■ 第9話:文明の「自殺願望」と、繰り返される歴史
窓一つない地下の第4会議室は、深海から引き揚げられた姿なきオーパーツが、人間の「恐怖心」をエネルギー源にして起動する情報生命体であるという悍ましい仮説によって、濃密な狂気と絶望に満ちていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、世界中の人々の恐怖を吸い上げて膨張していく【見えない心臓】の鼓動のように、単調なリズムを刻み続けている。
「……考えるな、考えるな……! 怖いなんて思うな……俺は何も怖くない、形なんてどうでもいい……!」
七海悠太は、パイプ椅子の上で体を丸め、両手で自分の耳と目をきつく塞ぎながら、呪文のようにうわ言を繰り返していた。
自分が恐怖を感じれば感じるほど、世界の終わりのカウントダウンが早まる。そのプレッシャーが、彼の精神を内側から食い破ろうとしているのだ。
「……七海くん。いい加減にしてくれませんか。あなたが目を閉じて念仏を唱えたところで、物理学の法則は一ミリも揺らぎませんよ」
極限のパニックを切り裂くように、氷室司の氷のように冷徹な声が響いた。
氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜る。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。
「御子柴さんが言う『人間の恐怖心をエネルギーにするシステム』。……SF小説の設定としては及第点ですが、科学的には全くのナンセンスです。人間の脳波や思念といったものは、微弱な電気信号に過ぎない。それが海を越えて物理的な機械の動力源になるなど、熱力学の法則を完全に無視した【オカルト妄想】です」
氷室の細い指先がタブレットのキーボードを激しく叩き、巨大モニターに「SNSにおける終末論の拡散データ」と、「人間のストレスとドーパミン分泌」のグラフを青白く投射された。
「世界中の人間がこの噂に飛びつき、恐怖を拡散しているのは、彼らが『見えない兵器に操られているから』ではありません。単に、現代人が退屈な日常のスパイスとして、【世界の終わり(カタストロフィ)という強烈なエンターテインメント】を消費して喜んでいるだけです! 政府が恐れているのは、この無責任な大衆の熱狂が暴走し、現実の暴動や経済崩壊を引き起こすこと。……つまり、恐るべきはオーパーツではなく、人間の『愚かさ』そのものなんですよ」
データと社会心理学に基づく、氷室の強靭な論理の盾。
オカルト的な兵器など存在しない。すべては情報に踊らされた人間の集団ヒステリーに過ぎないという絶対的な反論。
しかし。
その言葉を聞いた轟大吾の顔つきは、岩のように険しく、強張ったままだった。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、地を這うような低い声で唸った。
「……氷室。お前は『エンタメとしての消費』しか見ていない。軍事兵器の歴史において、人間がなぜ『世界を滅ぼす力』を求め続けるのか……その根底にある【狂気の構造】を知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「狂気の構造……? 軍事力は国家を守るための抑止力でしょう」
氷室が不快そうに眉をひそめる。
「抑止力だと? 笑わせるな」
轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を激しく操作した。
モニターのSNSデータが消し飛び、代わりに、冷戦時代から現代に至るまでの「世界の核弾頭保有数の推移」と、「相互確証破壊(MAD)」の概念図が映し出された。
「考えてもみろ。人類はすでに、地球を何十回も丸ごと灰にできるだけの核兵器を溜め込んでいる。防衛のためなら、数発あれば十分なはずだ。……だが、大国は今もなお、より凶悪で、より広範囲を一度に焼き尽くすための兵器開発を止めようとしない」
轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。
「氷室! これはもう、国を守るための合理的な判断じゃない! 極限まで発達した文明は、必ず【自分たち自身を根絶やしにするための究極のスイッチ】を作らずにはいられなくなるんだ! 人間は心の底で、世界を完全に破壊し尽くす力を『美しい』とすら感じているんだよ!!」
「……っ!! 人類が自ら破滅を望んでいるとでも言うんですか……!」
氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。
「ええ、まさに死への欲動ね」
密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る核弾頭のグラフをうっとりと見つめた。
「氷室さん。心理学者のフロイトが提唱した【タナトス(死の欲動)】という概念を知っているかしら? ……すべての生命は、生きようとする本能と同時に、自分自身を無機物に還し、緊張のない『死』へと向かおうとする強烈な衝動を抱えているの」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、自分の柔らかな唇を撫でた。
