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こもれび薬店と月の眠り  作者: Yu


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第10話:忘れられた月の祠

翌朝、エリスは少しだけ顔色がよかった。


劇的に元気になったわけではない。起き上がる動作はまだゆっくりで、長く話せば疲れてしまうだろう。それでも、目の下の影は昨日より薄く、呼吸もいくらか深い。


「昨夜は、久しぶりに眠れた気がします」


エリスは小さく笑った。


その笑顔は控えめだったけれど、昨日よりも確かに明るかった。


「よかったです」


僕はそう答えながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


眠れた。


たったそれだけのことかもしれない。けれど、眠れない日が続いていた人にとって、それは大きな回復だ。


ただ、僕は同時に分かっていた。


これで終わりではない。


昨夜、エリスが眠ったあとに感じた土地の奥の震え。あれを確かめなければ、彼女の不調はまた繰り返す。


僕はお茶を淹れながら、少し迷った。


どこまで話すべきだろう。


エリスは体調が完全ではない。余計な不安を与えたくはない。でも、彼女は自分の領地を気にかけている。何も知らせずに動くのは違う気がした。


「エリス様」


「はい」


「少し、土地のことでお聞きしてもいいですか」


エリスの表情が、わずかに変わった。


驚きというより、来るべき話が来た、という顔だった。


「やはり、土地の魔力が関係しているのですね」


「可能性があります。昨夜、エリス様の魔力が少し落ち着いたあと、屋敷の外から別の揺れを感じました」


「屋敷の外……」


エリスは窓の外へ視線を向けた。


その先には、整えられた庭と、さらに奥へ続く細い森がある。


しばらくして、彼女は静かに言った。


「昔から、気になっている場所があります」


僕は黙って続きを待った。


「庭の奥の森に、小さな月の祠があるのです。古いものだと聞いています。幼いころは、乳母に連れられて何度か行きました。でも、今はほとんど誰も訪れません」


「壊れているのですか?」


「いえ。壊れてはいないと思います。ただ、道が分かりにくくなっていて、手入れも……」


エリスは少し目を伏せた。


「ずっと気になっていました。でも、私が体調を崩しやすくなってからは、そこまで歩くことも難しくなって」


その声には、悔しさが混じっていた。


エリスは、自分の体が弱いことだけに苦しんでいるのではない。気づいているのに動けないこと、自分の大切な場所を守れないことに傷ついているのだ。


「その祠へ、案内していただけますか」


僕が言うと、エリスは驚いたように顔を上げた。


「私も、ですか?」


「無理のない範囲で。途中でつらくなったら戻りましょう。ノルもいますし、こもれび号に休める場所もあります」


ノルは自分の名前が出たのを理解したのか、胸を張るように座った。


ミルは窓辺でしっぽを揺らす。


「私もいるのだけれどね」


「ミルも頼りにしてるよ」


「当然だ」


エリスにはミルの声は聞こえていないようだったが、黒猫が偉そうに座っている姿を見て、少しだけ笑った。


準備を整え、僕たちは庭の奥へ向かった。


エリスは薄い外套を羽織り、無理のない歩調で進む。使用人が心配して同行を申し出たが、エリスは少し考えてから、「近くまでで大丈夫です」と断った。


自分の足で確かめたいのだと思う。


庭は美しかった。


けれど、近くで見ると、ところどころに不調があった。花壇の花は咲いているが、香りが薄い。月白草のある一角では、蕾のまま止まっている株が多い。葉の色も、少し沈んでいる。


