第2話:こもれび薬店の一日
朝になっても、夢の感触は少しだけ残っていた。
知らない屋敷。
月明かりの窓辺。
眠れていない少女。
そして、屋根の上を歩いていた黒猫の影。
目を覚ましたあとも、その光景は水に溶けきらない蜂蜜みたいに、胸の奥にゆっくり沈んでいた。
「……ただの夢、ではなさそうなんだよね」
僕が小さくつぶやくと、店先で丸くなっていたノルが、片目だけを開けた。
朝のこもれび薬店は、今日もいつも通りだった。
小川の向こうから薄い霧が流れてきて、町の屋根を白くなでている。開け放した窓からは、湿った草の匂いと、母さんが焼いているパンの香りが混ざって入ってきた。
ノルは僕の言葉を聞いたのか聞いていないのか、ふす、と鼻を鳴らしただけで、また目を閉じる。
「ノルはいいね。悩みがなさそうで」
そう言うと、ノルのしっぽが一度だけ揺れた。
違う、と言いたいのか。
それとも、悩みは寝てから考えればいい、と言いたいのか。
どちらにしても、ノルらしい。
「ノエル、開店前にお茶をお願いできる?」
奥の厨房から、母さん――ソフィアの声がした。
「うん。今淹れる」
僕は夢のことをいったん胸の奥へしまい、薬草棚の前に立った。
朝用のお茶は、香りを強くしすぎない。
白花草を少し。
薄荷草はほんのひとかけら。
それから、今日は小川沿いで採れた若葉草を混ぜることにした。
若葉草は、体を強く癒やす薬草ではない。
けれど、朝の重たい気分を少しだけ軽くしてくれる。
今日の僕には、たぶんそれが必要だった。
湯を注ぐと、淡い緑の香りがふわりと広がった。
それを吸い込んだだけで、胸の奥のざわつきが少し薄くなる。
「いい香りだね」
背後から父さん――セルジュの声がした。
振り返ると、父さんは薬室から出てきたところだった。手には、昨日の夜に調合していたらしい小瓶がいくつかある。
「おはよう、父さん」
「おはよう。今日は若葉草を入れた?」
「うん。少しだけ」
「いいね。今朝の霧には合っている」
父さんはそう言って、僕の淹れたお茶を受け取った。
父さんの言葉は、いつも少しだけ不思議だ。
薬草の効能だけでなく、その日の空気や、人の顔色まで見ている気がする。
「昨日、よく眠れなかった?」
父さんが、ふいにそう聞いた。
僕は少しだけ驚いた。
「……顔に出てる?」
「顔というより、お茶かな。いつもより、自分を落ち着かせる配合だ」
父さんは穏やかに笑った。
こういうところが、父さんらしい。
直接聞き出すのではなく、こちらが話せる場所だけをそっと空けてくれる。
「少し、変な夢を見たんだ」
僕はカウンターの布巾を整えながら言った。
「月明かりの屋敷と、眠れない女の子の夢」
父さんは急かさず、ただうなずいた。
「嫌な夢だった?」
「嫌ではなかったよ。ただ……誰かが困っている気がした」
「そうか」
父さんはそれ以上、深く聞かなかった。
その代わりに、温かいお茶を一口飲んでから、静かに言った。
「夢のことは、急いで意味を決めなくてもいい。けれど、忘れたくないなら、あとで調合帳の端にでも書いておくといいよ」
「うん。そうする」
前世では、気になることがあっても、立ち止まって考える時間なんてほとんどなかった。
通知。
電話。
頼まれごと。
次の締切。
誰かの機嫌。
誰かの期待。
考えるより先に、対応する。
疲れていても、止まらない。
止まれない。
でも父さんは、急がなくていいと言う。
それだけで、僕は少し息がしやすくなる。
「二人とも、朝食できたわよ」
母さんが木の盆を持って厨房から出てきた。
盆の上には、丸いパンと、野菜のスープ、それから小さな蜂蜜菓子が乗っている。
「ソフィア、朝から菓子まで?」
父さんが少し驚いたように言うと、母さんは胸を張った。
「昨日の生地が少し余ったの。余った生地をおいしくするのは、料理人の腕の見せどころでしょう?」
「料理人だったんだね、母さん」
僕が言うと、母さんはにこりと笑った。
「もちろんよ。薬店の厨房を預かる者は、半分薬師で、半分料理人なの」
「じゃあ、残りの半分は?」
「気合いね」
「割合がおかしいよ」
僕がそう言うと、父さんが静かに笑った。
この店では、朝食の時間も仕事の一部みたいなものだ。
母さんは料理で人を温める。
父さんは薬で人を整える。
僕はその両方を少しずつ教わっている。
食事を終えるころ、店先の小さな鈴が鳴った。
開店の時間より少し早い。
「おや、誰か来たようだね」
父さんが立ち上がる。
扉を開けると、そこにはパン屋のロイドさんが立っていた。
腰に手を当て、少し困ったような顔をしている。
「朝早くにすまないね、セルジュさん」
