表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こもれび薬店と月の眠り  作者: Yu


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/10

第7話:眠れぬ令嬢エリス

セレスティア領の屋敷は、夢で見た通り、月明かりが似合う場所だった。


白い石壁。整えられた庭。高台から見下ろす町並み。昼間なのに、どこか静かな夜の気配をまとっている。


美しい場所だと思う。


けれど、こもれび号を屋敷の門前に停めた時、僕の胸には小さな違和感が残った。


空気が重い。


町に入った時から感じていた重さは、屋敷に近づくほど濃くなっている。息苦しいほどではない。けれど、薄い布を何枚も体にかけられているような、静かな圧迫感があった。


ノルは僕の隣で立ち止まり、鼻先を少し上げた。


「何かある?」


小声で聞くと、ノルは低く喉を鳴らした。


威嚇ではない。警戒でもない。もっと深く、気にしているような声。


ミルはこもれび号の窓辺から外を見ていた。


「静かすぎるね」


「屋敷だからじゃなくて?」


「貴族の屋敷でも、土地が元気ならもう少し音がするものだよ。風とか、草とか、目に見えないものがね」


言われて、僕は庭を見た。


よく手入れされた花壇。整った木々。白い小道。


けれど、葉が揺れる音が少ない。鳥の声も遠い。花は咲いているのに、香りが淡い。


美しいのに、少し疲れている。


そんな印象だった。


門を開けてくれたのは、年配の執事だった。背筋がまっすぐで、仕草も丁寧だが、目元に疲れが見える。


「こもれび薬店のノエル様でいらっしゃいますね」


「はい。ノエルです。このたびはご依頼ありがとうございます」


「遠いところをお越しいただき、感謝いたします。お嬢様もお待ちです」


お嬢様。


エリスのことだ。


僕はこもれび号の扉を閉め、必要な薬箱だけを持った。ノルは一緒に来たそうに立ち上がったが、屋敷の中へ大きな犬を連れて入っていいのか迷う。


執事はノルを見て、少し驚いたあと、穏やかに言った。


「その子も、ご一緒に?」


「ええと、必要なければ馬車で待たせます」


「お嬢様は動物がお好きです。大人しい子であれば、問題ございません」


ノルは、まるで自分は当然大人しいと言いたげに、静かに座った。


ミルはというと、いつの間にか門柱の上にいた。


「私は?」


「ミルは……猫だから大丈夫かな」


「扱いが雑だね」


執事はミルの声が聞こえないようだった。ただ黒猫がいることに気づき、わずかに目を細めた。


「黒猫とは、珍しい。お嬢様が喜ばれるかもしれません」


ミルは少し得意そうにしっぽを揺らした。


屋敷の中は、外観と同じく上品だった。


磨かれた床、白い壁、細い金の装飾。窓から入る光はやわらかく、廊下には控えめな花が飾られている。


けれど、使用人たちの表情はどこか緊張していた。


すれ違う人たちは皆、礼儀正しく頭を下げる。だが、声は小さく、足音も静かすぎる。


誰かを起こさないようにしている。


屋敷全体が、そんな空気に包まれていた。


「お嬢様は、昨夜もあまり眠れなかったのですか」


僕が尋ねると、執事は小さくうなずいた。


「はい。眠ってはおられるのですが、すぐに目を覚まされます。朝にはひどくお疲れのご様子で……」


「食事は?」


「少量なら。ただ、ここ数日はさらに細くなっております」


父さんの言葉を思い出す。


まず話を聞くこと。顔色を見ること。食べられる量、眠れる時間、魔力を使った後の疲れ方。


僕は心の中でひとつずつ確認した。


案内された部屋の前で、執事が静かに扉を叩いた。


「お嬢様、こもれび薬店のノエル様がお見えです」


少し間があって、内側から柔らかな声がした。


「どうぞ」


扉が開く。


部屋は明るかった。


白い薄布のカーテンが窓辺で揺れ、机の上には本と花瓶が置かれている。香りは控えめで、強い香水の匂いはしない。


そして窓辺の椅子に、少女が座っていた。


夢で見た少女だ。


長い髪は淡い金色で、月の光ではなく昼の光を受けても、どこか静かに輝いて見える。顔立ちは整っていて、姿勢も美しい。


けれど、肌の色は少し白すぎた。唇にも血色が薄く、指先は膝の上で細く重ねられている。


彼女はゆっくり立ち上がろうとした。


「エリス様、そのままで」


僕は思わず言った。


彼女は少し驚いたように瞬きをする。


「でも、お客様を座ったままお迎えするのは……」


「今日は、礼儀より体調を優先してください」


口にしてから、少し強すぎたかもしれないと思った。


けれどエリスは怒らなかった。むしろ、ほんの少しだけ表情をやわらげた。


「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます」


彼女は椅子に座り直した。


