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こもれび薬店と月の眠り  作者: Yu


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2/10

第2話:こもれび薬店の一日

朝になっても、夢の感触は少しだけ残っていた。


知らない屋敷。

月明かりの窓辺。

眠れていない少女。

そして、屋根の上を歩いていた黒猫の影。


目を覚ましたあとも、その光景は水に溶けきらない蜂蜜みたいに、胸の奥にゆっくり沈んでいた。


「……ただの夢、ではなさそうなんだよね」


僕が小さくつぶやくと、店先で丸くなっていたノルが、片目だけを開けた。


朝のこもれび薬店は、今日もいつも通りだった。

小川の向こうから薄い霧が流れてきて、町の屋根を白くなでている。開け放した窓からは、湿った草の匂いと、母さんが焼いているパンの香りが混ざって入ってきた。


ノルは僕の言葉を聞いたのか聞いていないのか、ふす、と鼻を鳴らしただけで、また目を閉じる。


「ノルはいいね。悩みがなさそうで」


そう言うと、ノルのしっぽが一度だけ揺れた。


違う、と言いたいのか。

それとも、悩みは寝てから考えればいい、と言いたいのか。


どちらにしても、ノルらしい。


「ノエル、開店前にお茶をお願いできる?」


奥の厨房から、母さん――ソフィアの声がした。


「うん。今淹れる」


僕は夢のことをいったん胸の奥へしまい、薬草棚の前に立った。


朝用のお茶は、香りを強くしすぎない。

白花草を少し。

薄荷草はほんのひとかけら。

それから、今日は小川沿いで採れた若葉草を混ぜることにした。


若葉草は、体を強く癒やす薬草ではない。

けれど、朝の重たい気分を少しだけ軽くしてくれる。


今日の僕には、たぶんそれが必要だった。


湯を注ぐと、淡い緑の香りがふわりと広がった。

それを吸い込んだだけで、胸の奥のざわつきが少し薄くなる。


「いい香りだね」


背後から父さん――セルジュの声がした。


振り返ると、父さんは薬室から出てきたところだった。手には、昨日の夜に調合していたらしい小瓶がいくつかある。


「おはよう、父さん」


「おはよう。今日は若葉草を入れた?」


「うん。少しだけ」


「いいね。今朝の霧には合っている」


父さんはそう言って、僕の淹れたお茶を受け取った。


父さんの言葉は、いつも少しだけ不思議だ。

薬草の効能だけでなく、その日の空気や、人の顔色まで見ている気がする。


「昨日、よく眠れなかった?」


父さんが、ふいにそう聞いた。


僕は少しだけ驚いた。


「……顔に出てる?」


「顔というより、お茶かな。いつもより、自分を落ち着かせる配合だ」


父さんは穏やかに笑った。


こういうところが、父さんらしい。


直接聞き出すのではなく、こちらが話せる場所だけをそっと空けてくれる。


「少し、変な夢を見たんだ」


僕はカウンターの布巾を整えながら言った。


「月明かりの屋敷と、眠れない女の子の夢」


父さんは急かさず、ただうなずいた。


「嫌な夢だった?」


「嫌ではなかったよ。ただ……誰かが困っている気がした」


「そうか」


父さんはそれ以上、深く聞かなかった。


その代わりに、温かいお茶を一口飲んでから、静かに言った。


「夢のことは、急いで意味を決めなくてもいい。けれど、忘れたくないなら、あとで調合帳の端にでも書いておくといいよ」


「うん。そうする」


前世では、気になることがあっても、立ち止まって考える時間なんてほとんどなかった。


通知。

電話。

頼まれごと。

次の締切。

誰かの機嫌。

誰かの期待。


考えるより先に、対応する。

疲れていても、止まらない。

止まれない。


でも父さんは、急がなくていいと言う。


それだけで、僕は少し息がしやすくなる。


「二人とも、朝食できたわよ」


母さんが木の盆を持って厨房から出てきた。

盆の上には、丸いパンと、野菜のスープ、それから小さな蜂蜜菓子が乗っている。


「ソフィア、朝から菓子まで?」


父さんが少し驚いたように言うと、母さんは胸を張った。


「昨日の生地が少し余ったの。余った生地をおいしくするのは、料理人の腕の見せどころでしょう?」


「料理人だったんだね、母さん」


僕が言うと、母さんはにこりと笑った。


「もちろんよ。薬店の厨房を預かる者は、半分薬師で、半分料理人なの」


「じゃあ、残りの半分は?」


「気合いね」


「割合がおかしいよ」


僕がそう言うと、父さんが静かに笑った。


この店では、朝食の時間も仕事の一部みたいなものだ。


母さんは料理で人を温める。

父さんは薬で人を整える。

僕はその両方を少しずつ教わっている。


食事を終えるころ、店先の小さな鈴が鳴った。


開店の時間より少し早い。


「おや、誰か来たようだね」


父さんが立ち上がる。


扉を開けると、そこにはパン屋のロイドさんが立っていた。