「おはようございます、ロイドさん。腰ですか?」
「分かるかい?」
「歩き方が少し」
父さんはそう言って、ロイドさんを椅子へ案内した。
こもれび薬店には、薬を買いに来る人だけでなく、少し休みに来る人も多い。
店の半分は薬棚で、もう半分は小さな喫茶スペースになっている。三つだけ並んだ木の席は、町の人たちにとって、薬を待つ場所でもあり、話をする場所でもあった。
「昨日、粉袋を運びすぎましてね」
ロイドさんが苦笑する。
「若い者に頼めばよかったんですが、つい自分で」
「つい、が一番腰に来ます」
父さんは穏やかに言った。
僕は奥から温かい布と、腰用の軟膏を用意する。
その時、ロイドさんの周りに、ぼんやりとした重さのようなものを感じた。
色で言うなら、くすんだ灰色。
香りで言うなら、冷めた鉄鍋みたいな鈍さ。
痛みそのものより、疲れが腰に溜まっている感じがする。
僕の力は、はっきりと答えを教えてくれるものではない。
この薬を使えば治る、と分かるわけでもない。
ただ、その人に必要なものの方向だけが、ぼんやりと浮かぶ。
温める。
緩める。
急がせない。
今日は、そんな感じだった。
「ロイドさん、お茶も淹れますね。少し体を温めるものにします」
「おお、ありがたい。ノエルくんのお茶は、飲むと体がほっとするからね」
そう言われて、僕は少し照れながら薬草棚に向かった。
選んだのは、温め草と白花草。
香りづけに、母さんが干していた林檎の皮を少し。
薬というほど強くない。
けれど、体がこわばっている人には、こういうお茶の方がいい時もある。
「腰痛に林檎かい?」
ロイドさんが面白そうに聞いた。
「薬効というより、気分です」
僕が答えると、父さんが小さくうなずいた。
「気分は大事ですよ、ロイドさん。痛いところがある時は、気持ちまで固くなりますから」
「なるほど。じゃあ、私は林檎に助けられるわけだ」
「林檎と、軟膏と、今日は重い袋を持たない決意に、です」
僕がそう言うと、ロイドさんは声を上げて笑った。
その笑い声を聞いて、店の空気が少し明るくなる。
こういう瞬間が好きだ。
薬が効くより前に、少しだけ顔がやわらぐ瞬間。
それだけで、人はもう回復の方へ歩き始めている気がする。
ロイドさんが帰ったあと、今度は若い母親が小さな子どもを連れてやって来た。
子どもは眠そうな目をこすっている。
母親の方も、目の下に薄い影があった。
「夜泣きが続いていて……この子も私も、あまり眠れていなくて」
母親は申し訳なさそうに言った。
母さんがすぐに席へ案内する。
「謝らなくていいのよ。眠れないのは、大変なことだもの」
その声があまりに自然で、母親の表情が少し崩れた。
ああ、と僕は思う。
この人に一番必要なのは、薬だけじゃない。
責められない場所だ。
僕は眠り草を手に取ったけれど、すぐに少し戻した。
強すぎるお茶はよくない。小さな子どももいるし、母親自身も疲れ切っている。
白花草を多めに。
眠り草は少しだけ。
香りは柔らかく、甘さは控えめ。
母さんは厨房から、温めたミルクに蜂蜜を少し溶かしたものを持ってきた。子ども用だ。
「飲めるかな?」
母さんが聞くと、子どもは小さくうなずいた。
ノルが、いつの間にか入口の横から席の近くへ移動していた。
大きな体で静かに伏せる。
子どもは最初、少し驚いた顔をした。
けれどノルがゆっくりとしっぽを揺らすと、おそるおそる手を伸ばした。
「さわってもいい?」
「ノルが嫌がらなければね」
僕がそう言うと、ノルは自分から少しだけ頭を近づけた。
子どもの小さな手が、白い毛に触れる。
「ふわふわ」
その声に、母親がようやく少し笑った。
薬草茶を出すと、母親は両手で包むようにカップを持った。
湯気が彼女の顔をやわらかく隠す。
「全部、ちゃんとしなきゃと思っていたんです」
ぽつりと、彼女が言った。
父さんは何も言わず、静かに聞いている。
「泣かせないように、家のことも遅れないように、周りに迷惑をかけないようにって。でも、眠れないと、何もかもできなくなって」
「眠れていない時に、全部をいつも通りにするのは難しいですよ」
父さんが言った。
「まずは、今夜少し眠ることを目標にしましょう。全部整えるのは、それからでいい」
母親は、カップを見つめたまま、小さくうなずいた。
僕はその横顔を見ながら、前世の自分を少し思い出していた。
全部ちゃんとしなければ。
頼まれたら応えなければ。
疲れていても、できるところまではやらなければ。
そうやって、自分に休む許可を出せなかった。
今なら分かる。
休むのにも、誰かの言葉が必要な時がある。
「お茶、眠る前に半分くらい飲んでください。残しても大丈夫です」