道を進むほど、胸の奥の重さが増した。


ノルは僕の少し前を歩き、時々振り返る。ミルは石垣や枝の上を歩きながら、珍しく黙っていた。


森の入口に着くと、エリスが小さく息をついた。


「少し休みましょう」


僕が言うと、彼女は申し訳なさそうにした。


「すみません」


「休むために言いました。謝るところではありません」


エリスは一瞬驚き、それから小さくうなずいた。


「……はい」


こもれび号から持ってきた薄いハーブティーを渡す。エリスはゆっくり飲み、ノルの背に手を置いた。


「ノルさんは、本当に温かいですね」


ノルは得意そうな顔をした。


ミルが小声で言う。


「ただ大きいだけではないと主張したいらしい」


「ノルは聞こえてるよ」


「聞こえた上で無視するのが腹立たしい」


そんなやり取りのおかげで、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。


森の奥へ進むと、道はさらに細くなった。


やがて、草に隠れかけた石段が見えた。


その先に、小さな祠があった。


本当に、小さな祠だった。


白い石で作られ、屋根には月の紋章が刻まれている。壊れてはいない。けれど、石の表面には苔がつき、周囲の草は伸び、供え台には古い枯葉が積もっていた。


忘れられている。


夢の中で聞いた言葉が、胸の奥に蘇った。


エリスは祠の前で立ち止まった。


「昔は、もっと明るい場所だった気がします」


その声は震えていなかった。けれど、深い寂しさがあった。


「私、気になっていたのに……何もできませんでした」


「気にしていた人がいたから、まだ完全には消えていないのだと思います」


僕がそう言うと、エリスは僕を見た。


「そうでしょうか」


「はい」


本当にそう思った。


祠は弱っている。でも、壊れていない。完全に閉じてはいない。エリスが覚えていたことも、きっと小さな灯りになっていたのだ。


ミルが祠の前へ歩いた。


その足取りは、いつもよりずっと静かだった。


「ミル?」


僕が呼んでも、ミルは答えない。


祠の奥、石灯籠の影に、何かがいた。


黒猫に似ていた。


けれど、ミルとは違う。


輪郭が薄く、月明かりに溶けかけた影が、かろうじて猫の形を保っているようだった。金色の目もほとんど光を失い、体は今にも消えそうに揺れている。


エリスは息を呑んだ。


「猫……?」


見えているらしい。


ノルは吠えなかった。ただ静かに、祠の前で伏せた。


ミルが小さく息を吐く。


「……ずいぶん、薄くなっているね」


いつもの皮肉っぽさはなかった。


僕はミルを見る。


「知っているの?」


ミルは祠の奥にいる薄い黒猫を見つめたまま、しっぽを一度だけ揺らした。


「知っている、というより……私の欠片みたいなものだよ」


「ミルの?」


「月の祠には、それぞれ見守りの欠片が宿る。ここにいた子は、私から分かれた小さな分身だ。祠が忘れられて、月の巡りが弱って、ずっと独りで薄くなっていた」


ミルの声は静かだった。


それだけで、この場所がただ古いだけではないのだと分かった。


エリスは祠の前に膝をついた。


「ごめんなさい」


誰に向けた言葉なのか、分からなかった。


祠にか。精霊にか。気づいていたのに来られなかった自分にか。


薄い黒猫は、ほんの少しだけ耳を動かした。


僕は薬箱を開いた。


強い薬はいらない。


まず、祠の周りの枯葉を取り除く。苔は全部剥がすのではなく、石を傷めないように濡れ布でそっと拭いた。エリスも、できる範囲で草をよける。ノルは近くに座って、森の奥を見張っている。


