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こもれび薬店と月の眠り  作者: Yu


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第6話:こもれび号、初めての旅

出発の朝、ミストレアには薄い霧が残っていた。


小川の水音が、いつもより近く聞こえる。町の屋根は白く霞み、こもれび薬店の看板も、やわらかな朝の空気の中で少しぼやけて見えた。


僕はこもれび号の前に立ち、深呼吸した。


木製の素朴な馬車。扉の横には、小さな月の紋章。外から見れば、少し大きめの旅商人の馬車に見えるかもしれない。


でも、今日からこれは僕の出張店舗になる。


「忘れ物は?」


母さんが尋ねる。


「薬草、茶葉、基本薬、調合道具、香油の瓶、保存食、スープの素、蜂蜜菓子」


「ノエル用のお菓子は?」


「……入れた」


「よろしい」


母さんは満足そうにうなずいた。


父さんはこもれび号の車輪を確認している。昔から使われている馬車だが、手入れは行き届いていた。木枠には細かな魔法式が刻まれ、車内の空間拡張や揺れの軽減を支えている。


「道中、急がなくていい」


父さんが言った。


「セレスティア領までは一日半ほどかかる。今日は途中の宿場で休むといい。疲れたまま患者を診ると、自分の感覚も鈍るからね」


「うん」


「それと、貴族の屋敷だからといって、必要以上にかしこまらなくていい。丁寧に、でもいつものノエルでいなさい」


「いつもの僕で大丈夫かな」


父さんは少し笑った。


「その依頼は、こもれび薬店のノエルに届いたんだろう?」


その言葉で、胸が少し温かくなった。


こもれび薬店のノエル。


僕はもう、前世で疲れ切っていた誰かではない。ここで育ち、薬草を覚え、お茶を淹れ、ノルと出会い、人の話を聞くことを学んだ。


その僕に、依頼が届いた。


「行ってきます」


僕が言うと、母さんが僕を軽く抱きしめた。


「無理はしないこと。ちゃんと食べること。寝ること。困ったら手紙を出すこと」


「分かった」


「あと、蜂蜜菓子は一日二つまで」


「それはノルに言って」


足元のノルが、聞こえないふりをした。


父さんと母さんに見送られ、こもれび号はゆっくりと動き出した。


馬を引くのは、店で昔から世話をしている穏やかな栗毛の馬、リッカだ。ノルは馬車の横を歩き、ミルはなぜか最初から車内のカウンターに座っていた。


「ミル、いつ乗ったの?」


「出発前からだよ」


「見なかったけど」


「見つからないように乗ったからね」


「それは堂々と言うこと?」


「猫は堂々と忍び込むものだ」


意味は分からないが、ミルは自信満々だった。


町の出口を抜けると、道はゆるやかな丘へ続いた。振り返ると、ミストレアの屋根と、こもれび薬店の看板が小さく見える。


帰る場所が、少しずつ遠くなる。


でも、不思議と寂しさだけではなかった。


胸の奥には、前世で失くしたと思っていた感覚があった。


知らない場所へ向かう静かな高揚。


旅が好きだった。


目的地を詰め込みすぎず、急ぎすぎず、知らない道をただ眺める時間が好きだった。前世では、いつの間にかそんな時間もなくなっていた。


仕事の予定、誰かからの連絡、次の対応。どこへ行っても、頭の中だけは休めなかった。


でも今、こもれび号の窓から見える景色は、ただ景色としてそこにある。


新緑の丘。遠くの森。朝露の残る草。空を横切る鳥。


僕はそれを、急がずに見ていられる。


「顔がゆるんでいるね」


カウンターの上からミルが言った。


「そう?」


「実に分かりやすい。旅が好きなのかい?」


「うん。前から好きだったんだと思う」


「思う?」


「前世では、好きだったこともよく分からなくなっていたから」


そう言うと、ミルは少し黙った。


皮肉が返ってくると思ったけれど、ミルは窓の外を見ただけだった。


「なら、今回は忘れないことだね」


「うん」


「誰かを助けに行く旅でも、君の旅であることに変わりはない」


その言葉は、思ったより深く胸に残った。


こもれび号の中は、外から見た大きさよりずっと広い。入口近くには接客用の小さなカウンターがあり、旅先でもお茶や薬を出せるようになっている。壁には薬草棚があり、揺れても瓶が落ちないよう魔法の留め具がついている。


