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こもれび薬店と月の眠り  作者: Yu


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1/10

店先で眠る白い犬

「ノル、そこに寝ていると、お客さんが入れないよ」


僕がそう声をかけると、店先に丸くなっていた大きな白い犬は、片耳だけをぴくりと動かした。


起きた、とは言いがたい。


返事の代わりに、ふす、と小さく鼻を鳴らして、ノルはさらに前足の間へ鼻先を埋めた。朝の光を浴びた白い毛並みが、やわらかく波打っている。大きな体をしているくせに、こうして眠っている姿は、焼きたての丸パンみたいだった。


「……聞こえてるよね」


もう一度声をかける。


ノルは、今度はしっぽだけを一度揺らした。


聞こえている。

けれど、起きる気はあまりないらしい。


こもれび薬店の朝は、だいたいいつも、こうして始まる。


僕は小さく息を吐いて、店の扉に手をかけた。古い木の扉は、いつものように控えめな音を立てて開く。朝の空気と一緒に、乾かした薬草の香りがふわりと流れ出した。


薄荷草、白花草、眠り草。

それから、母さんが昨日焼いていた蜂蜜菓子の甘い香り。


この香りをかぐと、胸の奥が少しだけゆるむ。


「ノル、本当にお客さんが来たら起きてね」


僕がそう言うと、ノルは目を閉じたまま、しっぽを二度揺らした。


分かった、ということにしておこう。


店の中に入ると、木の棚に並んだ薬瓶が、朝の光を受けて静かに光っていた。瓶の中には、粉薬、乾燥させた薬草、淡い色のポーションが並んでいる。窓辺には小さな鉢植えがあり、丸い葉の上に朝露が残っていた。


僕はカウンターの布巾を取り替え、湯を沸かすための小さな魔道具に手を置いた。


淡い光が灯る。


この世界では、魔法を直接使える人はそう多くない。けれど、魔道具があれば、僕のような田舎町の薬店でも、朝のお湯くらいは簡単に沸かせる。


便利すぎず、不便すぎない。

僕には、このくらいがちょうどいい。


前世の朝は、いつも急いでいた。


目覚ましの音で飛び起きて、まだ重い体を無理やり動かして、昨日の続きみたいな顔で仕事へ向かう。誰かに呼ばれ、誰かに頼られ、誰かの都合に合わせて、一日が終わるころには、自分が何を感じていたのかもよく分からなくなっていた。


