■ 第2話:狂気のサルベージと、情報統制の壁
窓一つない地下の第4会議室は、姿も形も分からない超古代のオーパーツが大西洋で起動し、超大国が血眼になって情報を隠蔽しているという絶望的な仮説によって、まるで深海の底に沈められたような極限の水圧に支配されていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、見えない時限爆弾のタイマーのように、単調なリズムを刻み続けている。
七海悠太は、自分のスマートフォンを両手で固く握りしめたまま、パイプ椅子の上でガタガタと小刻みに震えていた。
画面には、形のない「何か」への恐怖を煽るネットの書き込みが、今この瞬間も滝のように流れ続けている。
「……落ち着きなさい、七海くん。情報の空白に『恐怖』という名の絵の具を塗りたくるのは、人間の愚かな防衛本能に過ぎません」
極限の静寂を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。
氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜る。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。
「あなたが怯えているのは、ダークウェブから漏れ出したという、この書き込みですね?」
氷室の細い指先がタブレットを弾き、巨大モニターに、黒い背景に毒々しい緑色で書かれた匿名のテキストが投射された。
『引き揚げに関わったサルベージ船の作業員たちが、次々と意味不明な言葉を叫んで発狂した。彼らは自らの眼球を掻きむしり、海へ飛び込もうとした』
「……典型的で、陳腐な怪談です」
氷室は、勝ち誇ったような冷笑を浮かべ、レーザーポインターでそのテキストを指し示した。
「未知の呪い。祟り。……オカルトマニアが飛びつきそうな筋書きですが、医学的・物理的な観点から見れば、深海作業における極めて現実的な【産業事故】に過ぎません」
氷室はタブレットを操作し、人体の血流と気圧の変化を示すグラフをモニターに割り込ませた。
「深海数千メートルという極限の環境下での作業。そこから急速に浮上したことによる【重度の減圧症】。あるいは、特殊な混合ガスを用いた潜水による【窒素酔い】。さらに言えば、密閉された船内での硫化水素や一酸化炭素の漏出。……脳に深刻なダメージを負えば、人間は幻覚を見て錯乱し、自傷行為に走る。彼らは未知のオーパーツの呪いで発狂したのではなく、単なる『劣悪な安全管理』の犠牲になっただけですよ」
データと医学的根拠に基づく、氷室の強靭な論理の盾。
オカルト的な狂気など存在しない。すべては物理的な脳の酸欠と気圧の変化で説明がつくという絶対的な反論。
しかし。
その言葉を聞いた轟大吾の顔つきは、岩のように険しく、強張ったままだった。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、地を這うような低い声で唸った。
「……氷室。お前は『平和な病院のカルテ』しか見ていない。軍事や諜報の世界における【証拠隠滅のプロトコル】を知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「証拠隠滅……? ただの海難事故ですよ」
氷室が不快そうに眉をひそめる。
「ただの事故なら、なぜ警察や海難審判庁が動かない? なぜニュースで報道されない?」
轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を激しく操作した。
モニターの医学データが消し飛び、代わりに、ある企業の法人登記データと、ストリートビューの画像が映し出された。
「このサルベージ船を手配したのは、ヨーロッパに拠点を置く『オーシャン・ディープ・リサーチ社』という中堅の海洋調査会社だ。……だが、氷室。俺が軍のバックドアを使って、この会社の現在の【ステータス】を検索した結果がこれだ」
轟が指差したモニターには、赤い文字で『該当データなし(NOT FOUND)』と大写しになっていた。
「倒産じゃない。登記抹消でもない。法人データそのものが、世界中のデータベースから【最初から存在しなかったこと】にされているんだ!!」
「……っ!! 法人データが、完全に消去されている……!?」
氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。
「ああ!! それだけじゃない!!」
轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。
「ストリートビューの画像を見てみろ! 昨日の夜まで彼らのオフィスがあったビルから、たった一晩でデスクも機材もすべて消え去り、もぬけの殻になっている! 所属していた数十人の社員の戸籍データ、SNSのアカウント、銀行口座に至るまで、すべてのデジタルタトゥーが綺麗サッパリ消し飛ばされているんだ!!」
轟の鋭い眼光が、氷室を射抜く。
「氷室! お前が言うような『単なるガス中毒の事故』で、超大国の諜報機関がここまで徹底した【物理的な消去】を行うか!? 奴らは、オーパーツを引き揚げた会社の存在そのものを、歴史から完全に抹消したんだぞ!!」
「……っ!! 一夜にして、会社ごと人間を蒸発させた……!」
七海が、自分の口を両手で強く覆い、悲鳴を押し殺した。
「ええ、まさに神の怒りに触れた者の末路ね」