僕が言うと、母親は少し驚いた顔をした。
「残しても?」
「はい。薬草茶は、無理して全部飲むものじゃありません。体が受け取れる分だけで大丈夫です」
その言葉に、母親の肩がほんの少し下がった。
力が抜けたのだと思う。
昼を過ぎると、店は少し落ち着いた。
母さんは厨房で昼食の準備を始め、父さんは薬室で調合に戻った。僕はカウンターに座り、調合帳を開く。
父さんに言われた通り、昨夜の夢を書き留めることにした。
月明かりの屋敷。
眠れない少女。
銀色の葉。
黒猫の影。
文字にすると、夢は少しだけ輪郭を持った。
けれど、やっぱり意味は分からない。
「ノエル、難しい顔をしているわね」
母さんがスープ皿を持ってきた。
「夢のことを書いてた」
「怖い夢?」
「ううん。困っている人の夢」
母さんは僕の前にスープを置き、向かいの椅子に座った。
「ノエルは、困っている人を見ると放っておけないものね」
「そんなことは……」
言いかけて、止まる。
そんなことはない、と言うには、心当たりが多すぎた。
母さんはくすりと笑う。
「優しいのはいいことよ。でも、優しい人ほど、自分の疲れを後回しにするから」
その言葉に、僕は返事ができなかった。
母さんの声は明るい。
でも、こういう時だけ、少しだけ真剣になる。
「温かいうちに飲みなさい。人を癒やす人は、自分も温めておかないと」
「……うん」
スープは、野菜と鶏肉を柔らかく煮たものだった。
派手な味ではない。けれど、体の奥にゆっくり広がる。
母さんの料理は、薬みたいだと思う。
いや、たぶん薬も料理も、根っこは少し似ている。
誰かの体を思って、手をかける。
相手が受け取れる形にする。
強すぎず、足りなさすぎず。
それは、とても難しくて、優しい仕事だ。
午後になると、川辺で転んだ子どもが母親に連れられてきた。
膝をすりむいて、涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
「いたい、いたいの」
「うん、痛かったね」
僕はしゃがんで、子どもの目線に合わせた。
「洗うと少ししみるけど、そのあと楽になるよ。がんばれる?」
子どもは首を横に振った。
正直でいい。
僕は少し考えてから、ノルを呼んだ。
「ノル、少しだけ手伝って」
ノルはゆっくり近づき、子どもの横に伏せた。
子どもは泣きながらも、ノルの毛をぎゅっとつかむ。
「ノルも見てるよ。終わったら、蜂蜜水を少しだけ出すね」
「……ほんと?」
「ほんと」
それでも傷を洗う時には、子どもは大きな声で泣いた。
でも逃げなかった。
母さんが蜂蜜水を用意し、父さんが軟膏を塗る。
僕は包帯を巻いた。
終わるころには、子どもはしゃくりあげながらも、ノルの背中にもたれていた。
「ノル、あったかい」
「そうだね。ノルは大きな毛布みたいだから」
「けがしたら、また来てもいい?」
「できれば、けがしないで来てほしいかな」
そう言うと、母親が笑った。
小さな笑い声。
それだけで、店の中は少し明るくなる。
夕方、最後のお客さんを見送ったあと、僕は店の外に出た。
小川の水面が、夕焼けの色を細く揺らしている。
ノルは店先で伸びをして、満足そうにあくびをした。
「今日は働いたね、ノル」
僕が言うと、ノルは胸を張るように座った。
確かに、今日はよく働いた。
主に、撫でられる仕事だけど。
店の扉を閉めようとした時だった。
視界の端を、黒いものが横切った。
猫だ。
黒猫が一匹、店の前の石垣に座っていた。
艶のある黒い毛並み。
細いしっぽ。
月が出るにはまだ早い時間なのに、その金色の目だけが、妙にはっきり光って見えた。
「……君、昨日の夢にいた?」
思わずそう言ってしまう。
黒猫は答えない。
ただ、こちらを見ている。
まるで、僕の方が何かを分かっていないと言いたげに。
ノルが低く鼻を鳴らした。
威嚇ではない。
けれど、ただの猫に向ける反応とも少し違った。
「ノル?」
僕が振り返った一瞬の間に、黒猫の姿は消えていた。
石垣の上には、何もない。
足音も、気配も残っていない。
ただ、ほんの少しだけ、夜の匂いがした。
まだ夕方なのに。
胸の奥で、昨夜の夢がまた静かに揺れた。
眠れない少女。
月明かりの屋敷。
黒猫の影。
僕は閉店後の扉に手をかけたまま、しばらくその石垣を見つめていた。
「……明日、また夢を見るのかな」
答えるように、ノルが僕の手に鼻先を押し当てた。
温かい。
重くて、やさしい。
僕はその頭を撫でながら、小さく息を吐いた。
こもれび薬店の一日は、いつも通りに終わった。
けれど、そのいつも通りの端に、知らない月明かりが少しだけ差し込み始めていた。




