■ 第8話:見えない形の恐怖と、無限の疑心暗鬼
窓一つない地下の第4会議室は、人類のすべての科学力をもってしても「世界滅亡のカウントダウン」を止めることができないという、果てしない絶望と無力感によって、まるで真空地帯のような息苦しさに沈んでいた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、人類に突きつけられた死刑宣告の秒針のように、冷酷なリズムを刻み続けている。
七海悠太は、床に放り出されたまま真っ暗になったスマートフォンの画面を、まるで親の仇のように血走った目で見つめ、自身の髪を力任せに掻きむしっていた。
「……おかしいだろ。何でおかしいって誰も言わないんだよ! 世界が滅ぶかもしれないタイマーが動いてるのに……! 俺たち、まだ【ソレがどんな形をしてるか】すら、誰も知らないんだぞ!!」
七海の悲痛な叫びが、コンクリートの壁に虚しく反響する。
「デカい石板なのか!? ドクロの形をした壺なのか!? それとも、透明なゼリーみたいな気味の悪いスライムなのか!? 形が分からねえから……ネットの奴らも勝手な妄想ばっかり膨らませて、どんどん話がデカくなって、頭がおかしくなりそうなんだよ!!」
見えないからこそ、恐怖は無限に増殖する。
七海の精神は、形の定まらない「未知のバケモノ」に対する疑心暗鬼によって、限界を迎えようとしていた。
「……七海くん。未知の事象に対して、脳が勝手に最悪のイメージを補完してしまうのは、人間の『認知バイアス』における典型的なバグです。少し深呼吸をして、論理的に思考しなさい」
極限のパニックを切り裂くように、氷室司の氷のように冷徹な声が響いた。
氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜る。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。
「あなたが怯えているのは、『形がないこと』ではありません。『情報が与えられていない状態』そのものに怯えているだけです」
氷室の細い指先がタブレットのキーボードを激しく叩き、巨大モニターに「人間の心理学的な恐怖のメカニズム」を示す脳の活動データと、暗闇を恐れる人間の防衛本能のグラフを青白く投射された。
「人間は、カテゴリーに分類できないものを本能的に恐れる。……ですが、冷静に物理学の基本に立ち返ってください。大西洋の海底からクレーンとワイヤーを使って引き揚げられた以上、ソレは間違いなく【一定の質量と体積を持った固形物】です」
氷室は、勝ち誇ったようにレーザーポインターで脳のグラフを指し示した。
「未知の合金でできた幾何学的なブロックか、あるいは古代の巨大なモニュメントか。……形が公表されないのは、単に軍事機密として秘匿されているからに過ぎません。オカルトめいた『不定形の怪物』など、現実の物理空間には絶対に存在し得ないんですよ!」
データと物理法則に基づく、氷室の強靭な論理の盾。
引き揚げられた以上、必ず物理的な形がある。幽霊やバケモノではないという絶対的な反論。
しかし。
その言葉を聞いた轟大吾の顔つきは、岩のように険しく、強張ったままだった。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、地を這うような低い声で唸った。
「……氷室。お前は『人間の目に見えるもの』しか信じない。現代の兵器開発において、もっとも恐るべき【不可視のテクノロジー】を知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「不可視のテクノロジー……? ステルス塗料のことですか」
氷室が不快そうに眉をひそめる。
「ステルスなんていうチャチなもんじゃない!!」
轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を激しく操作した。
モニターの心理学データが消し飛び、代わりに、現代の軍隊が研究を進めている「ナノマシン群」や、「特定の周波数を持った電磁波兵器」の概念図が映し出された。
「氷室! 軍事において最も厄介なのは、ミサイルや戦車のように『明確なシルエットを持った標的』じゃない! レーダーにも映らず、肉眼でも確認できない【形を持たない兵器】だ!」
轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。
「考えてもみろ! 一万二千年前の超古代文明が、わざわざ俺たちが目で見て理解できるような『彫刻』や『機械』の形をしている保証がどこにある!? もしソレが、海水を媒介にして増殖する【目に見えないナノレベルの鉱物粒子】だったらどうする!? あるいは、引き揚げられた箱の中身は空っぽで、開けた瞬間に放たれた【不可視の致死性ガス】や【特定の音波そのもの】が、兵器の正体だったらどうするんだ!!」
「……っ!! 物理的なシルエットを持たない、環境融和型の兵器……!」
氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。
「ええ、まさに冒涜的な真理ね」
密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る不可視の兵器の概念図をうっとりと見つめた。
