店先で眠る白い犬
「ノル、そこに寝ていると、お客さんが入れないよ」
僕がそう声をかけると、店先に丸くなっていた大きな白い犬は、片耳だけをぴくりと動かした。
起きた、とは言いがたい。
返事の代わりに、ふす、と小さく鼻を鳴らして、ノルはさらに前足の間へ鼻先を埋めた。朝の光を浴びた白い毛並みが、やわらかく波打っている。大きな体をしているくせに、こうして眠っている姿は、焼きたての丸パンみたいだった。
「……聞こえてるよね」
もう一度声をかける。
ノルは、今度はしっぽだけを一度揺らした。
聞こえている。
けれど、起きる気はあまりないらしい。
こもれび薬店の朝は、だいたいいつも、こうして始まる。
僕は小さく息を吐いて、店の扉に手をかけた。古い木の扉は、いつものように控えめな音を立てて開く。朝の空気と一緒に、乾かした薬草の香りがふわりと流れ出した。
薄荷草、白花草、眠り草。
それから、母さんが昨日焼いていた蜂蜜菓子の甘い香り。
この香りをかぐと、胸の奥が少しだけゆるむ。
「ノル、本当にお客さんが来たら起きてね」
僕がそう言うと、ノルは目を閉じたまま、しっぽを二度揺らした。
分かった、ということにしておこう。
店の中に入ると、木の棚に並んだ薬瓶が、朝の光を受けて静かに光っていた。瓶の中には、粉薬、乾燥させた薬草、淡い色のポーションが並んでいる。窓辺には小さな鉢植えがあり、丸い葉の上に朝露が残っていた。
僕はカウンターの布巾を取り替え、湯を沸かすための小さな魔道具に手を置いた。
淡い光が灯る。
この世界では、魔法を直接使える人はそう多くない。けれど、魔道具があれば、僕のような田舎町の薬店でも、朝のお湯くらいは簡単に沸かせる。
便利すぎず、不便すぎない。
僕には、このくらいがちょうどいい。
前世の朝は、いつも急いでいた。
目覚ましの音で飛び起きて、まだ重い体を無理やり動かして、昨日の続きみたいな顔で仕事へ向かう。誰かに呼ばれ、誰かに頼られ、誰かの都合に合わせて、一日が終わるころには、自分が何を感じていたのかもよく分からなくなっていた。
好きだったはずのことも、いつの間にか遠くなっていた。
動物とゆっくり過ごすこと。
知らない町を、あてもなく歩くこと。
静かな場所で、何も考えずに息をすること。
そんな時間は、もう自分には贅沢なのだと思っていた。
最後の夜のことは、今でもはっきりとは思い出せない。
ただ、ひどく疲れていた。
窓の外に月が出ていた。
そして、誰かの声がした。
――もう、十分ですよ。
男とも女ともつかない、静かな声だった。
責めるでもなく、慰めすぎるでもなく、ただ月明かりみたいに、僕のそばに落ちてきた。
――次は、あなた自身も癒やされる場所へ。
その言葉を最後に、僕はこの世界で目を覚ました。
セレネア王国の小さな町、ミストレア。
小川が流れて、朝には霧が出て、町はずれには月の神様を祀る小さな祠がある。
そして、僕はこの町の喫茶兼薬屋、こもれび薬店の子として生まれた。
「ノエル、お湯は沸いた?」
奥の厨房から、母さんの声がした。
「うん。もうすぐ」
「じゃあ、朝のお茶をお願いね。今日は薄めに。お父さん、昨日遅くまで調合していたから」
「分かった」
母さん――ソフィアは、料理とお菓子が得意だ。
明るくて、よく笑って、けれど料理のことになると少しだけ目が真剣になる。
薬も大事。
でも、温かいものを食べて眠れば、それだけで半分くらい元気になる日もある。
それが母さんの口ぐせだった。
父さん――セルジュは、薬師だ。
町の人からは、ただの穏やかな薬屋の主人だと思われている。けれど、本当は遠くの町からも相談が届くくらい、腕の良い薬師らしい。
らしい、というのは、父さん本人があまりそういう話をしないからだ。
父さんは、薬を出す前に、まず相手の話を聞く。
「痛みはいつからですか」
「眠れていますか」
「最近、食事は取れていますか」
その声はいつも静かで、急がない。
子どものころの僕は、それが少し不思議だった。薬を出すなら、症状だけ聞けばいいのにと思ったこともある。
でも今は、少し分かる。
人の不調は、体だけにあるわけではない。
疲れも、不安も、言えなかった言葉も、体の奥に少しずつ積もっていく。
だから、まず聞く。
そして、温める。
それから、整える。
僕が薬やお茶を作るときの手順は、たぶん父さんと母さんの両方からもらったものだ。
僕は茶葉の入った瓶を開けた。今日は朝用の薄い薬草茶にする。白花草を少し、薄荷草をほんの少し。香りが強くなりすぎないように、指先で量を調整する。
その時、扉の外でノルが大きくあくびをする音が聞こえた。
ようやく起きたらしい。
「おはよう、ノル」
窓越しに声をかけると、ノルはゆっくりと立ち上がり、体をぶるりと震わせた。白い毛が朝日にふわりと揺れる。
ノルと出会ったのは、僕がまだ小さかったころだ。
森で薬草を摘んでいるとき、弱って倒れていた白い犬を見つけた。傷だらけで、体は冷たくて、けれどその目だけは不思議なくらい静かだった。
助けなきゃ。
その時、僕はただそう思った。
父さんに薬を教わり、母さんに温かいスープを作ってもらい、何日もかけて世話をした。やがてその犬は立てるようになり、歩けるようになり、僕の後ろをついてくるようになった。
名前はノル。
呼びやすくて、静かで、少し不思議な響き。
ノルにはよく似合っていると思う。
ただ、ノルは普通の犬ではないのかもしれない。
