第7話:眠れぬ令嬢エリス
セレスティア領の屋敷は、夢で見た通り、月明かりが似合う場所だった。
白い石壁。整えられた庭。高台から見下ろす町並み。昼間なのに、どこか静かな夜の気配をまとっている。
美しい場所だと思う。
けれど、こもれび号を屋敷の門前に停めた時、僕の胸には小さな違和感が残った。
空気が重い。
町に入った時から感じていた重さは、屋敷に近づくほど濃くなっている。息苦しいほどではない。けれど、薄い布を何枚も体にかけられているような、静かな圧迫感があった。
ノルは僕の隣で立ち止まり、鼻先を少し上げた。
「何かある?」
小声で聞くと、ノルは低く喉を鳴らした。
威嚇ではない。警戒でもない。もっと深く、気にしているような声。
ミルはこもれび号の窓辺から外を見ていた。
「静かすぎるね」
「屋敷だからじゃなくて?」
「貴族の屋敷でも、土地が元気ならもう少し音がするものだよ。風とか、草とか、目に見えないものがね」
言われて、僕は庭を見た。
よく手入れされた花壇。整った木々。白い小道。
けれど、葉が揺れる音が少ない。鳥の声も遠い。花は咲いているのに、香りが淡い。
美しいのに、少し疲れている。
そんな印象だった。
門を開けてくれたのは、年配の執事だった。背筋がまっすぐで、仕草も丁寧だが、目元に疲れが見える。
「こもれび薬店のノエル様でいらっしゃいますね」
「はい。ノエルです。このたびはご依頼ありがとうございます」
「遠いところをお越しいただき、感謝いたします。お嬢様もお待ちです」
お嬢様。
エリスのことだ。
僕はこもれび号の扉を閉め、必要な薬箱だけを持った。ノルは一緒に来たそうに立ち上がったが、屋敷の中へ大きな犬を連れて入っていいのか迷う。
執事はノルを見て、少し驚いたあと、穏やかに言った。
「その子も、ご一緒に?」
「ええと、必要なければ馬車で待たせます」
「お嬢様は動物がお好きです。大人しい子であれば、問題ございません」
ノルは、まるで自分は当然大人しいと言いたげに、静かに座った。
ミルはというと、いつの間にか門柱の上にいた。
「私は?」
「ミルは……猫だから大丈夫かな」
「扱いが雑だね」
執事はミルの声が聞こえないようだった。ただ黒猫がいることに気づき、わずかに目を細めた。
「黒猫とは、珍しい。お嬢様が喜ばれるかもしれません」
ミルは少し得意そうにしっぽを揺らした。
屋敷の中は、外観と同じく上品だった。
磨かれた床、白い壁、細い金の装飾。窓から入る光はやわらかく、廊下には控えめな花が飾られている。
けれど、使用人たちの表情はどこか緊張していた。
すれ違う人たちは皆、礼儀正しく頭を下げる。だが、声は小さく、足音も静かすぎる。
誰かを起こさないようにしている。
屋敷全体が、そんな空気に包まれていた。
「お嬢様は、昨夜もあまり眠れなかったのですか」
僕が尋ねると、執事は小さくうなずいた。
「はい。眠ってはおられるのですが、すぐに目を覚まされます。朝にはひどくお疲れのご様子で……」
「食事は?」
「少量なら。ただ、ここ数日はさらに細くなっております」
父さんの言葉を思い出す。
まず話を聞くこと。顔色を見ること。食べられる量、眠れる時間、魔力を使った後の疲れ方。
僕は心の中でひとつずつ確認した。
案内された部屋の前で、執事が静かに扉を叩いた。
「お嬢様、こもれび薬店のノエル様がお見えです」
少し間があって、内側から柔らかな声がした。
「どうぞ」
扉が開く。
部屋は明るかった。
白い薄布のカーテンが窓辺で揺れ、机の上には本と花瓶が置かれている。香りは控えめで、強い香水の匂いはしない。
そして窓辺の椅子に、少女が座っていた。
夢で見た少女だ。
長い髪は淡い金色で、月の光ではなく昼の光を受けても、どこか静かに輝いて見える。顔立ちは整っていて、姿勢も美しい。
けれど、肌の色は少し白すぎた。唇にも血色が薄く、指先は膝の上で細く重ねられている。
彼女はゆっくり立ち上がろうとした。
「エリス様、そのままで」
僕は思わず言った。
彼女は少し驚いたように瞬きをする。
「でも、お客様を座ったままお迎えするのは……」
「今日は、礼儀より体調を優先してください」
口にしてから、少し強すぎたかもしれないと思った。
けれどエリスは怒らなかった。むしろ、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます」
彼女は椅子に座り直した。
「初めまして。セレスティア領主の娘、エリスと申します。このたびは、遠いところをお越しいただきありがとうございます」
