■ 第1話:姿なき遺物と、ネットを覆う「集団幻覚」
窓一つない地下の第4会議室。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、閉ざされた空間の重苦しい空気をかき回し続けている。
壁に掛けられたデジタル時計が示す年は、2029年。
ここは、日常の裏側に潜む巨大な欺瞞や、世界を揺るがす真実を暴き出してきた特務考察機関『サイファー』の密室である。
氷室司は、長机の上に置かれたマイボトルから、冷え切ったブラックコーヒーを紙コップに注ぎ、無駄のない動作で一口啜った。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズについた微小な埃を執拗なまでに拭き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。
「……本日の議題は、現在ダークウェブや一部のSNSを中心に、爆発的な勢いで拡散されている【ある噂】についてです」
氷室の細い指先の動きに連動して、壁面の巨大モニターに、無数のテキストデータと、匿名掲示板のスクリーンショットが青白く投射された。
「噂の内容は極めてシンプルです。数日前、大西洋の深海から【超古代文明が造ったとされるオーパーツ(場違いな工芸品)が引き揚げられた】。そして、その遺物は【世界を滅ぼす恐るべき兵器である】というもの。……ネット上では、この遺物こそが、伝説の『アトランティス大陸』のものではないかと騒がれています」
氷室は紙コップを机に置き、レーザーポインターでモニターのテキスト群を次々と指し示した。
「現在、この話題に関するハッシュタグは世界中でトレンド入りし、関連する書き込みは数千万件を超えています。しかし……」
氷室は、呆れたような、あるいは勝ち誇ったような冷笑を浮かべ、レーザーポインターのスイッチを切った。
「結論から言いましょう。これは完全な【デマ】であり、大規模な【集団幻覚】に過ぎません。議論する価値すら怪しい代物です」
「デ、デマなんですか!? でも、俺のスマホのタイムライン、これの話題で持ちきりですよ!」
パーカー姿の七海悠太が、弾かれたように声を上げ、自分のスマートフォンを氷室の方へ突き出した。
「ほら! どこのまとめサイト見ても、『深海からヤバいもんが出た』『世界が終わる』って大騒ぎになってます! 俺、もし本当に世界を滅ぼす兵器ならどうしようって、昨日の夜から怖くて全然眠れなかったんですけど……!」
七海は分かりやすく怯えた表情を浮かべ、パイプ椅子の上で身を縮こまらせた。
「七海くん。あなたのその『情報リテラシーの低さ』が、この種のデマを無駄に太らせる栄養源なんですよ」
氷室は冷酷に言い放ち、再びタブレットを操作した。
「よく見てください。数千万件もの書き込みがありながら、この騒動には【決定的な情報】が一つ欠けています。……誰一人として、その引き揚げられたというオーパーツの【写真や映像】をアップロードしていないんです」
モニターに映し出されたテキストの群れが、パラパラと切り替わる。しかし、そこには文字の羅列があるだけで、具体的な画像データは一切存在しなかった。
「現代は、誰もがポケットに高性能なカメラを持ち歩く『承認欲求』の時代です。もし本当に深海から未知の遺物が引き揚げられたのなら、作業員の誰かが必ずスマホで撮影し、SNSで自慢気に拡散するはずだ。最悪、AIを使ったディープフェイクの偽画像の一つや二つ、出回ってもおかしくない」
氷室は銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、断言した。
「しかし、それすら存在しない。形も、大きさも、材質も、何一つ具体的な情報がないまま、『世界が滅ぶ』という【恐怖の概念】だけが独り歩きしている。……これは典型的な都市伝説の伝播プロセスです。実体など最初から存在しない。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ですよ」
データと証拠の不在。
それが、氷室がこの事件を「幻覚」と斬り捨てる強靭な論理の盾だった。画像が一枚も存在しない以上、物理的な脅威などあり得ない。
しかし。
その氷室の冷徹な断言を聞いた轟大吾の顔つきは、岩のように険しく、強張ったままだった。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、長机の上のタブレットを鋭く睨みつけた。
「……氷室。お前は『ネットの表面に浮かんだ文字』しか見ていない。軍事や諜報の世界で、情報が完全に遮断されている状態が、何を意味するかを知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「情報が遮断されている……? そもそも実体がないから、情報が出ないだけでしょう」
氷室が不快そうに眉をひそめる。
「違う。実体がないんじゃない。【絶対に外に出せない状態】に置かれているんだよ」
轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を操作し、別の極秘通信ログを巨大モニターに割り込ませた。
青白いネットの書き込みが消え、代わりに、大西洋のある海域を中心とした「衛星からの船舶航行データ(AIS)」のマップが赤々と点滅し始めた。
「これを見てみろ。大西洋の中央、アゾレス諸島近海。ここは欧州と北米を結ぶ、世界で最も交通量の多い海運の要衝の一つだ。だが、三日前の深夜から、この海域を中心とした【半径五百キロメートル圏内】のAISデータが、完全に消失している」
「データが、消失……? 気象条件の悪化か、衛星の通信障害では?」
氷室がタブレットのキーボードを叩きながら反論を試みる。
「通信障害だと? 笑わせるな」
轟が地を這うような低い声で唸った。
「民間の商船だけじゃない。周辺を航行していたはずの、NATO軍の原子力潜水艦のソナー探知記録、さらには気象観測用の海洋ブイのデータに至るまで、すべてのデジタル信号が【意図的にシャットダウン】されているんだ!!」
轟が、分厚い両手で長机をドンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。