満月の夜だけ、毛並みが淡く光ることがある。月明かりを受けた白い毛が、銀色の霧をまとったように見えるのだ。
父さんも母さんも、そのことについて深く聞こうとはしなかった。
この世界では、そういう不思議が、ときどきある。
だから無理に暴かず、そっと一緒に暮らす。
それもまた、ミストレアらしい考え方なのだと思う。
朝のお茶を淹れていると、父さんが薬室から出てきた。
「おはよう、ノエル」
「おはよう、父さん。昨日、遅かったんだって?」
「少しだけね。季節の変わり目だから、胃にやさしい薬を多めに作っておきたくて」
父さんはそう言って、僕の淹れたお茶を受け取った。
一口飲んで、目元をやわらげる。
「いい香りだ。薄荷草を控えめにした?」
「うん。朝だから、強すぎない方がいいかなと思って」
「いい判断だね」
父さんにそう言われると、胸の奥が少し温かくなる。
前世では、褒められることがなかったわけではない。
けれど、そこにはいつも次の仕事が続いていた。
助かる。
じゃあ、これもお願い。
君ならできるよね。
その言葉に応え続けて、気づけば自分の中が空っぽになっていた。
でも今は違う。
ここでは、よくできたら、よくできたで終わる。
失敗したら、次はこうしようと言ってもらえる。
疲れたら、休んでいいと言ってもらえる。
ただそれだけのことが、僕にはまだ少し、奇跡みたいに感じられる。
「ノエル?」
父さんが僕を見る。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
僕は首を横に振った。
「ただ、今日もいい朝だなと思って」
父さんは少し驚いたように瞬きをして、それから静かに笑った。
「そうだね。いい朝だ」
店の外では、ノルが入口の横に座り直していた。
今度はちゃんと、お客さんの邪魔にならない場所だ。
えらい、えらい。
心の中でそう褒めると、ノルはなぜかこちらを見て、しっぽを一度だけ揺らした。
分かっているのかもしれない。
こもれび薬店の一日は、ゆっくりと始まった。
午前中には、腰の痛いパン屋のおじいさんが来た。
昼前には、眠りが浅いという若い母親が来た。
午後には、川辺で転んだ子どもが、泣きながら母親に連れられてきた。
父さんは話を聞き、母さんは温かい飲み物を出し、僕は薬草を量ったり、包帯を用意したりした。
大きな事件はない。
けれど、小さな困りごとは毎日ある。
そして、その小さな困りごとが少し軽くなるだけで、人の顔は変わる。
それを見るのが、僕は好きだ。
前世で好きだったものを、全部失くしたと思っていた。
でも、もしかすると、形を変えて戻ってきているのかもしれない。
動物と過ごす時間は、ノルがくれた。
静かな旅は、まだこれからかもしれない。
誰かに喜んでもらうことは、こもれび薬店の日々の中にある。
夕方になると、店の前を流れる小川が茜色に染まった。
母さんが焼いた蜂蜜菓子の残りを、僕は小皿に分ける。
「ノル、少しだけだよ」
ノルは行儀よく座った。
行儀よく座っているが、目は完全に蜂蜜菓子を見ている。
「甘いものは食べすぎない」
そう言いながら、小さく割った欠片を差し出す。
ノルはそっと口に含んだ。
大きな口なのに、こういう時だけ妙に丁寧だ。
夜、店を閉めてから、僕は月の祠の方角を少しだけ見た。
ミストレアの町はずれにある、小さな祠。
月の神様を祀る場所。
僕がこの世界に来た理由を、父さんと母さんは知らない。
話していない。
話せない、というより、うまく言葉にできないのだ。
前世のこと。
月の神様のこと。
僕が、もう一度生きる場所をもらったこと。
ただ、夜に月を見ると、胸の奥が静かになる。
僕は今、生きている。
急かされることなく、誰かの期待でいっぱいになることもなく。
息をして、お茶を淹れて、薬草を量って、ノルの寝顔を見ている。
それだけで、今日は十分だと思えた。
その夜、僕は不思議な夢を見た。
月明かりの中に、知らない屋敷が立っていた。
白い壁。
静かな庭。
風もないのに揺れる、銀色の葉。
窓辺には、ひとりの少女がいた。
長い髪が月光を受けて淡く光っている。
顔はよく見えない。けれど、ひどく疲れているのが分かった。
少女は眠っているようで、眠れていない。
呼吸は浅く、胸の奥で魔力が細く震えている。
助けて、と声がしたわけではない。
それでも、僕には分かった。
この人は、休み方を忘れている。
昔の僕みたいに。
夢の中で、月明かりが静かに揺れた。
その光の向こうで、黒い影がひとつ、屋敷の屋根を歩いていく。
猫のような形をした影だった。
影は一度だけこちらを振り返り、まるで僕を試すように、細い尾を揺らした。
そして次の瞬間、少女のいる窓辺に、淡い月の光が降りた。
僕は手を伸ばそうとした。
けれど、指先が届く前に、夢はほどけていった。
目を覚ますと、部屋の中はまだ夜だった。
窓の外には、月が出ている。
店先からは、ノルの静かな寝息が聞こえた。
僕は布団の上で体を起こし、しばらく月を見ていた。
胸の奥に、まだ夢の感覚が残っている。
知らない屋敷。
眠れない少女。
黒猫の影。
ただの夢ではない。
なぜか、そう思った。
「……月の神様」
小さく呼んでみる。
返事はない。
けれど、窓から差し込む月明かりが、ほんの少しだけ濃くなった気がした。
明日の朝、きっと何かが始まる。
そんな予感を抱いたまま、僕はもう一度、静かに目を閉じた。




