第9話:月明かりの調合
その日の夜、セレスティア領には薄い雲がかかっていた。
月は見えている。けれど、光はどこか弱い。空の高いところから届くはずの月明かりが、途中で柔らかい布に吸い込まれてしまったようだった。
僕は屋敷の庭に停めたこもれび号の中で、調合台を整えていた。
エリスは夕方、少量ではあるけれどスープと焼き菓子を食べることができた。その後、少し横になったが、深く眠れたわけではない。体は休もうとしているのに、魔力が細かく震えて眠りの底へ沈めない。
今夜は、眠りを助けるハーブティーと、魔力の緊張をゆるめる香油を作る。
ただし、強すぎてはいけない。
眠らせるのではなく、眠れる状態へ近づける。
父さんなら、そう言うと思う。
「ずいぶん慎重だね」
カウンターの上で、ミルが丸くなりながら言った。
「エリス様は香りにも魔力にも敏感そうだから」
「悪くない判断だ」
「ミルに褒められると、少し不安になるね」
「失礼な。私はいつでも正しく評価している」
ノルは自分の敷物の上で伏せていた。けれど眠ってはいない。耳を立て、外の気配を気にしている。
この土地に入ってから、ノルはいつもより静かだ。
静かすぎる。
「ノルも気になる?」
ノルは僕を見ると、小さく鼻を鳴らした。
こもれび号の天井近くにある丸い小窓を開ける。
月明かりが細く差し込んだ。
その光は、ミストレアで見る月より少し薄い。それでも、調合台の上に置いた透明な器を照らすと、淡く銀色に揺れた。
月明かりの調合は、普通の調合とは少し違う。
薬草の効能だけでなく、光、香り、温度、相手の状態を合わせていく。力を込めるというより、素材の声を聞いて、乱れているところへ細い糸を通すような感覚だ。
僕は白花草を器に入れた。
心を落ち着けるための草。
次に、眠り草をほんの少し。
入れすぎると眠気だけが強くなり、かえって体が重くなる。
そこへ、乾燥させた林檎の皮を少量。甘い香りは、エリスが食事を怖がらずに受け取れた記憶とつながるはずだ。
最後に、月白草の代わりとして、父さんが持たせてくれた銀葉草を一枚。
月白草ほど繊細ではないが、魔力の震えを穏やかにする助けになる。
「月白草が使えれば、もう少し合うかもしれないけど」
僕がつぶやくと、ミルが片目を開けた。
「窓辺の鉢は使えないよ。あれは今、使われる側ではなく、癒やされる側だ」
「やっぱり、あの花も弱っているんだね」
「花だけではない」
ミルの声が少し低くなった。
「この土地の月の巡りが、弱くなっている」
「月の巡り?」
「月の神様の光は、ただ空から降るだけではない。祠、土地、精霊、人の暮らし。その間を巡るんだ。巡りが弱れば、魔力の繊細な土地ほど影響を受ける」
「それが、エリス様に出ている?」
「一部はね」
ミルはしっぽを揺らした。
「もちろん、彼女自身の体質もある。魔力が細く敏感で、周りの揺らぎを受けやすい。けれど、それだけならここまで重くはならない」
「原因を知ってるの?」
ミルは答えなかった。
その沈黙だけで、何かを知っているのだと分かった。
「全部教えてくれないんだね」
「全部聞けば、君は全部背負おうとする」
「……そんなことは」
「ある」
ミルは即答した。
ノルまで、ふす、と鼻を鳴らす。
「ノルも同意しないで」
ノルは目をそらした。
僕は小さく息を吐いた。
確かに、胸のどこかで思っていた。
エリスを楽にしたい。屋敷の空気も整えたい。月白草も元気にしたい。土地の魔力の乱れも、原因があるなら何とかしたい。
全部、できるならやりたい。
でも、それは前世の僕がしていたことと、どこが違うのだろう。
頼まれたら抱える。気づいたら背負う。自分の疲れに気づかないふりをする。
「癒やしは、無理に変える力ではないよ」
ミルが静かに言った。
僕は手を止めた。
「乱れを見つけたからといって、力ずくで正しい形に戻すものではない。相手が戻れるところまで、そばに灯りを置く。それが月の祝福だ」
「灯りを置く……」