密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る『NOT FOUND』の文字をうっとりと見つめた。
「氷室さん。古代の神話において、神々の本当の姿、あるいは世界の真理を『直接見てしまった人間』がどうなるか知っているかしら? ……彼らは一様に目を潰されるか、狂い死にするわ」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、自分の柔らかな唇を撫でた。
「人間の脳というものは、日常の常識や物理法則という『小さな箱』の中でしか正常に機能しないようにできているのよ。……そこに、一万二千年の時を超えて引き揚げられた【絶対的な異物】が姿を現した」
烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。
「作業員たちは、減圧症で倒れたんじゃないわ。現代の人類の脳髄では決して処理しきれない、巨大で、悍ましく、圧倒的な【概念のバグ】を直視してしまったのよ。……理解を拒絶する形、あるいは形を持たない『何か』に触れた瞬間、彼らの脆弱な精神は、風船のようにパンッ、と弾け飛んでしまったのね」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。
「繋がったぜ!! 氷室、轟、烏丸! 奴らがなぜ、写真一枚すら表に出さず、関わった人間を会社ごと歴史からデリートしなければならなかったのか! その【本当の恐怖】が完全に暴かれたぜ!!」
「御子柴さん、また飛躍ですか! 精神が弾け飛ぶなどというオカルト論法は……!」
氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。
「オカルトじゃねえ!! これは極めて現実的な【情報工学上の危機】だ!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に『オーパーツ』と書き、そこから矢印を引いて『作業員の発狂』と書いた。
そして、その周りを赤いマーカーで激しく囲み、『【認識災害(ミーム汚染)】』と殴り書きをした。
ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。
「氷室! お前はさっき、写真が一枚もないと言ったな! 違う!! 奴らは証拠を隠しているんじゃない!! 写真を一枚でもネット上に流出させたら、【世界が本気で終わっちまう】から必死に防いでいるんだよ!!!」
「写真を流出させたら、世界が終わる……!?」
轟の巨体が、戦慄で大きく震えた。
「そうだ!!」
御子柴が、黒のマーカーの先でホワイトボードを強く叩きつける。
「烏丸の言う通りだ! 脳の処理能力を超える【概念のバグ】……もしそのオーパーツが、放つ波長、あるいはその『形そのもの』を見ただけで人間の精神を破壊する構造を持っていたらどうなる!?」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「もし作業員の誰かが、ソレの写真をSNSにアップロードしてみろ!! タイムラインに流れてきたその画像を、一瞬でも目にした世界中の何億人という人間が、モニター越しに脳を破壊され、一斉に発狂して暴動を起こす!!」
「……っ!! 見ただけで感染する、狂気のウイルス……!!」
氷室の顔面から、完全に血の気が引いていく。
「そうだ!! だから超大国は、海域を物理的に封鎖し、ソレを直接見てしまった作業員たちを会社ごと【焼却処分】するしかなかったんだよ!!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「ソレはミサイルでも核兵器でもねえ!! 情報のネットワークに乗って、人間の脳から脳へと連鎖的に感染していく【究極の概念兵器】だ!! 超大国が震え上がっているのは、ソレのスイッチが押されることじゃない!! すでに漏れ出している『狂気』が、ネットを通じてパンデミックを起こすことなんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分のスマートフォンを床に叩きつけ、パイプ椅子の上でのたうち回った。
「えっ、じゃあ……俺がさっきまで見てた掲示板の噂書き込みも……! もし誰かが、その『ヤバい画像』をポンって貼り付けたら……俺の脳みそも、その瞬間にプチッて弾け飛んで発狂しちまうってことかよ……!?」
七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。
部屋で一人、何気なくSNSのタイムラインをスクロールしていると、突然表示される「正体不明の幾何学模様」。
それを見た瞬間、理解を超えた恐怖が脳髄を犯し、自らの眼球を掻きむしりながら絶叫する自分の姿。
「ふざけんな……! 逃げ場なんてどこにもないじゃねえか!! ネットを繋いでる限り、いつ俺たちのスマホの画面から【世界を終わらせる狂気】が飛び出してくるか分からないって言うのかよおおおっ!!」
形がないからこそ恐ろしい。
認識した瞬間に精神を破壊する、未知のオーパーツ。
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。
床に転がり、黒く沈黙したスマートフォンの画面。
無機質な空調のモーター音は、まるでネットの深層から、音もなく這い寄ってくる「不可視の狂気」の足音のように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。




