第5話:セレスティア領からの依頼
封書は、見た目からして普通の依頼状ではなかった。
厚手の紙はなめらかで、手に取るとわずかに冷たい。青灰色の封蝋には、細い月と星の紋章が押されている。ミストレアの町では、あまり見かけない上等なものだった。
「セレスティア領主家……」
父さんが封筒を見て、静かに名前を読み上げた。
母さんは厨房から顔を出し、少し目を丸くする。
「まあ。ずいぶん遠いところからね」
セレスティア領。
セレネア王国の中でも、王都に近い側にある貴族領だ。高台と庭園が美しい、魔力の流れが繊細な土地だと聞いたことがある。ミストレアのような田舎町とは、暮らしの空気もずいぶん違うはずだ。
僕は封書を開ける前から、胸の奥に夢の残りを感じていた。
月明かりの屋敷。眠れない少女。黒猫の影。
きっと、この手紙はあの夢とつながっている。
「開けてもいいかな」
僕がそう言うと、父さんはうなずいた。
「ノエル宛てだね」
封筒の表には、確かに「こもれび薬店 ノエル様」と書かれていた。
僕宛ての依頼状。
それだけで、指先が少し緊張する。
封を切ると、中には丁寧な筆跡の手紙が入っていた。差出人は、セレスティア領主家の執事。内容は、領主家の令嬢エリスの体調についてだった。
疲れやすく、魔力が不安定。季節の変わり目になると寝込むことが多かったが、最近は特に眠りが浅く、回復しづらくなっている。王都の薬師にも診てもらったが、大きな病ではないと言われるばかりで、根本的な改善には至っていない。
そして最後に、こう書かれていた。
――こもれび薬店の調合は、心身を穏やかに整えるものと伺っております。もし可能であれば、出張での見立てと調合をお願いできませんでしょうか。
僕は手紙を読み終え、しばらく黙っていた。
エリス。
夢の中の少女の名前を、初めて知った。
「夢の女の子?」
母さんが、僕の表情を見て言った。
「たぶん」
「そう」
母さんはそれ以上聞かず、僕の前に温かいお茶を置いた。
「まず飲みなさい。大きなことを考える時は、喉を潤してから」
「ありがとう」
カップを両手で包む。
白花草のお茶だった。母さんのこういうところは、いつも自然だ。
父さんは手紙を一度読ませてほしいと言い、丁寧に目を通した。
「症状だけを見るなら、強い薬で一時的に元気にするより、生活全体を整える方がよさそうだね」
「うん。夢の中でも、眠れていない感じだった。魔力も細かく震えていて……でも、エリスさんだけじゃなくて、屋敷全体が重かった気がする」
そう言うと、父さんの表情が少しだけ真剣になった。
「土地の魔力が関係している可能性もある」
「父さんもそう思う?」
「セレスティア領は魔力の流れが繊細な土地だと聞く。人によっては、その揺らぎを体に受けやすい」
父さんは手紙を置き、僕を見る。
「ノエルはどうしたい?」
どうしたい。
その問いは、簡単なようで難しかった。
前世の僕なら、どうすべきかを考えていたと思う。行くべきか。断るべきではないか。相手は貴族なのだから失礼がないように。自分にできるか分からなくても、期待に応えなければ。
でも父さんは、どうしたいかと聞いた。
僕はカップの中の湯気を見つめた。
夢の中のエリスは、眠っているのに苦しそうだった。助けてと言ったわけではない。それでも僕は、手を伸ばそうとした。
「行きたい」
口にすると、不思議と迷いが少し薄くなった。
「怖くないわけじゃないよ。貴族のお屋敷なんて慣れていないし、初めての出張だし、僕にどこまでできるかも分からない。でも、行かないと、たぶん気になって眠れない」
「それは大事な理由だね」
父さんは穏やかに言った。
母さんは腕を組んでうなずく。
「なら、準備しましょう。初めての出張なら、なおさらしっかりね」
その瞬間から、こもれび薬店は少し忙しくなった。
父さんは薬草棚から必要になりそうなものを選び始めた。眠り草、白花草、魔力草、胃にやさしい根、体を温める乾燥果実。強い薬よりも、状態を見ながら調整できる穏やかな素材が多い。
「貴族相手だからといって、強い薬を持って行けばいいわけじゃない」
父さんは小瓶を並べながら言った。
「むしろ、相手の体が弱っているなら、効きすぎるものは負担になる。まずは話を聞くこと。顔色を見ること。食べられる量、眠れる時間、魔力を使った後の疲れ方。焦らずにね」
「うん」
「それから、分からないことは分からないと言っていい。薬師にとって一番危ないのは、分かったふりをすることだから」
その言葉は、胸にまっすぐ入ってきた。
前世では、分からないと言うのが怖かった。できないと言うのも怖かった。頼られているのだから、応えなければならないと思っていた。
でも父さんは、分からないと言っていいと言う。
それは、僕にとって薬みたいな言葉だった。
母さんは厨房で、旅に持っていける食べ物を用意していた。
