第4話:月の夢と黒猫
その夜、ミストレアには薄い霧が降りていた。
小川の音はいつもより遠く、町の灯りも白くぼやけて見える。こもれび薬店の二階にある僕の部屋にも、霧に濡れた月明かりが静かに差し込んでいた。
眠る前、僕は調合帳を開いた。
昨日見た夢のことを書き留めるためだ。
月明かりの屋敷。眠れない少女。銀色の葉。黒猫の影。
文字にしても、やっぱり夢は夢のままだった。けれど、胸の奥に残る感覚だけは、現実のものみたいにはっきりしている。
「困っている人がいる」
声に出すと、部屋の隅で寝ていたノルが片耳を動かした。
「でも、どこの誰かも分からないんだよね」
ノルは目を開け、静かに僕を見た。
その目を見ると、焦らなくていいと言われている気がする。
僕は調合帳を閉じ、灯りを消した。
窓の外には、薄い月。霧の向こうに滲むその光を見ているうちに、まぶたが少しずつ重くなる。
そして、また夢を見た。
今度は、前よりもはっきりしていた。
白い壁の屋敷が、月明かりの下に立っている。庭には背の低い植え込みが並び、細い道が建物の奥へ続いていた。夜なのに、空気は妙に冷たく重い。
僕は屋敷の中にいた。
長い廊下。磨かれた床。壁に掛けられた古い絵。窓の外には、銀色の葉を持つ木が見える。
廊下の奥から、かすかな呼吸音が聞こえた。
僕は音の方へ歩いた。
扉が少しだけ開いている。
中には、白い寝台があった。
少女が眠っている。
長い髪は月の光を受けて淡く輝き、顔立ちは整っていた。けれど、その表情は穏やかではない。眉間に薄くしわが寄り、指先は布を握りしめている。
眠っているのに、休めていない。
その周りで、魔力が細かく震えていた。
水面に落ちる雨粒のように、乱れて、重なって、また乱れる。
僕は胸元を押さえた。
苦しい。
これは僕の苦しさではない。少女のものでも、完全にはない。もっと広く、屋敷全体から、土地そのものから滲み出ているような重さだった。
窓辺には、小さな鉢植えが置かれている。
白い花の蕾がついていた。けれど、花は開いていない。葉の先は少しだけ黒ずみ、土は乾いていないのに、どこか生気が薄い。
僕はその鉢へ手を伸ばした。
触れた瞬間、冷たい月光が指先を通って胸へ落ちた。
――忘れられている。
誰の声でもない言葉が、頭の奥に響いた。
何が、と聞く前に、廊下の向こうで小さな足音がした。
こつり。
こつり。
猫の足音にしては、ずいぶんはっきりしている。
振り返ると、黒猫がいた。
夢の中で見た影よりも、今度は輪郭がはっきりしていた。つややかな黒い毛並み、細い尾、金色の目。猫は廊下の真ん中に座り、僕を見上げている。
「君は……」
僕が声を出すと、黒猫は目を細めた。
次の瞬間、屋敷の窓の外で月明かりが強くなった。
床に落ちた光が、道のように伸びる。
黒猫はその光の上を歩き出した。
ついてこい、ということだろうか。
僕は少女を振り返った。
彼女の呼吸は浅いままだ。けれど、僕には何もできない。ここは夢で、僕の手はまだ届かない。
黒猫が廊下の先で止まり、振り返る。
急かしているようにも、呆れているようにも見えた。
僕は黒猫の後を追った。
屋敷を出ると、庭の奥へ続く細い道があった。草は整えられているのに、どこか色が薄い。花壇の花も、咲いてはいるけれど元気がない。
道の先には、小さな森が見えた。
その奥に、何かがある。
月明かりがそこだけ弱く、霞んでいる。
黒猫は森の入口で止まり、しっぽをゆっくり揺らした。
「そこに、行けばいいの?」
問いかけると、黒猫は何も答えなかった。
ただ、金色の目で僕を見た。
その目が、少しだけ優しく見えたのは、気のせいだったかもしれない。
風が吹いた。
霧が濃くなり、屋敷も庭も黒猫も、月明かりの中でほどけていく。
目を覚ますと、部屋の中は暗かった。
窓の外には月がある。
そして、僕の枕元に、黒猫がいた。
「……え」
思わず声が漏れた。
黒猫は当たり前のように座っていた。夢の中と同じ、艶のある黒い毛並み。金色の目。細い尾。
僕が体を起こすと、黒猫は退屈そうにあくびをした。
「ずいぶん寝起きが悪いね」
声がした。
猫の口が動いた、ように見えた。
僕は数秒、何も言えなかった。
「……喋った?」
「喋ったとも。聞こえなかったのなら、君の耳か理解力のどちらかに問題がある」
黒猫はさらりと言った。
僕は布団の上で固まった。
部屋の隅で寝ていたノルが、ゆっくりと顔を上げる。けれど、不思議なことに吠えない。驚いてもいない。ただ、黒猫を見て、ふす、と鼻を鳴らした。
黒猫はノルをちらりと見た。