好きだったはずのことも、いつの間にか遠くなっていた。


動物とゆっくり過ごすこと。

知らない町を、あてもなく歩くこと。

静かな場所で、何も考えずに息をすること。


そんな時間は、もう自分には贅沢なのだと思っていた。


最後の夜のことは、今でもはっきりとは思い出せない。


ただ、ひどく疲れていた。

窓の外に月が出ていた。

そして、誰かの声がした。


――もう、十分ですよ。


男とも女ともつかない、静かな声だった。

責めるでもなく、慰めすぎるでもなく、ただ月明かりみたいに、僕のそばに落ちてきた。


――次は、あなた自身も癒やされる場所へ。


その言葉を最後に、僕はこの世界で目を覚ました。


セレネア王国の小さな町、ミストレア。

小川が流れて、朝には霧が出て、町はずれには月の神様を祀る小さな祠がある。

そして、僕はこの町の喫茶兼薬屋、こもれび薬店の子として生まれた。


「ノエル、お湯は沸いた?」


奥の厨房から、母さんの声がした。


「うん。もうすぐ」


「じゃあ、朝のお茶をお願いね。今日は薄めに。お父さん、昨日遅くまで調合していたから」


「分かった」


母さん――ソフィアは、料理とお菓子が得意だ。

明るくて、よく笑って、けれど料理のことになると少しだけ目が真剣になる。


薬も大事。

でも、温かいものを食べて眠れば、それだけで半分くらい元気になる日もある。


それが母さんの口ぐせだった。


父さん――セルジュは、薬師だ。

町の人からは、ただの穏やかな薬屋の主人だと思われている。けれど、本当は遠くの町からも相談が届くくらい、腕の良い薬師らしい。


らしい、というのは、父さん本人があまりそういう話をしないからだ。


父さんは、薬を出す前に、まず相手の話を聞く。


「痛みはいつからですか」

「眠れていますか」

「最近、食事は取れていますか」


その声はいつも静かで、急がない。


子どものころの僕は、それが少し不思議だった。薬を出すなら、症状だけ聞けばいいのにと思ったこともある。


でも今は、少し分かる。


人の不調は、体だけにあるわけではない。

疲れも、不安も、言えなかった言葉も、体の奥に少しずつ積もっていく。


だから、まず聞く。

そして、温める。

それから、整える。


僕が薬やお茶を作るときの手順は、たぶん父さんと母さんの両方からもらったものだ。


僕は茶葉の入った瓶を開けた。今日は朝用の薄い薬草茶にする。白花草を少し、薄荷草をほんの少し。香りが強くなりすぎないように、指先で量を調整する。


その時、扉の外でノルが大きくあくびをする音が聞こえた。


ようやく起きたらしい。


「おはよう、ノル」


窓越しに声をかけると、ノルはゆっくりと立ち上がり、体をぶるりと震わせた。白い毛が朝日にふわりと揺れる。


ノルと出会ったのは、僕がまだ小さかったころだ。


森で薬草を摘んでいるとき、弱って倒れていた白い犬を見つけた。傷だらけで、体は冷たくて、けれどその目だけは不思議なくらい静かだった。


助けなきゃ。


その時、僕はただそう思った。


父さんに薬を教わり、母さんに温かいスープを作ってもらい、何日もかけて世話をした。やがてその犬は立てるようになり、歩けるようになり、僕の後ろをついてくるようになった。