奥には小さな調理台。スープを作る鍋、湯を沸かす魔道具、焼き菓子を温める小さな炉。天井近くには丸い小窓があり、夜になると月明かりをまっすぐ取り込める。


そして隅には、ノル用の広い敷物。


今はノルが外を歩いているので空いているが、ミルがそこを見て不満そうにしていた。


「やはり広すぎる」


「ノルは大きいから」


「私は月の使いだよ。私用の場所は?」


「カウンターの上にいるじゃない」


「ここは私が選んだ場所であって、君が用意した場所ではない」


「今度、小さなクッションでも置くよ」


ミルは少し考えたあと、そっぽを向いた。


「悪くない」


気に入ったらしい。


昼過ぎ、僕たちは小さな野原で休憩を取った。


リッカに水を飲ませ、ノルには持ってきた干し肉を少し。僕は母さんが持たせてくれた保存パンとスープを温めた。


こもれび号のカウンターで食べる昼食は、思っていたより落ち着いた。


窓の外では、ノルが草の上に伏せている。ミルは小皿の前で、出されたミルクを品定めするように見ていた。


「飲まないの?」


「温度を見ている」


「猫舌?」


「違う。月の使いは繊細なんだ」


「猫舌なんだね」


ミルは返事をしなかった。


午後になると、道は少しずつ広くなった。王都方面へ向かう街道に近づいているのだろう。荷馬車や旅人の姿も増えた。


途中、小さな宿場町を通った時、こもれび号の看板を見た旅人が声をかけてきた。


「薬屋さんかい? 胃にやさしいお茶はあるかな」


初めての、出張先ではない場所での小さな接客だった。


僕は少し緊張しながらも、こもれび号のカウンターを開いた。旅人は干し肉ばかり食べて胃が重いと言う。


強い薬を出すほどではない。


僕は胃休め茶を薄めに淹れ、母さんの保存パンを少し添えた。


「ゆっくり飲んでください。熱いうちに急ぐと、余計に胃が驚きます」


旅人は笑って、カウンターの前の折りたたみ椅子に腰かけた。


「若いのに、言うことが薬師みたいだ」


「薬師見習いなので」


「そりゃそうか」


旅人はお茶を飲み、しばらくして顔をほころばせた。


「いいね。体が落ち着く」


その言葉に、僕も少し安心した。


こもれび号は、ちゃんと店になれる。


どこへ行っても、誰かが少し休める場所になれるのかもしれない。


夕方、僕たちは父さんに言われた宿場町で一泊した。


宿の裏庭にこもれび号を停め、ノルは馬車の中の敷物で丸くなった。ミルは約束通り、小さな布を折っただけの即席クッションを与えられ、最初は文句を言ったものの、結局そこに収まった。


「まあ、悪くはない」


「気に入ったんだね」


「悪くはないと言った」


はいはい、と答えながら、僕は調合帳を開いた。


今日の旅のことを書き留める。


ミストレアを出たこと。こもれび号の揺れ。旅人に胃休め茶を出したこと。ミルが猫舌だったこと。


「最後の一文はいらない」


「見てたの?」


「失礼な記録が残されないか監視している」


「じゃあ、“ミルは繊細な温度管理を好む”にする」


「よろしい」


ノルが寝息を立てた。


穏やかな夜だった。


けれど、翌日の昼過ぎ、セレスティア領が近づくにつれて、空気は少しずつ変わっていった。


最初は、気のせいだと思った。


風が冷たい。光が薄い。草の色が少し沈んでいる。


でも、領地の境に近づいた時、胸の奥がわずかに重くなった。


体が疲れたわけではない。魔力が、周囲の何かに引っかかるような感覚。


ノルが足を止めた。


リッカも耳を動かし、少し落ち着かない様子を見せる。


ミルは窓辺に上がり、外を見た。


いつもの皮肉っぽい顔ではなかった。


「……やっぱり、少し薄いね」


「薄い?」


「月の気配だよ」


ミルは静かに言った。


「この土地には、月の光が届きにくくなっている」


僕はこもれび号の扉を開け、外へ降りた。


遠くに、セレスティア領の門が見える。石造りの上品な門。その向こうには、高台へ続く道と、白い屋敷の屋根が小さく見えた。


夢で見た屋敷だ。


胸の奥で、月明かりの記憶が揺れる。


眠れない少女。エリス。


僕は手綱を握り直した。


「行こう、ノル」


ノルは静かに僕の横へ並んだ。


ミルは窓からこちらを見下ろしている。


「無理はするなよ、ノエル」


その声は珍しく、からかう調子ではなかった。


「うん。分かってる」


本当に分かっているかは、自信がない。


それでも僕は、こもれび号とともにセレスティア領の門をくぐった。


空気の重さが、ほんの少しだけ増した気がした。


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