「そう。君は灯りを置きに来た。太陽のように全部を照らしに来たわけじゃない」
ミルの言葉は、皮肉ではなかった。
だからこそ、胸に深く残った。
僕はうなずき、もう一度調合台に向き直った。
器に月明かりを受けた湯を注ぐ。薬草がゆっくり開き、淡い香りが立ち上った。白花草の静けさ、林檎の甘さ、銀葉草の冷たい光。
次に香油を作る。
基礎の油に、白花草の抽出液を一滴。眠り草は使わない。香りで眠らせようとすると、エリスには強すぎる気がした。代わりに、乾燥させた月露葉を少しだけ温め、香りだけを移す。
それから、月明かりに器を置いた。
光が油の表面に細く揺れる。
僕は目を閉じた。
エリスの呼吸。浅い眠り。冷えた指先。食事を怖がる心。ノルの毛に触れた時の、ほんの少し緩んだ表情。
よく眠れますように。
元気になれ、ではなく。
今日だけでも、少し安心して眠れますように。
そう願った瞬間、胸の奥から静かな魔力が流れた。
強くはない。けれど、月明かりと混ざると、香油の表面に淡い銀の輪が広がった。
ミルが小さくうなずく。
「それでいい」
調合を終えたころ、僕は少しだけ体が重くなっていることに気づいた。
無理をしたつもりはない。でも、月の祝福を使うと、心の奥に残っていた前世の疲れが、遠くから戻ってくるような感覚がある。
肩が重い。まぶたが少し熱い。
ノルが立ち上がり、僕の膝に鼻先を押し当てた。
「大丈夫。少しだけ」
ミルがじっと僕を見る。
「少しだけ、が危ないんだよ」
「……分かってる。これを届けたら休む」
「約束だね」
「うん」
僕はお茶と香油を持って、エリスの部屋へ向かった。
部屋の灯りは落とされていた。エリスは寝台の上で体を起こしている。眠りたいのに眠れない人の顔だった。
「ノエル様」
「お待たせしました。今夜は、眠るための薬ではなく、眠りやすくするためのお茶です」
僕は小さなカップにお茶を注いだ。
香りは淡い。エリスが近づいても、眉をひそめることはなかった。
「いい香りです」
「強くないですか?」
「はい。少し、懐かしいような……」
エリスは両手でカップを持ち、ゆっくり飲んだ。
一口。二口。
そのたびに、肩の力が少しずつ抜けていく。
香油は、枕元の小皿に一滴だけ落とした。部屋全体を満たすほどではない。寝台の周りに、細く静かな香りが漂う程度。
ノルは部屋の入口で伏せた。ミルは窓辺に座る。
「眠らなければ、と思わなくて大丈夫です」
僕はエリスに言った。
「目を閉じて、体を横にするだけでもいいです。眠れたら眠る。眠れなければ、少し休む。それくらいで」
エリスは静かにうなずいた。
「それくらいで、いいのですね」
「はい」
彼女は横になった。
最初は、指先に力が入っていた。けれど、呼吸がひとつ、ふたつと続くうちに、その力が少しずつ抜けていく。
部屋の中の魔力の震えも、わずかに穏やかになった。
完全に止まったわけではない。
でも、荒れていた水面に、細い月の光が一本落ちたようだった。
しばらくして、エリスの呼吸が深くなる。
眠った。
久しぶりに、ちゃんと眠りの底へ沈んでいる。
僕は胸を撫で下ろした。
よかった。
その瞬間、屋敷の外から、細い震えが伝わってきた。
エリスのものではない。
もっと遠く、もっと広い。
土地の奥で、何かがかすかに軋んでいる。
僕は窓の外を見た。
庭の向こう。森のさらに奥。月明かりが届きにくい場所。
そこから、弱い声のような魔力が揺れていた。
ミルが窓辺で立ち上がる。
ノルも静かに顔を上げた。
「ミル」
僕が呼ぶと、ミルは外を見たまま言った。
「彼女は少し眠れた。けれど、問題は彼女だけじゃない」
分かっていた。
それでも、言葉にされると胸が重くなる。
エリスは眠れた。
けれど、彼女を苦しめているものは、彼女の中だけにあるのではない。
月明かりの届かない奥で、忘れられた何かが、静かに弱っている。
僕はエリスの寝顔を見てから、窓の外の暗がりへ目を向けた。
明日、探しに行こう。
そう思った瞬間、胸の奥にまた、あの月の夢の気配が灯った。