ミルは祠の前に座り、何も言わなかった。


掃除を終えると、空気が少し変わった。


重さはまだある。けれど、祠の形がはっきり見えるだけで、忘れられたものが少し名前を取り戻したように感じた。


僕はこもれび号から持ってきた白花草の茶を小さな器に注ぎ、供え台に置いた。


それから、昨夜作った香油を一滴だけ、祠の石の端へ落とす。


強すぎない香りが、静かに広がった。


エリスが祠の前で目を閉じる。


僕も手を合わせた。


祈り方は知らない。


でも、言葉は自然に出てきた。


「どうか、少し休めますように」


人にも、土地にも、精霊にも。


そして、エリスにも。


その時、雲の切れ間から月明かりが差した。


昼間のはずなのに、森の中に細い銀色の光が落ちる。普通ならありえない光だった。


薄い黒猫の体が、その光を受けて少しだけ輪郭を取り戻す。


けれど、まだ弱い。


ミルが立ち上がった。


「消えるの?」


僕が思わず尋ねると、ミルは小さく鼻を鳴らした。


「失礼だね。預かるだけだよ。あの子が、またここで眠れるようになるまで」


そう言って、ミルは祠の前に座った。


薄い黒猫は、月の光にほどけるようにして、ゆっくりとミルへ近づいた。


二匹の黒猫が重なる。


一瞬、ミルの輪郭が大きく揺れた。


金色の目が、月明かりを受けて深く光る。


薄い影は、ミルの胸元へ吸い込まれるように消えていった。


その瞬間、重たかった空気が、ほんの少しだけ軽くなった。


森の葉が揺れる。


遠くで鳥が鳴いた。


エリスが胸に手を当てる。


「……呼吸が、楽です」


彼女の声は小さかったが、確かに驚きと安堵が混じっていた。


僕も胸の奥の重さが少し薄くなっているのを感じた。


完全に整ったわけではない。


祠はまだ古く、魔力の流れも弱い。ミルの中に戻った精霊も、すぐに元気になるわけではないだろう。


でも、最初の灯りは戻った。


「これからも、手入れが必要です」


僕はエリスに言った。


「祠も、土地も、人と同じで、急には戻りません。少しずつ、ここを思い出してもらう必要があります」


エリスは祠を見つめ、静かにうなずいた。


「私に、できるでしょうか」


「一人で全部は難しいかもしれません。でも、一人でなくてもいいと思います」


その言葉を言いながら、自分にも返ってくるのを感じた。


一人でなくてもいい。


癒やすことも、整えることも、誰かひとりが背負うものではない。


エリスは僕を見て、少しだけ笑った。


「では、まずは私が、ここへ来ることから始めます。無理のない日に、少しずつ」


「それがいいと思います」


ミルはいつもの調子を少し取り戻したのか、しっぽを揺らして言った。


「ようやくまともな結論になったね」


「ミル、疲れてない?」


「月の使いを見くびらないことだ」


そう言う声は偉そうだったが、いつもより少しだけ弱かった。


ノルがミルのそばへ行き、大きな体を低く伏せる。


ミルは一瞬ためらったあと、ノルの背中に軽く寄りかかった。


「……毛だらけだ」


ノルは動かない。


「でも、まあ、悪くはない」


僕とエリスは顔を見合わせ、少し笑った。


その夜、エリスはもう一度、穏やかに眠った。


セレスティア領の空気は、まだ完全には軽くならない。月白草もすぐには咲かない。古い祠には、これから何度も人の手と祈りが必要だ。


それでも、何かが始まった。


こもれび号の小窓から月を見上げながら、僕はそう感じていた。


ミルはノルの背中に寄りかかり、珍しく何も言わない。


ノルは目を閉じているが、眠ってはいないようだった。


「ひとつの依頼は、終わったのかな」


僕がつぶやくと、ミルが片目だけを開けた。


「終わった、というより、始まったんだよ」


「始まった?」


「月の光は、一か所だけを照らすものではないからね」


その言葉の意味を尋ねようとした時、胸の奥で、また小さな月明かりが揺れた。


夢の気配。


どこか遠くで、誰かが休み方を忘れている。


どこかの土地で、また何かが静かに弱っている。


僕は小窓の外の月を見上げた。


きっとまた、夢を見る。


そんな予感がしていた。


けれど今は、無理に追いかけない。


今日は、休む日だ。


僕はノルのそばに腰を下ろし、ミルの小さな寝息を聞きながら、静かに目を閉じた。


セレスティア領の夜に、月明かりがほんの少しだけ戻っていた。


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