「消化にいいスープの素、蜂蜜菓子、薄く焼いた保存パン、それから林檎を煮詰めたもの。食欲がない人には、甘すぎないものがいいわね」
「そんなに持って行くの?」
「初出張でしょう。足りないよりいいわ」
「こもれび号が重くなるよ」
「こもれび号は中が広いから平気よ」
母さんは当然のように言った。
こもれび号。
こもれび薬店の出張用馬車だ。外から見れば、少し大きめの木製馬車にすぎない。でも中は魔法で広げられていて、小さなカウンター、調合棚、厨房、ノルが丸くなれる場所まである。
両親が若いころに使っていたものを、少しずつ手入れして今も大切にしている。
僕にとっては、いつか乗ってみたいと思っていた特別な場所だった。
それが明日、初めて僕の出張馬車になる。
胸が少し高鳴った。
同時に、不安もあった。
「ノエル」
母さんが僕の顔をのぞき込む。
「はい、考えすぎている顔」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすいわよ。あなた、悩むと薬草瓶のラベルを見つめるの」
見ていたらしい。
僕は苦笑した。
「失敗したらどうしようって思って」
「失敗しないように準備するのは大事。でも、失敗したら終わりだと思うのは、あまり体によくないわ」
母さんは蜂蜜菓子をひとつ、小皿に乗せて僕に差し出した。
「食べなさい」
「今?」
「今。甘いものは、不安で固くなった頭を少しほぐすの」
僕は言われるまま、蜂蜜菓子を口に入れた。
やさしい甘さが、ゆっくり広がる。
「……おいしい」
「でしょう?」
母さんは満足そうに笑った。
「ノエル。あなたはエリス様を完璧に治しに行くんじゃないの。まず会って、話を聞いて、少しでも楽になる方法を探しに行くのよ」
少しでも楽になる方法。
その言葉で、肩の力が抜けた。
そうだ。僕の癒やしは、一瞬で全てを治すものではない。
温める。緩める。眠れるようにする。食べられるようにする。少し息がしやすくなる。
それでいい。
少なくとも、最初は。
夕方、僕はこもれび号の確認をした。
木製の外装は、父さんが朝のうちに磨いてくれていた。扉の横には、小さな月の紋章が刻まれている。目立たないけれど、指でなぞるとほんのり温かい。
扉を開けると、中には外観からは想像できない広さの空間が広がっていた。
入口近くの小さな接客カウンター。壁際の薬草棚。奥の調理台。天井近くには、月明かりを取り込む丸い小窓。隅には、ノルが丸くなれる大きな敷物がある。
ノルは当然のように中へ入り、自分の場所に伏せた。
「まだ出発してないよ」
僕が言うと、ノルは目を閉じた。
準備万端、ということらしい。
「ずいぶん立派な寝床だね」
背後から声がした。
振り返ると、カウンターの上に黒猫が座っていた。
ミルだ。
「いつの間に」
「猫にそれを聞くのは野暮だよ」
「月の使いじゃなくて?」
「月の使いであり、猫でもある。便利だろう?」
ミルはしっぽを揺らし、こもれび号の中を見回した。
「悪くないね。少し薬草の匂いが強いが」
「薬屋の馬車だからね」
「それもそうだ」
ノルが片目を開けてミルを見る。ミルはノルの敷物を見て、少しだけ眉をひそめたような顔をした。
「しかし、この犬の場所が広すぎないかい?」
ノルは聞こえないふりをした。
「聞いているのかい?」
ノルはしっぽだけを一度揺らした。
「その反応が一番腹立たしいんだ」
僕は思わず笑った。
不安はまだある。けれど、ノルがいて、ミルがいて、父さんと母さんが準備を手伝ってくれている。
ひとりで行くわけじゃない。
それに気づくと、胸の奥にあった固いものが、少しだけほどけた。
夜、出発前の荷物を整え終えると、父さんが小さな革袋を渡してくれた。
中には、父さんの調合した基本薬が入っている。
「困った時に使いなさい。でも、使う前に相手を見ること」
「うん」
母さんは布に包んだ焼き菓子を渡してくれた。
「これはエリス様用。こっちはノエル用。間違えないでね」
「僕用まで?」
「当たり前でしょう。あなた、自分の分を後回しにするから」
ミルが横から口を挟む。
「実に正しい判断だね」
「ミルまで」
「私は賢いからね」
ノルが小さく鼻を鳴らした。
たぶん、笑ったのだと思う。
僕は荷物を抱えながら、店の中を見回した。
こもれび薬店。
僕の帰る場所。
ここから出て、誰かのところへ向かう。そしてまた戻ってくる。
前世では、帰る場所があっても、心はずっと仕事の中に残っていた。どこへ行っても休まらなかった。
でも今は違う。
僕には、帰ってきたい場所がある。
「行ってきます」
まだ出発は明日の朝なのに、自然とその言葉が出た。
父さんと母さんは、少しだけ驚いたあと、同じように笑った。
「行ってらっしゃい、ノエル」
翌朝、僕はこもれび号の鍵を手に取った。
月の紋章が、朝の光の中でほんの少しだけ光った。
初めての出張が、始まる。




