第3話:森で拾った月の犬
昼前のこもれび薬店は、少しだけ静かだった。
朝から続いた来客が落ち着き、父さんは薬室で調合をしている。母さんは厨房で、午後用の焼き菓子を冷ましていた。僕は店先の椅子に腰かけ、乾かした薬草を束ねながら、足元で眠るノルを見下ろしていた。
大きな白い体が、ゆっくり上下している。
こうして見ると、ノルは本当にただの大きな犬にしか見えない。人懐っこくて、よく眠って、子どもに撫でられるのが好きで、蜂蜜菓子を少しだけもらえる日を覚えている。
けれど、月夜には違う。
満月の光を浴びたノルの毛並みは、時々、薄い銀色に光る。初めてそれを見た夜のことを、僕は今でも覚えている。
ノルと出会ったのは、僕がまだ、薬草の名前を覚え始めたばかりのころだった。
その日は朝から霧が濃く、ミストレアの町全体が白い布に包まれたようになっていた。父さんは、森の浅い場所なら危なくないと言って、僕を薬草摘みに連れていってくれた。
森の入口には、小さな小川が流れている。水音は細く、木々の間を抜ける風はひんやりしていた。父さんは足元の草を指差しながら、ひとつひとつ名前と使い方を教えてくれた。
「これは白花草。乾かしてお茶にすると、気持ちを落ち着ける助けになる」
「こっちは?」
「薄荷草だね。香りが強いから、使いすぎると体が驚いてしまう。薬草は、たくさん使えばいいというものではないんだ」
父さんの言葉を聞きながら、僕は小さな籠に薬草を入れていった。
その時だった。
森の奥から、かすかな音がした。
枝が折れる音でも、鳥が飛び立つ音でもない。もっと小さくて、弱い音。息を吐くような、低い声。
「父さん」
僕が袖を引くと、父さんもすぐに気づいたらしい。表情を少しだけ引き締めて、音の方へ歩き出した。
茂みをかき分けた先に、白い犬が倒れていた。
いや、その時の僕には、犬なのか狼なのかも分からなかった。ただ、大きな白い生き物が、濡れた土の上に横たわっていた。毛は泥で汚れ、前足には傷があり、息は浅い。
それでも、目だけは開いていた。
銀色に近い、静かな目。
僕を見るその目は、助けを求めているようにも、もう諦めているようにも見えた。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
「父さん、助けたい」
僕は、考えるより先にそう言っていた。
父さんはすぐには答えなかった。白い犬のそばに膝をつき、傷を見て、呼吸を確かめる。
「危険な魔物ではなさそうだ。ただ、かなり弱っている」
「助かる?」
「助けよう」
その短い言葉に、僕は大きくうなずいた。
父さんは犬を布でくるみ、僕は籠を抱えて走った。店に戻ると、母さんが驚いて厨房から飛び出してきた。
「まあ……!」
けれど、母さんはすぐに表情を変えた。怖がるのではなく、やるべきことを探す顔になった。
「温かい布と、薄いスープね。ノエル、火を見ていて。セルジュ、傷薬は?」
「薬室にある。消毒用の白花酒も頼む」
それから数日は、店全体が白い犬のために動いていた。
父さんは傷の手当てをし、母さんは消化に優しいスープを作った。僕は水を替え、布を温め、眠っている犬のそばに座った。
最初の夜、犬はほとんど動かなかった。
僕は怖くなって、何度も呼吸を確かめた。小さく上下する胸を見るたび、まだ生きていると分かって、少しだけ安心した。
「大丈夫。ここはあったかいよ」
僕がそう言うと、犬の耳がほんの少し動いた。
二日目には、水を少し飲めるようになった。
三日目には、母さんの作ったスープを舐めた。
五日目には、僕が近づくと目で追うようになった。
一週間ほど経った朝、犬は初めて自分の足で立ち上がった。
ふらつきながらも、確かに立っていた。
僕は嬉しくて、思わずその首に抱きついた。白い毛はまだ少しごわごわしていたけれど、あたたかかった。
「よかった……」
犬は僕の頬を一度だけ舐めた。
それが、ノルの最初の返事だった。
名前を決める時、母さんはいくつか可愛い名前を出した。父さんは少し神話めいた名前を提案した。けれど、僕の口から出てきたのは、ただ短い響きだった。
「ノル」
呼ぶと、白い犬は顔を上げた。
もう決まりだった。
ノルは、こもれび薬店にすぐ馴染んだ。
店先で眠り、子どもに撫でられ、母さんの焼き菓子の匂いに反応し、父さんが夜遅くまで調合していると薬室の前で丸くなる。僕が薬草を干していると、風で飛ばないように見張ってくれているつもりなのか、近くでじっと座っていた。
ただ、不思議なことが一つあった。
満月の夜、ノルの毛並みが淡く光ったのだ。
その夜、僕は眠れずに店の裏庭へ出た。白い月が、雲ひとつない空に浮かんでいた。ノルは庭の真ん中に座り、月を見上げていた。
その背中が、うっすら銀色に光っていた。
強い光ではない。まるで、月明かりが毛の奥に染み込んでいるような、やさしい光だった。
「ノル……?」
僕が呼ぶと、ノルは振り返った。
その目も、月を映したように静かに光っていた。
怖くはなかった。
むしろ、ひどく懐かしい気がした。
あの最後の夜。前世で、月の神様の声を聞いた時と同じような静けさが、そこにあった。
翌朝、父さんに話すと、父さんは少し考えてから言った。
「月の加護を受けた生き物なのかもしれないね」
「月の加護?」
「この国では、月の神様が疲れたもの、迷ったもの、眠れないものに静かな光を与えると言われている。ノルも、何かの理由でその光に触れたのかもしれない」
「じゃあ、ノルは特別なの?」
「特別かもしれない。でも、まずはノルはノルだよ」
父さんはそう言って、僕の頭を撫でた。
「不思議だからといって、全部を急いで知ろうとしなくていい。一緒に暮らしながら、分かることもある」
その言葉通り、僕たちはノルを特別扱いしすぎなかった。
ノルはノルだ。
大きくて、あたたかくて、少し食いしん坊で、僕が無理をしようとすると、なぜか前足で止めてくる白い犬。
それだけで、十分だった。
「ノル」
現在に戻って、僕は足元の白い毛を撫でた。
ノルは気持ちよさそうに目を細める。
「僕が助けたつもりだったけど、本当は僕も、ずっと助けられているのかもしれないね」
ノルは返事の代わりに、僕の手に鼻先を押し当てた。
夕方が近づくころ、店先に薄い影が差した。
見上げると、黒猫が石垣の上に座っていた。
昨日も見た、あの黒猫だ。
金色の目が、まっすぐこちらを見ている。
ノルがゆっくりと立ち上がった。
けれど吠えない。警戒もしていない。ただ、黒猫を見つめている。
まるで、ずっと前から知っていた相手を見るように。
黒猫はしっぽを一度だけ揺らした。
その仕草が、なぜかひどく人間くさかった。
そして次の瞬間、黒猫は屋根の上へ軽く跳び、夕暮れの影に溶けるように姿を消した。
ノルはしばらく屋根を見上げていた。
その白い毛が、まだ月も出ていないのに、ほんの少しだけ光ったように見えた。
僕は胸の奥に、小さな予感が灯るのを感じた。
きっと、昨日の夢はまだ終わっていない。
そしてノルは、僕より先にそれを知っている。