腰に手を当て、少し困ったような顔をしている。


「朝早くにすまないね、セルジュさん」


「おはようございます、ロイドさん。腰ですか?」


「分かるかい?」


「歩き方が少し」


父さんはそう言って、ロイドさんを椅子へ案内した。


こもれび薬店には、薬を買いに来る人だけでなく、少し休みに来る人も多い。

店の半分は薬棚で、もう半分は小さな喫茶スペースになっている。三つだけ並んだ木の席は、町の人たちにとって、薬を待つ場所でもあり、話をする場所でもあった。


「昨日、粉袋を運びすぎましてね」


ロイドさんが苦笑する。


「若い者に頼めばよかったんですが、つい自分で」


「つい、が一番腰に来ます」


父さんは穏やかに言った。


僕は奥から温かい布と、腰用の軟膏を用意する。


その時、ロイドさんの周りに、ぼんやりとした重さのようなものを感じた。

色で言うなら、くすんだ灰色。

香りで言うなら、冷めた鉄鍋みたいな鈍さ。


痛みそのものより、疲れが腰に溜まっている感じがする。


僕の力は、はっきりと答えを教えてくれるものではない。

この薬を使えば治る、と分かるわけでもない。

ただ、その人に必要なものの方向だけが、ぼんやりと浮かぶ。


温める。

緩める。

急がせない。


今日は、そんな感じだった。


「ロイドさん、お茶も淹れますね。少し体を温めるものにします」


「おお、ありがたい。ノエルくんのお茶は、飲むと体がほっとするからね」


そう言われて、僕は少し照れながら薬草棚に向かった。


選んだのは、温め草と白花草。

香りづけに、母さんが干していた林檎の皮を少し。


薬というほど強くない。

けれど、体がこわばっている人には、こういうお茶の方がいい時もある。


「腰痛に林檎かい?」


ロイドさんが面白そうに聞いた。


「薬効というより、気分です」


僕が答えると、父さんが小さくうなずいた。


「気分は大事ですよ、ロイドさん。痛いところがある時は、気持ちまで固くなりますから」


「なるほど。じゃあ、私は林檎に助けられるわけだ」


「林檎と、軟膏と、今日は重い袋を持たない決意に、です」


僕がそう言うと、ロイドさんは声を上げて笑った。


その笑い声を聞いて、店の空気が少し明るくなる。


こういう瞬間が好きだ。


薬が効くより前に、少しだけ顔がやわらぐ瞬間。

それだけで、人はもう回復の方へ歩き始めている気がする。


ロイドさんが帰ったあと、今度は若い母親が小さな子どもを連れてやって来た。


子どもは眠そうな目をこすっている。

母親の方も、目の下に薄い影があった。


「夜泣きが続いていて……この子も私も、あまり眠れていなくて」


母親は申し訳なさそうに言った。


母さんがすぐに席へ案内する。


「謝らなくていいのよ。眠れないのは、大変なことだもの」


その声があまりに自然で、母親の表情が少し崩れた。


ああ、と僕は思う。


この人に一番必要なのは、薬だけじゃない。

責められない場所だ。


僕は眠り草を手に取ったけれど、すぐに少し戻した。

強すぎるお茶はよくない。小さな子どももいるし、母親自身も疲れ切っている。


白花草を多めに。

眠り草は少しだけ。

香りは柔らかく、甘さは控えめ。


母さんは厨房から、温めたミルクに蜂蜜を少し溶かしたものを持ってきた。子ども用だ。


「飲めるかな?」


母さんが聞くと、子どもは小さくうなずいた。


ノルが、いつの間にか入口の横から席の近くへ移動していた。

大きな体で静かに伏せる。


子どもは最初、少し驚いた顔をした。

けれどノルがゆっくりとしっぽを揺らすと、おそるおそる手を伸ばした。


「さわってもいい?」


「ノルが嫌がらなければね」


僕がそう言うと、ノルは自分から少しだけ頭を近づけた。


子どもの小さな手が、白い毛に触れる。


「ふわふわ」


その声に、母親がようやく少し笑った。


薬草茶を出すと、母親は両手で包むようにカップを持った。

湯気が彼女の顔をやわらかく隠す。


「全部、ちゃんとしなきゃと思っていたんです」


ぽつりと、彼女が言った。


父さんは何も言わず、静かに聞いている。


「泣かせないように、家のことも遅れないように、周りに迷惑をかけないようにって。でも、眠れないと、何もかもできなくなって」


「眠れていない時に、全部をいつも通りにするのは難しいですよ」


父さんが言った。


「まずは、今夜少し眠ることを目標にしましょう。全部整えるのは、それからでいい」


母親は、カップを見つめたまま、小さくうなずいた。


僕はその横顔を見ながら、前世の自分を少し思い出していた。


全部ちゃんとしなければ。

頼まれたら応えなければ。

疲れていても、できるところまではやらなければ。


そうやって、自分に休む許可を出せなかった。


今なら分かる。

休むのにも、誰かの言葉が必要な時がある。


「お茶、眠る前に半分くらい飲んでください。残しても大丈夫です」