「個人だけじゃないわ。社会も、文明も同じ。戦争をなくし、飢餓を克服し、インターネットであらゆる情報が瞬時に手に入る……そんな『極限まで完成された社会』に到達した時、文明は【生きる目的】を見失ってしまうのよ」
烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。
「アトランティス人が自ら海に沈んだのも、現代の人間が核兵器を作り続けるのも、理由は同じ。……成長の限界を迎え、閉塞感に窒息しそうになった文明は、必ず無意識のうちに【すべてを白紙に戻す(リセットする)】ための強烈な自殺願望を抱くのよ。オーパーツが生まれたのも、まさにそのタナトスの結晶だわ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。
「見事だぜ、轟! 烏丸! これで、なぜ広大な大西洋のど真ん中で、ピンポイントであの『オーパーツ』が引き揚げられたのか!! その【本当の理由】が完全に暴かれたぜ!!!」
「本当の理由だと……!?」
氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。
「そうだ!! 氷室、お前はさっき、単なる偶然の海難事故だと言ったな! 違う!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に『現代文明(人類)』と書き、そこから太い矢印を海底の『オーパーツ』に向けて引き下ろした。
そして、その矢印の上に赤のマーカーで『【自殺願望(リセットの祈り)】』と激しく書き殴った。
ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。
「考えてもみろ!! あんな途方もない深海の暗闇の中で、誰の目にも触れないように封印されていたバケモノを、なぜドンピシャの座標で見つけ出すことができた!? 単なる資源探査のまぐれ当たりか!? 違う!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「あのサルベージ船を現場に向かわせたのは! 海洋調査会社の命令じゃない! 経済格差、フェイクニュース、終わらない紛争……このクソみたいに煮詰まった現代社会を、もう終わりにしたいと願う【一億人の現代人の『集合的無意識』】が、船の舵を握らせたんだよ!!!」
「……っ!! 人類が無意識に、自爆スイッチを探し当てた……!!」
轟の巨体が、戦慄で大きく震えた。
「そうだ!!」
御子柴が、黒のマーカーの先でホワイトボードを強く叩きつける。
「ネットの連中がパニックになっているのは、正体が分からないから恐れているんじゃない!! 心の底では、世界を終わらせてくれる【救世主】の登場を、狂喜乱舞して待ち望んでいるんだよ!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「俺たちは『見つけてしまった』んじゃない!! 自分たちじゃ首を括る勇気もないから、一万二千年前に同じように絶望して死んだアトランティスの亡霊に、【俺たちの代わりに世界の電源を引っこ抜いてくれ】と祈りながら、わざわざ海の底まで迎えに行ったんだ!! ソレは兵器じゃねえ!! 人類の醜い【集団自殺の代行装置】なんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の顔を強く覆い隠し、冷たいコンクリートの床の上でのたうち回った。
「えっ、それってつまり……! 俺たちが怯えてるのは、殺されるのが怖いんじゃなくて……本当は【こんな面倒くさい世界、早く終わっちまえ】って思ってる自分のドス黒い本性に、気づいちゃったからなのかよ……!?」
七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。
SNSで呟かれる「隕石でも落ちてこないかな」「世界がリセットされればいいのに」という、日常に溢れる冗談めいた言葉の数々。
それは冗談ではなかった。現代人が抱え込んだ、逃げ場のない疲労とタナトス。
大西洋で起動したオーパーツは、人類のその『死への祈り』を忠実に受信し、願いを叶えるためにカウントダウンを進めているのだ。
「ふざけんな……! 誰も俺たちを攻撃なんかしてない!! 俺たち自身が、今の生活から逃げるために、わざわざ【世界を殺すバケモノ】を海から拾い上げてきたって言うのかよおおおっ!!」
文明の自殺願望。
超古代も現代も、行き着く先は同じ。自らの手で築き上げた世界を、自らの手で壊したくなるという、知的生命体に組み込まれた最も残酷なプログラム。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂く悲鳴が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。
無機質な空調のモーター音は、まるで「死」を待ち望む人類の祈りを吸い込みながら、優しく、そして絶対的な破滅に向けて静かに回転し続ける【巨大な死刑執行装置】の駆動音のように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。