「初めまして。セレスティア領主の娘、エリスと申します。このたびは、遠いところをお越しいただきありがとうございます」


「こもれび薬店のノエルです。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」


僕は礼をした。


貴族令嬢と話すのは初めてだ。緊張していないと言えば嘘になる。


でも、エリスの声は想像していたよりずっと柔らかかった。相手を試すような響きはなく、むしろこちらに気を遣っているようにも感じる。


「大きな犬ですね」


エリスの視線がノルへ向いた。


ノルは部屋の入口で静かに座っている。


「ノルといいます。怖くありませんか?」


「いいえ。とても優しい目をしています」


エリスは少しだけ微笑んだ。


その瞬間、部屋の空気がほんの少し明るくなる。


ノルはそれが分かったのか、ゆっくりと近づき、エリスから少し離れた場所で伏せた。


「触っても?」


「ノルが嫌がらなければ」


エリスが手を伸ばすと、ノルは自分から頭を近づけた。


白い毛に触れたエリスの指が、かすかに震える。


「温かい……」


その声は、とても小さかった。


僕はその横顔を見ながら、胸の奥に淡い色が広がるのを感じた。


相手に必要な癒やしが、ぼんやり分かる力。


いつもなら、色や香りのように、必要なものの方向が浮かぶ。


けれどエリスの場合、それがはっきりしなかった。


白花草のような静けさ。温め草のようなぬくもり。眠り草のような休息。魔力草のような調整。


それらが全部必要に見える。


でも、それだけでは足りない。


エリスの奥に、もっと広い揺らぎが重なっていた。彼女個人の疲れと、屋敷の空気と、土地の魔力が、薄く絡まり合っているような感覚。


「ノエル様?」


エリスが僕を見た。


「あ、すみません。少し、状態を見ていました」


「何か分かりますか?」


「まだ、はっきりとは。ただ、強い薬で無理に元気にするより、まずは眠りと食事、魔力の流れを少しずつ整える方がいいと思います」


エリスは静かにうなずいた。


「私は、薬を飲めばすぐ治るのでしょうか」


その問いには、期待よりも不安が混じっていた。


たぶん、何度もそう聞いてきたのだろう。何度も、はっきりしない答えを返されてきたのだろう。


僕は言葉を選んだ。


「すぐに全部治る、とは言えません」


エリスの指が、ノルの毛を少し握った。


「でも、少し楽になる方法は探せます。眠れる時間を増やすこと。食べられるものを見つけること。魔力が乱れにくい環境を整えること。そういうところから始めたいです」


「少しずつ、ですか」


「はい。少しずつ」


エリスはしばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐く。


「少しずつでいいと言われたのは、初めてかもしれません」


「今まで、違いましたか?」


「早く元気にならなければ、と思っていました。父にも、使用人たちにも心配をかけていますし……領地のことも、もっと手伝いたいのに」


その言葉で、僕は彼女がただ弱っているだけの人ではないと分かった。


エリスは、自分の不調よりも、周りにかけている負担を気にしている。


前世の僕に似ている。


そう思ってしまった。


「エリス様」


「はい」


「今日は、元気になるために頑張る日ではなく、休むための準備をする日にしましょう」


エリスは目を瞬かせた。


「休むための、準備」


「はい。休むのにも、準備が必要な時があります」


言いながら、これは自分にも言っているのかもしれないと思った。


部屋の隅で、ミルが静かにこちらを見ていた。


いつものような皮肉はない。


ただ、その金色の目が、少しだけ優しく見えた。


僕は薬箱を開けた。


「まずは、お茶を淹れます。香りは弱めにしますね。食事は、無理なく食べられる量を見てから決めましょう」


エリスは小さくうなずいた。


その時、窓の外に置かれた鉢植えが目に入った。


夢で見た、白い蕾の花。


昼の光の中でも、その蕾は閉じたままだった。葉の先は少し黒ずみ、土は湿っているのに、生気が薄い。


僕はその鉢を見つめた。


胸の奥に、冷たい月光のような感覚が走る。


これは、ただの疲労ではない。


エリスの不調は、彼女の中だけにあるものではない。


そう確信した瞬間、ノルが低く喉を鳴らした。


ミルは窓辺に飛び乗り、外の庭を見た。


「……やはり、根が深いね」


その声は、僕にだけ聞こえていた。


エリスは不思議そうに僕を見る。


「ノエル様?」


僕はすぐに表情を整えた。


「すみません。お茶の準備をしますね」


今はまだ、言えない。


けれど、この屋敷には何かがある。


そしてきっと、僕はそれを見つけるためにここへ来たのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