少しだけ現場にいたので」
俺はそれだけ言った。
澪はポスターを見た。
そして、何かに気づきかけた顔をした。
けれど、それ以上は聞かなかった。
たぶん、優しいのではない。
自分も踏み込まれたくない場所を持っているから、人のそれにも触れなかっただけだ。
その沈黙は、少し居心地が悪くて、少しだけありがたかった。
「朝比奈澪さん」
スタッフの声が廊下に響いた。
澪の肩が跳ねる。
「はい」
「残ってください。追加でテストします」
その瞬間、澪の顔から血の気が引いた。
喜びより先に、怖さが来た顔だった。
「……はい」
小さく返事をして、彼女は台本を抱きしめた。
俺は言った。
「息を吸いすぎない方がいいです」
澪がこちらを見る。
「さっき、吸いすぎてました」
「そんなところまで見てたんですか」
「見えたので」
「怖いです」
「よく言われます」
少しだけ、澪の表情が緩んだ。
ほんの少し。
でも、それだけでさっきより呼吸が浅くなる。
いい。
緊張が消えたわけではない。
けれど、緊張に飲み込まれてはいない。
「佐伯さん」
「はい」
「次も、下手だったらどうしますか」
「下手だと思います」
「言い切りますね」
「急には上手くならないので」
澪は唇を結んだ。
傷ついた顔ではなかった。
むしろ、少しだけ腹をくくった顔だった。
「でも」
俺は言った。
「下手でも、届く時はあります」
澪は一度だけ、深くうなずいた。
今度は息を吸いすぎなかった。
第三スタジオに戻ると、空気が少し変わっていた。
さっきまでただの不合格者だった澪に、何人かの視線が向いている。
好意ではない。
警戒。
興味。
苛立ち。
あの子、何で残ってるの。
そんな空気。
澪は床のテープの前に立った。
声を出す前から、彼女の指は台本の端を強く押さえている。
緊張しているのは、誰が見てもわかった。
けれど、不思議なことに、立ち姿だけは崩れなかった。
怯えている。
自信もない。
今にも逃げ出しそうな顔をしている。
それなのに、足の裏だけは床に吸いついたみたいに動かない。
白い半紙の前に立つ人間の姿勢だ、と俺は思った。
書類の特技欄にあった「書道」という二文字を思い出す。
筆を入れる前の、あの静けさ。
一度墨を落としたら、もう戻せない白。
迷えば滲む。
止まれば死ぬ。
たぶん彼女の身体は、声より先にそれを知っている。
台詞は下手だ。
でも、立ち方だけは嘘をついていなかった。
水野さんが台本をめくる。
「四話の回想。主人公が駅で偶然、昔の同級生とすれ違う場面。台詞は二つだけ」
「はい」
「状況を説明する」
水野さんの声は淡々としていた。
「君の役は、昔の同級生。主人公と駅で偶然すれ違う。昔、少しだけ仲が良かった。でも、今はそれ以上でもそれ以下でもない」
「はい」
「本来は、ただの回想だ。青春の一ページ。湿っぽくする必要はない」
「はい」
「一つ目の台詞。『久しぶり』」
「はい」
「二つ目。『元気でね』」
「はい」
「それだけだ」
それだけ。
たった二つ。
けれど、たった二つだから難しい。
説明ができない。
泣けない。
叫べない。
長い台詞で感情を積めない。
ただの挨拶に、何を乗せるか。
あるいは、何も乗せないか。
「やってみて」
助監督が相手役に入る。
澪は小さく息を吸った。
少し深い。
でも、さっきよりは浅い。
助監督が読む。
「……朝比奈?」
役名ではなく、仮で本人の名字を入れた。
澪が顔を上げる。
目が合う。
「久しぶり」
下手だった。
やはり、声が硬い。
久しぶり、という言葉が、ただの音になって落ちた。
審査員の一人が少し目を伏せる。
候補者の誰かが、また小さく息を吐いた。
澪の指が揺れる。
まずい。
彼女自身が、今の下手さに気づいている。
気づいた瞬間、さらに硬くなる。
助監督が続ける。
「元気だった?」
「うん」
本来、そこに台詞はない。
でも、澪は小さく返してしまった。
水野さんの眉がわずかに動く。
台本にない反応。
普通なら、減点だ。
でも、声はさっきより自然だった。
余計な演技をしなかったからだ。
助監督が、少し間を置いて読む。
「俺、あの時――」
主人公が昔の話をしようとする。
けれど、少女はそれを止める。
