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こもれび薬店と月の眠り  作者: Yu


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4/10

第4話:月の夢と黒猫

その夜、ミストレアには薄い霧が降りていた。


小川の音はいつもより遠く、町の灯りも白くぼやけて見える。こもれび薬店の二階にある僕の部屋にも、霧に濡れた月明かりが静かに差し込んでいた。


眠る前、僕は調合帳を開いた。


昨日見た夢のことを書き留めるためだ。


月明かりの屋敷。眠れない少女。銀色の葉。黒猫の影。


文字にしても、やっぱり夢は夢のままだった。けれど、胸の奥に残る感覚だけは、現実のものみたいにはっきりしている。


「困っている人がいる」


声に出すと、部屋の隅で寝ていたノルが片耳を動かした。


「でも、どこの誰かも分からないんだよね」


ノルは目を開け、静かに僕を見た。


その目を見ると、焦らなくていいと言われている気がする。


僕は調合帳を閉じ、灯りを消した。


窓の外には、薄い月。霧の向こうに滲むその光を見ているうちに、まぶたが少しずつ重くなる。


そして、また夢を見た。


今度は、前よりもはっきりしていた。


白い壁の屋敷が、月明かりの下に立っている。庭には背の低い植え込みが並び、細い道が建物の奥へ続いていた。夜なのに、空気は妙に冷たく重い。


僕は屋敷の中にいた。


長い廊下。磨かれた床。壁に掛けられた古い絵。窓の外には、銀色の葉を持つ木が見える。


廊下の奥から、かすかな呼吸音が聞こえた。


僕は音の方へ歩いた。


扉が少しだけ開いている。


中には、白い寝台があった。


少女が眠っている。


長い髪は月の光を受けて淡く輝き、顔立ちは整っていた。けれど、その表情は穏やかではない。眉間に薄くしわが寄り、指先は布を握りしめている。


眠っているのに、休めていない。


その周りで、魔力が細かく震えていた。


水面に落ちる雨粒のように、乱れて、重なって、また乱れる。


僕は胸元を押さえた。


苦しい。


これは僕の苦しさではない。少女のものでも、完全にはない。もっと広く、屋敷全体から、土地そのものから滲み出ているような重さだった。


窓辺には、小さな鉢植えが置かれている。


白い花の蕾がついていた。けれど、花は開いていない。葉の先は少しだけ黒ずみ、土は乾いていないのに、どこか生気が薄い。


僕はその鉢へ手を伸ばした。


触れた瞬間、冷たい月光が指先を通って胸へ落ちた。


――忘れられている。


誰の声でもない言葉が、頭の奥に響いた。


何が、と聞く前に、廊下の向こうで小さな足音がした。


こつり。


こつり。


猫の足音にしては、ずいぶんはっきりしている。


振り返ると、黒猫がいた。


夢の中で見た影よりも、今度は輪郭がはっきりしていた。つややかな黒い毛並み、細い尾、金色の目。猫は廊下の真ん中に座り、僕を見上げている。


「君は……」


僕が声を出すと、黒猫は目を細めた。


次の瞬間、屋敷の窓の外で月明かりが強くなった。


床に落ちた光が、道のように伸びる。


黒猫はその光の上を歩き出した。


ついてこい、ということだろうか。


僕は少女を振り返った。


彼女の呼吸は浅いままだ。けれど、僕には何もできない。ここは夢で、僕の手はまだ届かない。


黒猫が廊下の先で止まり、振り返る。


急かしているようにも、呆れているようにも見えた。


僕は黒猫の後を追った。


屋敷を出ると、庭の奥へ続く細い道があった。草は整えられているのに、どこか色が薄い。花壇の花も、咲いてはいるけれど元気がない。


道の先には、小さな森が見えた。


その奥に、何かがある。


月明かりがそこだけ弱く、霞んでいる。


黒猫は森の入口で止まり、しっぽをゆっくり揺らした。


「そこに、行けばいいの?」


問いかけると、黒猫は何も答えなかった。


ただ、金色の目で僕を見た。


その目が、少しだけ優しく見えたのは、気のせいだったかもしれない。


風が吹いた。


霧が濃くなり、屋敷も庭も黒猫も、月明かりの中でほどけていく。


目を覚ますと、部屋の中は暗かった。


窓の外には月がある。


そして、僕の枕元に、黒猫がいた。


「……え」


思わず声が漏れた。


黒猫は当たり前のように座っていた。夢の中と同じ、艶のある黒い毛並み。金色の目。細い尾。


僕が体を起こすと、黒猫は退屈そうにあくびをした。


「ずいぶん寝起きが悪いね」


声がした。


猫の口が動いた、ように見えた。


僕は数秒、何も言えなかった。


「……喋った?」


「喋ったとも。聞こえなかったのなら、君の耳か理解力のどちらかに問題がある」


黒猫はさらりと言った。


僕は布団の上で固まった。


部屋の隅で寝ていたノルが、ゆっくりと顔を上げる。けれど、不思議なことに吠えない。驚いてもいない。ただ、黒猫を見て、ふす、と鼻を鳴らした。