僕が言うと、母親は少し驚いた顔をした。


「残しても?」


「はい。薬草茶は、無理して全部飲むものじゃありません。体が受け取れる分だけで大丈夫です」


その言葉に、母親の肩がほんの少し下がった。


力が抜けたのだと思う。


昼を過ぎると、店は少し落ち着いた。


母さんは厨房で昼食の準備を始め、父さんは薬室で調合に戻った。僕はカウンターに座り、調合帳を開く。


父さんに言われた通り、昨夜の夢を書き留めることにした。


月明かりの屋敷。

眠れない少女。

銀色の葉。

黒猫の影。


文字にすると、夢は少しだけ輪郭を持った。


けれど、やっぱり意味は分からない。


「ノエル、難しい顔をしているわね」


母さんがスープ皿を持ってきた。


「夢のことを書いてた」


「怖い夢?」


「ううん。困っている人の夢」


母さんは僕の前にスープを置き、向かいの椅子に座った。


「ノエルは、困っている人を見ると放っておけないものね」


「そんなことは……」


言いかけて、止まる。


そんなことはない、と言うには、心当たりが多すぎた。


母さんはくすりと笑う。


「優しいのはいいことよ。でも、優しい人ほど、自分の疲れを後回しにするから」


その言葉に、僕は返事ができなかった。


母さんの声は明るい。

でも、こういう時だけ、少しだけ真剣になる。


「温かいうちに飲みなさい。人を癒やす人は、自分も温めておかないと」


「……うん」


スープは、野菜と鶏肉を柔らかく煮たものだった。

派手な味ではない。けれど、体の奥にゆっくり広がる。


母さんの料理は、薬みたいだと思う。

いや、たぶん薬も料理も、根っこは少し似ている。


誰かの体を思って、手をかける。

相手が受け取れる形にする。

強すぎず、足りなさすぎず。


それは、とても難しくて、優しい仕事だ。


午後になると、川辺で転んだ子どもが母親に連れられてきた。


膝をすりむいて、涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。


「いたい、いたいの」


「うん、痛かったね」


僕はしゃがんで、子どもの目線に合わせた。


「洗うと少ししみるけど、そのあと楽になるよ。がんばれる?」


子どもは首を横に振った。


正直でいい。


僕は少し考えてから、ノルを呼んだ。


「ノル、少しだけ手伝って」


ノルはゆっくり近づき、子どもの横に伏せた。

子どもは泣きながらも、ノルの毛をぎゅっとつかむ。


「ノルも見てるよ。終わったら、蜂蜜水を少しだけ出すね」


「……ほんと?」


「ほんと」


それでも傷を洗う時には、子どもは大きな声で泣いた。

でも逃げなかった。


母さんが蜂蜜水を用意し、父さんが軟膏を塗る。

僕は包帯を巻いた。


終わるころには、子どもはしゃくりあげながらも、ノルの背中にもたれていた。


「ノル、あったかい」


「そうだね。ノルは大きな毛布みたいだから」


「けがしたら、また来てもいい?」


「できれば、けがしないで来てほしいかな」


そう言うと、母親が笑った。


小さな笑い声。

それだけで、店の中は少し明るくなる。


夕方、最後のお客さんを見送ったあと、僕は店の外に出た。


小川の水面が、夕焼けの色を細く揺らしている。

ノルは店先で伸びをして、満足そうにあくびをした。


「今日は働いたね、ノル」


僕が言うと、ノルは胸を張るように座った。


確かに、今日はよく働いた。

主に、撫でられる仕事だけど。


店の扉を閉めようとした時だった。


視界の端を、黒いものが横切った。


猫だ。


黒猫が一匹、店の前の石垣に座っていた。


艶のある黒い毛並み。

細いしっぽ。

月が出るにはまだ早い時間なのに、その金色の目だけが、妙にはっきり光って見えた。


「……君、昨日の夢にいた?」


思わずそう言ってしまう。


黒猫は答えない。


ただ、こちらを見ている。

まるで、僕の方が何かを分かっていないと言いたげに。


ノルが低く鼻を鳴らした。


威嚇ではない。

けれど、ただの猫に向ける反応とも少し違った。


「ノル?」


僕が振り返った一瞬の間に、黒猫の姿は消えていた。


石垣の上には、何もない。

足音も、気配も残っていない。


ただ、ほんの少しだけ、夜の匂いがした。


まだ夕方なのに。


胸の奥で、昨夜の夢がまた静かに揺れた。


眠れない少女。

月明かりの屋敷。

黒猫の影。


僕は閉店後の扉に手をかけたまま、しばらくその石垣を見つめていた。


「……明日、また夢を見るのかな」


答えるように、ノルが僕の手に鼻先を押し当てた。


温かい。

重くて、やさしい。


僕はその頭を撫でながら、小さく息を吐いた。


こもれび薬店の一日は、いつも通りに終わった。

けれど、そのいつも通りの端に、知らない月明かりが少しだけ差し込み始めていた。


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