「久しぶり、と言うべきかな。君は相変わらず大きいね」
ノルは返事の代わりに、また頭を床へ戻した。
「知り合いなの?」
僕が聞くと、黒猫はしっぽを揺らした。
「さあ。犬に知り合いという概念があるかは知らないね」
「あると思うけど」
「君は犬の弁護が早い」
黒猫は少しだけ楽しそうに目を細めた。
僕は深呼吸した。
夢の黒猫が、現実の枕元にいる。しかも喋る。普通ならもっと慌てるべきなのかもしれない。
けれど、不思議と怖くはなかった。
月明かりの中にいるその黒猫からは、あの最後の夜に聞いた声と同じ、静かな気配がしたからだ。
「君は、月の神様の使い?」
黒猫は少しだけ目を開いた。
「思ったより話が早い」
「夢に出てきたから」
「夢に出ても分からない者は分からないよ。君は鈍いようで、たまに妙なところだけ察しがいい」
褒められているのか、そうでないのか分からない。
「名前は?」
「ミル」
黒猫は短く答えた。
「月の神様の使い、ミル。そう呼べばいい。敬意を込めても構わないよ」
「じゃあ、ミル」
「敬意は?」
「これから考える」
ミルは不満そうに耳を動かした。
その仕草があまりに猫らしくて、少しだけ緊張が解けた。
「夢の女の子は誰?」
僕が尋ねると、ミルは窓の外へ視線を向けた。
「君が会うべき相手だよ」
「どこにいるの?」
「それを全部私が言ったら、君は考えなくなるだろう」
「考えるための材料くらいは欲しいんだけど」
「明日の朝、届く」
ミルはそれだけ言った。
「届く?」
「依頼だよ。君の店に」
胸が小さく鳴った。
やっぱり、あれはただの夢じゃない。
「僕は、行かなきゃいけないの?」
自分で聞いて、少し驚いた。
行きたくないわけではない。けれど、まだ分からないことだらけだった。相手は貴族かもしれない。土地も知らない。僕は本格的な出張なんてしたことがない。
ミルはそんな僕を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「行くかどうかは君が決めることだよ」
意外な言葉だった。
「月は道を照らす。けれど、その道を歩く足までは動かさない」
「……断ってもいいの?」
「もちろん。君はもう、誰かに命じられて動くためにここへ来たわけではないからね」
その言葉に、胸の奥が静かになった。
前世では、頼まれることと命じられることの境目が、いつの間にか曖昧になっていた。断れない。休めない。応えなければならない。そう思い込んでいた。
けれど今は、選んでいい。
その自由が、少し怖くて、少し温かかった。
「ただし」
ミルが続けた。
「君はたぶん、行くと言う」
「どうして?」
「夢の中で、あの子に手を伸ばそうとしていたから」
僕は言葉に詰まった。
確かにそうだった。
届かないと分かっていても、手を伸ばした。
眠れない少女の姿を見て、昔の自分に似ていると思ってしまったから。
ミルは窓枠へ軽く飛び乗った。
「無理をしろとは言わない。むしろ、無理をしたら止める。私はそういう役目も持っている」
「止める?」
「君は放っておくと、人の荷物まで抱える顔をしている」
「そんな顔、してる?」
「しているとも。実に危なっかしい」
ミルは偉そうに言って、しっぽを揺らした。
ノルが小さく鼻を鳴らす。
まるで同意しているみたいだった。
「ノルまで?」
ノルは目をそらした。
「……分かったよ。気をつける」
僕がそう言うと、ミルは満足そうにうなずいた。
「よろしい」
その時、窓の外の月明かりがふっと薄くなった。
ミルの姿も、少しだけ影に溶けるように見えた。
「もう行くの?」
「猫は気まぐれだからね」
「月の使いじゃなかった?」
「両立する」
ミルは窓から外へ跳び出した。
けれど落ちることはなく、月明かりの上を歩くように、屋根の方へ消えていく。
最後に、声だけが残った。
「明日の朝、依頼状を読みなさい。そこから先は、君が決める」
部屋は静かになった。
ノルが立ち上がり、僕のそばへ来て座る。大きな体を寄せられると、布団の端が少し沈んだ。
僕はノルの首元に手を置いた。
あたたかい。
「行くことになるのかな」
ノルは答えない。
でも、その体温がそばにあるだけで、不思議と怖さは薄れていった。
翌朝、こもれび薬店の扉が開く前に、店先の鈴が鳴った。
郵便配達の少年が、一通の封書を持って立っていた。
厚手の紙。青灰色の封蝋。そこには、月と星をかたどった紋章が押されている。
差出人は、セレスティア領主家。
僕は封書を受け取った瞬間、夢の中で見た屋敷の月明かりを思い出した。
胸の奥で、静かに何かが始まる音がした。




