第8話:見立てと小さな食事
エリスの部屋には、強い香りがなかった。
それは良いことだと思った。体調が不安定な時、濃い香りは心地よさより先に負担になることがある。特に魔力が乱れやすい人は、香りに含まれる微かな魔力にも敏感に反応することがある。
僕はこもれび号から持ってきた小さな道具箱を開けた。
茶葉の入った小瓶、乾燥させた薬草、香りを確かめるための細い紙、簡単な魔力測定用の透明な石。どれも強い力を持つ道具ではない。けれど、相手の状態を丁寧に見るには十分だった。
「まず、いくつか質問してもいいですか」
「はい」
エリスは椅子に座ったまま、背筋を伸ばして答えた。
その姿勢は美しい。けれど、長く保つには体力を使いそうだった。
「楽な姿勢で大丈夫です」
「でも……」
「見立てのためです。普段どれくらい力を入れているかも、知りたいので」
そう言うと、エリスは少し迷ったあと、背もたれに体を預けた。
それだけで、肩の線が少し下がる。
「眠りは、浅い日が多いですか」
「はい。寝つけても、夜中に何度か目が覚めます。朝になると、眠ったはずなのに疲れていて」
「食事は?」
「食べられる日もありますが、疲れている日は匂いだけでいっぱいになってしまうことがあります」
「魔力を使うと、どうなりますか」
「少しの魔法なら使えます。でも、使ったあとに体が冷えて、頭が重くなります」
僕は調合帳に書き留めていった。
睡眠が浅い。食が細い。魔力使用後に冷えと倦怠感。疲労が回復しにくい。
それだけなら、体質と過労が重なっていると考えられる。
けれど、エリスの周りには、やはり土地の魔力の揺らぎが混ざっていた。
透明な測定石を彼女の手元に置くと、石の中に細い光が走った。光は一度まっすぐ伸びかけて、すぐに細かく震える。
エリスが不安そうに石を見た。
「悪い状態でしょうか」
「悪いというより、整いにくい状態です」
「整いにくい」
「はい。川の流れに例えるなら、水が少しあちこちにぶつかっている感じです。せき止められているわけではありません。だから、少しずつ流れやすくする方法を探せます」
エリスはその説明を聞いて、わずかに表情を緩めた。
「せき止められているわけではないのですね」
「はい」
言い切ったあと、僕は心の中で少しだけ反省した。
本当は、すべてが分かったわけではない。けれど、今のエリスに必要なのは、必要以上に不安にさせない言葉だと思った。
分からないことは分からないと言う。
父さんの言葉を思い出す。
だから僕は続けた。
「ただ、エリス様自身の魔力だけでなく、この屋敷や土地の魔力も少し影響しているかもしれません。今日一日で全部は分からないので、見ながら進めてもいいですか」
エリスは、驚いたように目を見開いた。
「土地の魔力……」
「心当たりがありますか?」
一瞬、彼女は何かを言いかけた。
けれど、すぐに首を横に振る。
「いえ。今は、まだ」
その言い方には、何かを隠しているというより、言葉にできないものを抱えているような響きがあった。
僕は深く追及しなかった。
「では、まず食事から始めましょう」
「食事、ですか」
エリスの顔に、少し緊張が戻る。
「たくさん食べる必要はありません。今日は、食べられるかどうかを見るための小さな食事です」
「残してしまったら……」
「残しても大丈夫です」
僕がそう言うと、エリスは本当に驚いた顔をした。
それが、少し痛かった。
この人は、残すことすら申し訳ないと思ってきたのだろう。
「体が受け取れる量は日によって違います。食べきることより、食べても苦しくならないことを大事にしましょう」
エリスはゆっくりうなずいた。
「分かりました」
僕はこもれび号へ戻り、調理台の前に立った。
ノルは敷物の上で丸くなっていたが、僕が鍋を出すと顔を上げた。
「ノルの分じゃないよ」
ノルは少しだけ耳を伏せた。
ミルはカウンターの上から呆れた声を出す。
「この犬は、食べ物の気配にだけは敏感だね」
「ミルもミルクの温度には敏感だよね」
「繊細と言いなさい」
僕は苦笑しながら、鍋に水と細かく刻んだ根菜を入れた。母さんが持たせてくれた乾燥鶏肉を少し、胃にやさしい白穀をひとつまみ。香りづけに、ほんの少しだけ若葉草。
強い薬膳ではない。
体が弱っている時に、薬効を詰め込みすぎると、それだけで負担になる。
今日作るのは、体に「入ってきても大丈夫だよ」と伝えるようなスープだった。