最後の台詞。
『元気でね』
澪は口を開いた。
すぐには言わなかった。
さっきの三秒ほど長くはない。
でも、言葉の手前で一度だけ止まった。
昔のことを言わせたくない。
言われたら、自分も何かを言わなければいけなくなる。
だから、何もなかったみたいに終わらせる。
「……元気でね」
上手くはなかった。
滑舌も完璧じゃない。
声も少し震えていた。
台詞としては、たぶん弱い。
でも。
その声には、言わなかった時間があった。
告白しなかったこと。
待たなかったこと。
会えなかったこと。
それでも、今さら何も言わないと決めたこと。
全部を説明するほど器用ではない。
だから、二文字ずつ置くように言った。
元気でね。
ただの別れの挨拶なのに、なぜか、もう会えない気がした。
スタジオが静かになった。
水野さんは、しばらく何も言わなかった。
澪は立ったまま、息を止めている。
たぶん、自分が今どうだったのか、わかっていない。
「もう一回」
水野さんが言った。
澪の肩が跳ねる。
「はい」
「今の最後だけ」
助監督が同じ箇所を読む。
「俺、あの時――」
澪は目を伏せた。
今度は、少し早かった。
早すぎた。
「元気でね」
軽い。
さっきより弱い。
水野さんが首を傾ける。
「違うな」
澪の顔がこわばる。
「すみません」
「謝らなくていい。もう一回」
助監督が読む。
「俺、あの時――」
「元気でね」
今度は感情を込めようとしすぎた。
声が揺れすぎる。
さっきの自然さが消える。
水野さんは何も言わない。
沈黙が落ちる。
澪の手が震え始めた。
まずい。
これは落ちる震えだ。
緊張ではない。
自分で自分を責め始めた震え。
俺は口を開きかけた。
けれど、水野さんの目がこちらに向いた。
勝手に言うな。
そういう目だった。
俺は黙った。
今ここで助けたら、彼女はまた俺を見る。
俺の答えを待つようになる。
それは違う。
水野さんが言った。
「朝比奈さん」
「はい」
「君は今、何を言おうとして失敗してる?」
澪は混乱した顔をした。
「何を……」
「元気でね、を上手く言おうとしてる?」
「……はい」
「じゃあ失敗する」
水野さんは台本を置いた。
「その台詞は、上手く言う台詞じゃない」
澪が黙る。
その沈黙を、水野さんはすぐには助けなかった。
むしろ、わざと少し長く置いた。
澪の逃げ場を、ひとつずつ塞ぐみたいに。
それから、水野さんは俺を見た。
「佐伯くん」
「はい」
「君が止めた子だ」
スタジオの空気が、また少し冷えた。
「客観的に見て、今の芝居は何がダメだ?」
意地の悪い振り方だった。
助け舟じゃない。
現場を止めた俺に、責任を取らせるための問い。
そして、澪に現実を聞かせるための問いでもあった。
下手だと言え。
足りないと認めろ。
そのうえで、それでも見る価値があるのか示せ。
水野さんの目は、そう言っていた。
俺は一度だけ息を吐いた。
許可は出た。
だから言える。
「上手く言おうとしているところです」
澪の目が、こちらを向いた。
「声を震わせようとして、感情を作ろうとして、優しい別れにしようとしている」
水野さんは黙っている。
「でも、あの役、相手に元気でいられたらムカつくんじゃないですか」
澪の指が、台本の端を握る。
「自分がいなくても平気だったみたいで、腹が立つ。でも、弱っていてほしいわけでもない。引き止めてほしいわけでもない」
スタジオが静かになる。
「だから、さっさと終わらせたい」
俺は続けた。
「元気でね、って優しい言葉に見えますけど」
少しだけ迷ってから言った。
「本当は、相手に何も言わせないための蓋だと思います」
澪は台本を見た。
元気でね。
たった五文字。
でも、その五文字の底に、言えないものがある。
水野さんはしばらく俺を見ていた。
それから、短く言った。
「もう一回」
澪が顔を上げる。
「……はい」
その返事は、さっきより少しだけ低かった。
助監督が読む。
「俺、あの時――」
澪は、すぐに遮らなかった。
相手の言葉を聞きたい顔をした。
聞きたい。
でも、聞いたらきっと、自分も何かを言わなければいけなくなる。
だから、澪は一度だけ笑おうとした。
失敗した。