名前はノル。


呼びやすくて、静かで、少し不思議な響き。

ノルにはよく似合っていると思う。


ただ、ノルは普通の犬ではないのかもしれない。


満月の夜だけ、毛並みが淡く光ることがある。月明かりを受けた白い毛が、銀色の霧をまとったように見えるのだ。


父さんも母さんも、そのことについて深く聞こうとはしなかった。


この世界では、そういう不思議が、ときどきある。

だから無理に暴かず、そっと一緒に暮らす。


それもまた、ミストレアらしい考え方なのだと思う。


朝のお茶を淹れていると、父さんが薬室から出てきた。


「おはよう、ノエル」


「おはよう、父さん。昨日、遅かったんだって?」


「少しだけね。季節の変わり目だから、胃にやさしい薬を多めに作っておきたくて」


父さんはそう言って、僕の淹れたお茶を受け取った。


一口飲んで、目元をやわらげる。


「いい香りだ。薄荷草を控えめにした?」


「うん。朝だから、強すぎない方がいいかなと思って」


「いい判断だね」


父さんにそう言われると、胸の奥が少し温かくなる。


前世では、褒められることがなかったわけではない。

けれど、そこにはいつも次の仕事が続いていた。


助かる。

じゃあ、これもお願い。

君ならできるよね。


その言葉に応え続けて、気づけば自分の中が空っぽになっていた。


でも今は違う。


ここでは、よくできたら、よくできたで終わる。

失敗したら、次はこうしようと言ってもらえる。

疲れたら、休んでいいと言ってもらえる。


ただそれだけのことが、僕にはまだ少し、奇跡みたいに感じられる。


「ノエル?」


父さんが僕を見る。


「どうかした?」


「ううん。なんでもない」


僕は首を横に振った。


「ただ、今日もいい朝だなと思って」


父さんは少し驚いたように瞬きをして、それから静かに笑った。


「そうだね。いい朝だ」


店の外では、ノルが入口の横に座り直していた。

今度はちゃんと、お客さんの邪魔にならない場所だ。


えらい、えらい。


心の中でそう褒めると、ノルはなぜかこちらを見て、しっぽを一度だけ揺らした。


分かっているのかもしれない。


こもれび薬店の一日は、ゆっくりと始まった。


午前中には、腰の痛いパン屋のおじいさんが来た。

昼前には、眠りが浅いという若い母親が来た。

午後には、川辺で転んだ子どもが、泣きながら母親に連れられてきた。


父さんは話を聞き、母さんは温かい飲み物を出し、僕は薬草を量ったり、包帯を用意したりした。


大きな事件はない。

けれど、小さな困りごとは毎日ある。


そして、その小さな困りごとが少し軽くなるだけで、人の顔は変わる。


それを見るのが、僕は好きだ。


前世で好きだったものを、全部失くしたと思っていた。

でも、もしかすると、形を変えて戻ってきているのかもしれない。


動物と過ごす時間は、ノルがくれた。

静かな旅は、まだこれからかもしれない。

誰かに喜んでもらうことは、こもれび薬店の日々の中にある。


夕方になると、店の前を流れる小川が茜色に染まった。

母さんが焼いた蜂蜜菓子の残りを、僕は小皿に分ける。


「ノル、少しだけだよ」


ノルは行儀よく座った。

行儀よく座っているが、目は完全に蜂蜜菓子を見ている。


「甘いものは食べすぎない」


そう言いながら、小さく割った欠片を差し出す。

ノルはそっと口に含んだ。


大きな口なのに、こういう時だけ妙に丁寧だ。


夜、店を閉めてから、僕は月の祠の方角を少しだけ見た。


ミストレアの町はずれにある、小さな祠。

月の神様を祀る場所。


僕がこの世界に来た理由を、父さんと母さんは知らない。

話していない。


話せない、というより、うまく言葉にできないのだ。


前世のこと。

月の神様のこと。

僕が、もう一度生きる場所をもらったこと。


ただ、夜に月を見ると、胸の奥が静かになる。


僕は今、生きている。

急かされることなく、誰かの期待でいっぱいになることもなく。

息をして、お茶を淹れて、薬草を量って、ノルの寝顔を見ている。


それだけで、今日は十分だと思えた。


その夜、僕は不思議な夢を見た。


月明かりの中に、知らない屋敷が立っていた。


白い壁。

静かな庭。

風もないのに揺れる、銀色の葉。


窓辺には、ひとりの少女がいた。


長い髪が月光を受けて淡く光っている。

顔はよく見えない。けれど、ひどく疲れているのが分かった。


少女は眠っているようで、眠れていない。

呼吸は浅く、胸の奥で魔力が細く震えている。


助けて、と声がしたわけではない。


それでも、僕には分かった。


この人は、休み方を忘れている。


昔の僕みたいに。


夢の中で、月明かりが静かに揺れた。

その光の向こうで、黒い影がひとつ、屋敷の屋根を歩いていく。


猫のような形をした影だった。


影は一度だけこちらを振り返り、まるで僕を試すように、細い尾を揺らした。


そして次の瞬間、少女のいる窓辺に、淡い月の光が降りた。


僕は手を伸ばそうとした。


けれど、指先が届く前に、夢はほどけていった。


目を覚ますと、部屋の中はまだ夜だった。


窓の外には、月が出ている。

店先からは、ノルの静かな寝息が聞こえた。


僕は布団の上で体を起こし、しばらく月を見ていた。


胸の奥に、まだ夢の感覚が残っている。


知らない屋敷。

眠れない少女。

黒猫の影。


ただの夢ではない。


なぜか、そう思った。


「……月の神様」


小さく呼んでみる。


返事はない。


けれど、窓から差し込む月明かりが、ほんの少しだけ濃くなった気がした。


明日の朝、きっと何かが始まる。


そんな予感を抱いたまま、僕はもう一度、静かに目を閉じた。

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