「こもれび薬店のノエルです。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
僕は礼をした。
貴族令嬢と話すのは初めてだ。緊張していないと言えば嘘になる。
でも、エリスの声は想像していたよりずっと柔らかかった。相手を試すような響きはなく、むしろこちらに気を遣っているようにも感じる。
「大きな犬ですね」
エリスの視線がノルへ向いた。
ノルは部屋の入口で静かに座っている。
「ノルといいます。怖くありませんか?」
「いいえ。とても優しい目をしています」
エリスは少しだけ微笑んだ。
その瞬間、部屋の空気がほんの少し明るくなる。
ノルはそれが分かったのか、ゆっくりと近づき、エリスから少し離れた場所で伏せた。
「触っても?」
「ノルが嫌がらなければ」
エリスが手を伸ばすと、ノルは自分から頭を近づけた。
白い毛に触れたエリスの指が、かすかに震える。
「温かい……」
その声は、とても小さかった。
僕はその横顔を見ながら、胸の奥に淡い色が広がるのを感じた。
相手に必要な癒やしが、ぼんやり分かる力。
いつもなら、色や香りのように、必要なものの方向が浮かぶ。
けれどエリスの場合、それがはっきりしなかった。
白花草のような静けさ。温め草のようなぬくもり。眠り草のような休息。魔力草のような調整。
それらが全部必要に見える。
でも、それだけでは足りない。
エリスの奥に、もっと広い揺らぎが重なっていた。彼女個人の疲れと、屋敷の空気と、土地の魔力が、薄く絡まり合っているような感覚。
「ノエル様?」
エリスが僕を見た。
「あ、すみません。少し、状態を見ていました」
「何か分かりますか?」
「まだ、はっきりとは。ただ、強い薬で無理に元気にするより、まずは眠りと食事、魔力の流れを少しずつ整える方がいいと思います」
エリスは静かにうなずいた。
「私は、薬を飲めばすぐ治るのでしょうか」
その問いには、期待よりも不安が混じっていた。
たぶん、何度もそう聞いてきたのだろう。何度も、はっきりしない答えを返されてきたのだろう。
僕は言葉を選んだ。
「すぐに全部治る、とは言えません」
エリスの指が、ノルの毛を少し握った。
「でも、少し楽になる方法は探せます。眠れる時間を増やすこと。食べられるものを見つけること。魔力が乱れにくい環境を整えること。そういうところから始めたいです」
「少しずつ、ですか」
「はい。少しずつ」
エリスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「少しずつでいいと言われたのは、初めてかもしれません」
「今まで、違いましたか?」
「早く元気にならなければ、と思っていました。父にも、使用人たちにも心配をかけていますし……領地のことも、もっと手伝いたいのに」
その言葉で、僕は彼女がただ弱っているだけの人ではないと分かった。
エリスは、自分の不調よりも、周りにかけている負担を気にしている。
前世の僕に似ている。
そう思ってしまった。
「エリス様」
「はい」
「今日は、元気になるために頑張る日ではなく、休むための準備をする日にしましょう」
エリスは目を瞬かせた。
「休むための、準備」
「はい。休むのにも、準備が必要な時があります」
言いながら、これは自分にも言っているのかもしれないと思った。
部屋の隅で、ミルが静かにこちらを見ていた。
いつものような皮肉はない。
ただ、その金色の目が、少しだけ優しく見えた。
僕は薬箱を開けた。
「まずは、お茶を淹れます。香りは弱めにしますね。食事は、無理なく食べられる量を見てから決めましょう」
エリスは小さくうなずいた。
その時、窓の外に置かれた鉢植えが目に入った。
夢で見た、白い蕾の花。
昼の光の中でも、その蕾は閉じたままだった。葉の先は少し黒ずみ、土は湿っているのに、生気が薄い。
僕はその鉢を見つめた。
胸の奥に、冷たい月光のような感覚が走る。
これは、ただの疲労ではない。
エリスの不調は、彼女の中だけにあるものではない。
そう確信した瞬間、ノルが低く喉を鳴らした。
ミルは窓辺に飛び乗り、外の庭を見た。
「……やはり、根が深いね」
その声は、僕にだけ聞こえていた。
エリスは不思議そうに僕を見る。
「ノエル様?」
僕はすぐに表情を整えた。
「すみません。お茶の準備をしますね」
今はまだ、言えない。
けれど、この屋敷には何かがある。
そしてきっと、僕はそれを見つけるためにここへ来たのだ。