笑顔になりきれなかった口元のまま、彼女は小さく言った。
「……元気でね」
それは、優しい別れではなかった。
祈りでもなかった。
相手のための言葉ですらなかった。
もう何も言わせないために置いた、薄い蓋だった。
なのに、その蓋の隙間から、言えなかったものが全部漏れていた。
スタジオが止まった。
助監督が次の台詞を読むのを忘れている。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬は確かにあった。
水野さんは、しばらく黙っていた。
それから、台本を見下ろして、低く笑った。
「……本当は、もっとカラッとしたシーンだったんだけどな」
助監督が顔を上げる。
「青春の一ページ、みたいなやつですか」
「そう。昔の同級生と偶然会って、少し懐かしんで、それで終わる」
水野さんは澪を見る。
「なのに、今のは違った」
澪の肩が小さく揺れる。
「君がやると、別れ損ねた人間のシーンになる」
褒めているのか、困っているのか、わからない言い方だった。
でも、水野さんの目はもう、書類を見ていなかった。
澪を見ていた。
「今の」
澪が固まる。
「覚えておける?」
澪はすぐに答えられなかった。
けれど、さっきとは違った。
怖がって黙ったのではない。
今、自分の中に起きたものを逃がさないように、必死に掴んでいる沈黙だった。
「……覚えたいです」
それは、たぶん答えになっていなかった。
でも、水野さんはそれ以上聞かなかった。
「四話の回想、朝比奈さんで仮押さえ」
スタジオの空気が揺れた。
澪は、意味がわかっていないような顔をした。
助監督が小さく言う。
「おめでとう。まだ正式決定じゃないけどね」
「……え」
澪は瞬きをした。
「私、ですか」
「仮押さえ」
水野さんが言った。
「正式決定じゃない。勘違いしないように」
「はい」
「台詞二つだ」
「はい」
「でも、その二つで落ちることもある」
「はい」
「次までに、上手くなろうとするな」
澪が顔を上げる。
水野さんは言った。
「その役が何を言いたくないのかを考えてこい」
澪は、台本を強く抱きしめた。
「はい」
その返事は、今日聞いた彼女の声の中で一番はっきりしていた。
オーディションが終わったあと、第三スタジオの廊下には、夜の匂いが入り込んでいた。
外はもう暗い。
地方制作会社の窓に映る街の明かりは、東京のそれほど派手ではない。
けれど、澪はその窓の前で立ち止まっていた。
手元の台本を、何度も見ている。
久しぶり。
元気でね。
たった二つの台詞。
それでも彼女にとっては、初めて自分で掴みかけた役だった。
「あの」
澪が振り返る。
「佐伯さん」
「はい」
「仮押さえって、喜んでいいんですか」
「少しだけなら」
「少しだけ」
「正式決定じゃないので」
「ですよね」
澪は小さくうなずいた。
それから、台本を胸の前で抱えた。
「でも、少しだけ嬉しいです」
「それはよかったです」
「……私、さっきの『元気でね』、またできると思いますか」
不安な声だった。
けれど、最初の時とは違う。
助けてほしい声ではなかった。
自分でやるために、足場を確かめている声だった。
「わかりません」
「そこは、できますって言ってくれないんですね」
「言ってできるなら言います」
「厳しいです」
「でも」
俺は窓の外を見た。
暗いガラスに、俺と澪が薄く映っている。
制作補助の男と、仮押さえの新人女優。
どちらも、まだ何者でもない。
「今日、あなたは一回できました」
澪が黙る。
「偶然かもしれない。でも、一回できたなら、次は偶然じゃなくせます」
「どうやって」
「考えるしかないです」
「何を」
「その役が、本当は何を言いたくなかったのか」
澪は台本に目を落とした。
「……言いたくないこと」
「はい」
「そればっかりですね」
「あなたは、言いたくないことの方が映るので」
澪はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ困った顔をした。
「それって、いいことなんでしょうか」
「まだ、わかりません」
「またそれですか」
「でも」
俺は言った。
「武器にはなります」
澪の目が、少しだけ開いた。
「武器」