黒猫はノルをちらりと見た。


「久しぶり、と言うべきかな。君は相変わらず大きいね」


ノルは返事の代わりに、また頭を床へ戻した。


「知り合いなの?」


僕が聞くと、黒猫はしっぽを揺らした。


「さあ。犬に知り合いという概念があるかは知らないね」


「あると思うけど」


「君は犬の弁護が早い」


黒猫は少しだけ楽しそうに目を細めた。


僕は深呼吸した。


夢の黒猫が、現実の枕元にいる。しかも喋る。普通ならもっと慌てるべきなのかもしれない。


けれど、不思議と怖くはなかった。


月明かりの中にいるその黒猫からは、あの最後の夜に聞いた声と同じ、静かな気配がしたからだ。


「君は、月の神様の使い?」


黒猫は少しだけ目を開いた。


「思ったより話が早い」


「夢に出てきたから」


「夢に出ても分からない者は分からないよ。君は鈍いようで、たまに妙なところだけ察しがいい」


褒められているのか、そうでないのか分からない。


「名前は?」


「ミル」


黒猫は短く答えた。


「月の神様の使い、ミル。そう呼べばいい。敬意を込めても構わないよ」


「じゃあ、ミル」


「敬意は?」


「これから考える」


ミルは不満そうに耳を動かした。


その仕草があまりに猫らしくて、少しだけ緊張が解けた。


「夢の女の子は誰?」


僕が尋ねると、ミルは窓の外へ視線を向けた。


「君が会うべき相手だよ」


「どこにいるの?」


「それを全部私が言ったら、君は考えなくなるだろう」


「考えるための材料くらいは欲しいんだけど」


「明日の朝、届く」


ミルはそれだけ言った。


「届く?」


「依頼だよ。君の店に」


胸が小さく鳴った。


やっぱり、あれはただの夢じゃない。


「僕は、行かなきゃいけないの?」


自分で聞いて、少し驚いた。


行きたくないわけではない。けれど、まだ分からないことだらけだった。相手は貴族かもしれない。土地も知らない。僕は本格的な出張なんてしたことがない。


ミルはそんな僕を見て、少しだけ声を柔らかくした。


「行くかどうかは君が決めることだよ」


意外な言葉だった。


「月は道を照らす。けれど、その道を歩く足までは動かさない」


「……断ってもいいの?」


「もちろん。君はもう、誰かに命じられて動くためにここへ来たわけではないからね」


その言葉に、胸の奥が静かになった。


前世では、頼まれることと命じられることの境目が、いつの間にか曖昧になっていた。断れない。休めない。応えなければならない。そう思い込んでいた。


けれど今は、選んでいい。


その自由が、少し怖くて、少し温かかった。


「ただし」


ミルが続けた。


「君はたぶん、行くと言う」


「どうして?」


「夢の中で、あの子に手を伸ばそうとしていたから」


僕は言葉に詰まった。


確かにそうだった。


届かないと分かっていても、手を伸ばした。


眠れない少女の姿を見て、昔の自分に似ていると思ってしまったから。


ミルは窓枠へ軽く飛び乗った。


「無理をしろとは言わない。むしろ、無理をしたら止める。私はそういう役目も持っている」


「止める?」


「君は放っておくと、人の荷物まで抱える顔をしている」


「そんな顔、してる?」


「しているとも。実に危なっかしい」


ミルは偉そうに言って、しっぽを揺らした。


ノルが小さく鼻を鳴らす。


まるで同意しているみたいだった。


「ノルまで?」


ノルは目をそらした。


「……分かったよ。気をつける」


僕がそう言うと、ミルは満足そうにうなずいた。


「よろしい」


その時、窓の外の月明かりがふっと薄くなった。


ミルの姿も、少しだけ影に溶けるように見えた。


「もう行くの?」


「猫は気まぐれだからね」


「月の使いじゃなかった?」


「両立する」


ミルは窓から外へ跳び出した。


けれど落ちることはなく、月明かりの上を歩くように、屋根の方へ消えていく。


最後に、声だけが残った。


「明日の朝、依頼状を読みなさい。そこから先は、君が決める」


部屋は静かになった。


ノルが立ち上がり、僕のそばへ来て座る。大きな体を寄せられると、布団の端が少し沈んだ。


僕はノルの首元に手を置いた。


あたたかい。


「行くことになるのかな」


ノルは答えない。


でも、その体温がそばにあるだけで、不思議と怖さは薄れていった。


翌朝、こもれび薬店の扉が開く前に、店先の鈴が鳴った。


郵便配達の少年が、一通の封書を持って立っていた。


厚手の紙。青灰色の封蝋。そこには、月と星をかたどった紋章が押されている。


差出人は、セレスティア領主家。


僕は封書を受け取った瞬間、夢の中で見た屋敷の月明かりを思い出した。


胸の奥で、静かに何かが始まる音がした。


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