「氷室! これほどの規模の海域を完全に封鎖し、すべての情報を遮断するには、超大国の海軍が総力を挙げてジャミング(電子妨害)を展開するしかない! 経済的な大損失を出してまで、軍が血眼になって『情報のブラックアウト』を強行しているんだぞ!!」
轟の鋭い眼光が、氷室を射抜く。
「写真が一枚も出回らない? 当たり前だ!! 現場海域の通信網そのものが、軍のジャミングによって完全に【外界から隔離】されているんだからな! 承認欲求を満たすために写真をアップロードしようとした作業員は、今頃、スマホごと暗い海の底に沈められているはずだ!!」
「……っ!! 軍による、完全な情報封鎖……!」
七海が、自分のスマートフォンを両手で強く握りしめ、パイプ椅子から転げ落ちそうになった。
「えっ、じゃあ……噂はデマなんかじゃなくて……本当に【軍隊が全力で隠さなきゃいけないようなヤバいもの】が、引き揚げられちゃったってことですか……!?」
「ええ、その通りよ」
密室の淀んだ空気を切り裂くように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る真っ赤な海域マップをうっとりと見つめた。
「氷室さん。データがないことを『存在しない証拠』だと思い込むのは、唯物論者の悪い癖ね。……この世界には、人間の持つちっぽけなレンズや、デジタルデータでは決して捉えきれない、巨大な【概念の質量】を持ったものが存在するわ」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、モニターの大西洋の地図を撫でた。
「轟さんが示したその海域……アゾレス諸島近海はね、古代ギリシャの哲学者プラトンが『ティマイオス』と『クリティアス』の中で記述した、伝説の【アトランティス大陸】が沈んだとされる場所と、ピタリと一致しているのよ」
「アトランティス……! ただの神話上の作り話でしょう!」
氷室が、信じられないものを見るように声を荒げる。
「作り話だと、誰が証明したのかしら?」
烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、グラスに注いだ水を一口含んだ。
「一万二千年前、高度な文明と強大な軍事力を誇った巨大な島が、神の怒りに触れ、わずか一昼夜にして海中へ没した。……もし、その神話がただの教訓ではなく、実際に彼らが持っていた【絶対的な力】の暴走によるものだとしたら?」
烏丸は、透き通るような白い指先を天に向け、冷たい声で宣告した。
「超大国が軍隊を派遣し、すべての情報を遮断してまで隠そうとしている『何か』。それは、かつて自らの大陸をも海の底へと引きずり込んだ、アトランティス人の【怨念の結晶】……いえ、この地球の理そのものを歪めるような、恐ろしい遺物であることは間違いないわ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。
「見事だぜ、轟! 烏丸! これで、なぜネット上に写真が一枚も出回らないのか、その【本当の理由】が完全に暴かれた!!」
「御子柴さん、またあなたの悪い癖だ。証拠もないのに、アトランティスの遺物などという非科学的なものに飛躍させないでください!」
氷室が立ち上がり、タブレットの画面を突きつける。
「飛躍だと!? 違う、これは完璧な【最適解(答え)】だ!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に『大西洋』と大きく書き殴り、そこから矢印を引いて『絶対的な情報封鎖』と叩きつけた。
ダンッ!!という激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。
「氷室! お前はさっき、形も大きさも分からないと言ったな! 違う!! ネットの連中も、軍の上層部も、誰も【形なんて気にしていない】んだよ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「いいか!! 引き揚げられたソレが、巨大な石板だろうが、青銅の壺だろうが、そんなことはどうでもいい!! 重要なのは、人類が絶対に触れてはならない、深海に封印されていた【地球の自爆スイッチ】を、不用意に海の上へ引き揚げちまったという事実なんだよ!!!」
「地球の……自爆スイッチ……!?」
轟の巨体が、戦慄で大きく震えた。
「そうだ!!」
御子柴が、黒のマーカーの先でホワイトボードを強く叩きつける。
「超大国どもがパニックになって軍隊を派遣したのは、ソレを『兵器として使うため』じゃねえ!! ソレが海の上に引き揚げられたことで、すでに【世界を滅ぼすための何らかのカウントダウン】が始まっちまってるからだ!!」
御子柴は悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「画像がないのは隠しているからじゃない!! ソレの形を認識することすら恐ろしいほどの、人類の理解を超えた【絶望の概念】が、今まさに大西洋の中心で起動しちまってるんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、パイプ椅子の上でガタガタと震え出した。
「俺たちが……呑気にスマホで『ヤバいヤバい』って呟いてるこの瞬間にも……! 海の向こうで、姿も形も分からない超古代のバケモノみたいな兵器が、世界を吹き飛ばす準備を進めてるって言うのかよ……!!」
誰も見たことがない。誰も形を知らない。
だからこそ、情報の空白には無限の恐怖が注ぎ込まれる。
「俺たちは……! 正体も分からない何かに怯えながら、いつ爆発するかも分からない【見えない時限爆弾】のタイマー音を、ずっと聞かされ続けるって言うのかよおおおっ!!」
姿なき遺物が放つ、絶対的なパニック。
写真が一枚も存在しないという事実こそが、それが人類の手に負えない破滅の引き金であることを証明していた。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない第4会議室の壁に叩きつけられた。
巨大モニターに映る、血のように赤い大西洋の封鎖海域。
無機質な空調のモーター音が、まるで深海の底から響いてくる得体の知れないオーパーツの駆動音のように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。