ゆっくり火を入れると、やさしい香りがこもれび号に広がった。
母さんなら、もう少し味に深みを出すかもしれない。父さんなら、薬草の配合をもう少し細かく調整するかもしれない。
でも、今の僕にできることを丁寧にする。
それでいい。
スープを小さな器に移し、蜂蜜を少しだけ練り込んだ薄い焼き菓子を添えた。甘すぎず、噛む力があまりいらないもの。
香りは、白花草と乾いた林檎の皮を使う。強く眠らせるのではなく、部屋の空気を柔らかくする程度。
エリスの部屋へ戻ると、彼女は窓辺で鉢植えを見ていた。
夢で見た白い蕾の花だ。
「その花は?」
僕が尋ねると、エリスは少しだけ指先を花に近づけた。
「月白草です。昔は、庭にもよく咲いていたそうです。でも最近は、あまり開かなくなってしまって」
「月白草……」
薬草としても使われる花だ。月明かりの下で花を開き、穏やかな魔力を帯びる。乾かして少量をお茶に混ぜると、魔力の乱れを和らげる助けになる。
けれど、この鉢の月白草は蕾を閉じたままだった。
エリスは寂しそうに微笑んだ。
「私が弱っているから、世話も下手なのかもしれません」
「そうとは限りません」
言葉が少し強く出た。
エリスがこちらを見る。
「植物が開かない理由は、世話だけではありません。土、光、水、風、土地の魔力。いろいろあります」
「土地の魔力……」
彼女はその言葉を、さっきよりも深く受け止めたようだった。
僕は器をテーブルに置いた。
「まずは、エリス様自身を少し整えましょう。そうしたら、月白草のことも一緒に見られるかもしれません」
エリスは静かにうなずいた。
スープを前にして、彼女は少し不安そうだった。
「本当に、残しても?」
「はい。一口でも大丈夫です」
「一口でも?」
「一口食べられたら、今日は一口食べられた日です」
エリスはしばらく器を見つめたあと、匙を取った。
小さくすくって、口へ運ぶ。
飲み込むまで、少し時間がかかった。
僕は何も言わずに待った。
急かされると、食事は義務になる。義務になった食事は、体にも心にも重い。
やがて、エリスが小さく息を吐いた。
「……温かいです」
「はい」
「変な言い方ですが、体が驚きません」
その言葉に、僕は少し笑った。
「それは、よかったです」
エリスはもう一口、スープを飲んだ。
それから、小さな焼き菓子を見て、迷う。
「甘いものは苦手ですか?」
「苦手ではありません。ただ、最近は甘いものも重く感じてしまって」
「これは蜂蜜を少しだけです。無理なら香りだけでも」
エリスは焼き菓子を半分に割り、小さな欠片を口にした。
そして、ほんの少しだけ目を見開いた。
「……おいしい」
その言葉は、ほとんど息のように小さかった。
けれど確かに、彼女の表情が柔らかくなった。
その変化を見た時、胸の奥が温かくなる。
薬が効いたわけではない。体調が急に良くなったわけでもない。
でも、食べることを怖がっていた人が、少しだけ「おいしい」と感じられた。
それは、小さな回復だった。
ノルがエリスの足元で静かに伏せる。
エリスは、空いた手でそっとノルの頭を撫でた。
「ノルさんも、食べたいですか?」
ノルの耳がぴくりと動いた。
「ノルさん」
僕が思わず繰り返すと、エリスは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「呼び捨ては、少し失礼かと思って」
「たぶん、ノルは喜んでいます」
ノルは真面目な顔をしていた。
喜んでいる顔だ。
部屋の空気が、少しだけ明るくなった。
でも、その時、窓辺の月白草が目に入った。
蕾は閉じたまま。葉の先は、朝よりも少し黒ずんで見える。
エリスがスープを飲み、少し笑えたこの部屋で、それだけが取り残されたように弱っている。
僕は胸の奥に、細い震えを感じた。
エリスを整えるだけでは、足りない。
この土地にも、何かが必要だ。
そう思った瞬間、こもれび号の方からミルの声が聞こえた気がした。
――気づいたかい。
振り返ると、部屋の入口に黒猫が座っていた。
ミルは金色の目で月白草を見ていた。
いつもの皮肉っぽい表情ではなかった。
僕はエリスに気づかれないよう、静かに息を整えた。
今日の目的は、まずエリスを少し休ませること。
土地のことは、そのあとだ。
でも、月白草の閉じた蕾は、まるで何かを訴えるように、静かに窓辺でうつむいていた。