「氷室さん。クトゥルフ神話などの宇宙的恐怖を描いた文学において、人間を狂気に追いやる怪物は、決まってこう形容されるわ。『名状しがたい』『冒涜的な』『人間の言語では表現できない』って」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、モニターの暗闇の部分を撫でた。
「なぜ形が分からないのか? それは政府が隠しているからじゃないわ。……現場でソレを見た軍人や科学者たち自身が、【自分たちが何を見ているのか、脳で処理できていない】からよ」
烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。
「三次元の空間に生きる人間の眼球では、四次元や五次元の高次空間から干渉してくる物体の『本当の姿』を捉えることはできない。……ソレは、見る者によって巨大な炎に見えたり、死んだ家族の顔に見えたり、あるいはただの暗黒に見えたりする。固定された形が存在しないからこそ、写真に撮ることも、言葉で説明することもできないのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。
「見事だぜ、轟! 烏丸! これで超大国の連中が、なぜこれほどまでに為す術もなくパニックに陥り、液体窒素なんていう無駄な抵抗を続けているのか!! その【最大の絶望の正体】が完全に暴かれたぜ!!!」
「最大の絶望だと……!?」
氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。
「そうだ!! 氷室、お前はさっき、情報を隠しているからネットが騒いでいると言ったな! 違う!! 奴らは【意図的にネットを騒がせている】んだよ!!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に『オーパーツ(形不明)』と書き、その周囲に『ネットの噂』『陰謀論』『恐怖心』と書き殴った。
そして、それらの言葉から、オーパーツに向かって真っ赤な矢印を何十本も集中させた。
ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。
「考えてもみろ!! 液体窒素で冷やしても止まらない! 物理的な破壊もできない! なぜならソレは、熱や電気で動いている兵器じゃねえからだ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「アトランティス人が造り上げた究極の環境操作兵器……ソレの真のエネルギー源は何だ!? ガソリンか? プルトニウムか? 違う!! ソレは人間の脳から発せられる【恐怖と疑心暗鬼の『集合的無意識』を食って起動する、情報生命体】なんだよ!!!」
「……っ!! 人間の恐怖心そのものを、カウントダウンの動力源にしている……!!」
轟の巨体が、戦慄で大きく震えた。
「そうだ!! だからこそ、形が決まっていないんだ!!」
御子柴が、黒のマーカーの先でホワイトボードを強く叩きつける。
「『世界が滅ぶかもしれない』『ヤバいものが引き揚げられた』……ネット上で姿なき怪物に対する噂が広まれば広まるほど、世界中の何十億という人間が、ソレに対して恐怖の念を無意識に送っちまう!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「超大国の軍隊がいくら物理的に冷やそうとしたところで、無駄なわけだ!! 世界中の人間がスマホの画面を見つめながら、『一体どんな形をしてるんだ』『怖い、死にたくない』と想像力を膨らませている限り!! 俺たち自身の【疑心暗鬼】が、地球をぶっ壊すタイマーのゼンマイを、猛烈なスピードで巻き上げ続けているんだからな!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の目を激しく覆い隠し、冷たいコンクリートの床の上で絶叫した。
「えっ、じゃあ……俺が! 俺が昨日の夜からずっとスマホ見て、『どんなヤバい形してんだろ』ってガクガク震えてたその時間が……!! そのバケモノに【爆発するためのガソリン】を注ぎ込んでたって言うのかよ……!?」
七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。
姿も形も分からない超古代の遺物。それは、物理的な兵器ではなく、人間の恐怖という「概念」を喰らって巨大化する、悪意の受信機。
世界中の人間が情報を求めてパニックになればなるほど、兵器のチャージは完了へと近づいていく。
「ふざけんな……! 怖がるなって言われたって、正体が分からねえんだから怖いに決まってんだろ!! 俺たちは……! 何も見えない真っ暗闇の中で、自分自身の【恐怖】で自分の首を絞めながら、世界の終わりを加速させられてるって言うのかよおおおっ!!」
形がないからこそ、人間の想像力が最強の武器へと変換される。
人類の「知りたい、怖い」という本能そのものを利用した、完璧すぎる超古代のトラップ。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。
床に転がる、真っ暗なスマートフォンの画面。
無機質な空調のモーター音は、まるで世界中の人々の恐怖を吸い込み、限界点に向けて不気味に膨張し続ける【見えない心臓】の鼓動のように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。