「はい」
「私に、武器なんてあるんですか」
「あります」
即答した。
澪が息を止める。
その反応を見て、少しだけ言いすぎたかと思った。
でも、取り消すつもりはなかった。
「ただし、扱い方を間違えたら自分に刺さります」
「怖いこと言いますね」
「怖いものなので」
沈黙は、才能にもなる。
でも、逃げ道にもなる。
黙っていれば伝わると思い込めば、きっとすぐに終わる。
いつか彼女は、言わなければいけない。
言えないことを抱えたまま、言葉を選ばなければいけない日が来る。
その時、沈黙だけに逃げないために。
「朝比奈さん」
「はい」
「台詞は、下手なままでいいとは言ってません」
澪の顔が引き締まる。
「はい」
「発声も、滑舌も、間も、全部やった方がいいです」
「はい」
「たぶん、しんどいです」
「はい」
「何回も、下手だと言われると思います」
「……はい」
「それでもやりますか」
澪は少しだけ黙った。
窓の向こうの明かりが、彼女の目に映っていた。
弱い光だった。
でも、消えてはいなかった。
「やります」
小さな声だった。
けれど、逃げる声ではなかった。
「だって、私」
澪は台本を抱え直した。
「今日、初めて少しだけ、女優になれた気がしたんです」
その言葉を聞いて、俺は何も言えなくなった。
昔の俺なら、すぐに否定したかもしれない。
気がした、だけでは現場に立てない。
少しだけ、では仕事にならない。
女優という言葉は、そんなに簡単に使うものじゃない。
でも、今は言わなかった。
その小さな実感を、潰したくなかった。
「じゃあ」
俺は言った。
「次は、少しじゃなくしてください」
澪は俺を見た。
それから、今日初めて、ほんの少しだけ笑った。
きれいな笑顔ではなかった。
ぎこちなくて、控えめで、すぐ消えそうな笑顔。
でも、作り物ではなかった。
「はい」
その返事は、台詞ではなかった。
だから、ちゃんと届いた。
廊下の向こうで、水野さんがこちらを見ていた。
何も言わない。
ただ、顎だけでスタジオの奥を示す。
片付けろ。
書類を回収しろ。
仕事に戻れ。
そういう、いつもの無言の命令だった。
「……今行きます」
俺はそう答えた。
逃げない、と即答はできなかった。
その言葉を言うには、俺はまだ逃げすぎていた。
澪が小さく首を傾げる。
「佐伯さん、逃げてたんですか」
「いろいろと」
「……そうですか」
澪はそれ以上、聞かなかった。
聞かない優しさではない。
たぶん、自分にも聞かれたくないことがあるからだ。
少しの沈黙が落ちる。
窓の向こうは暗かった。
地方制作会社の廊下に映る俺たちは、制作補助の男と、仮押さえの新人女優でしかない。
どちらも、まだ何者でもない。
澪は台本に目を落とした。
「私も、逃げてたのかもしれません」
「何からですか」
澪はすぐには答えなかった。
台詞から。
下手だと言われることから。
自分の声から。
たぶん、答えはいくつもあった。
けれど彼女は、どれも選ばなかった。
「……まだ、わかりません」
その答えが、今の彼女には一番正しい気がした。
わからないまま、彼女は台本を抱えている。
わからないまま、俺もここに立っている。
似ている、とは思わなかった。
同じですね、なんて綺麗な言葉で括れるほど、俺たちはまだ何も知らない。
ただ、逃げてきた人間と、逃げそうな人間が、同じ廊下で少しだけ足を止めていた。
それだけだった。
そのはずだった。
なのに俺は、彼女の台本を見ていた。
久しぶり。
元気でね。
たった二つの台詞。
その二つを、朝比奈澪が次にどう壊すのかを、もう考えていた。
見たい。
もう一度、画面の中で見たい。
そう思った瞬間、腹の底が冷えた。
最悪だ。
俺はただの制作補助でいたかった。
書類を運んで、台本を回収して、誰かの感情に触れずに一日を終えるだけの人間でいたかった。
なのに、あの子の沈黙は、俺の中で腐ったまま眠っていた目を起こした。
もう一度、現場の泥を啜りたいと。
もう一度、誰かの感情を画面に残したいと。
そんな最低な欲を、俺に思い出させた。
俺は台本から目を離した。
離したつもりだった。
けれど、頭の中ではまだ、彼女の「元気でね」が消えていなかった。




