第6話:絶体絶命のIT社長と、覚醒のヒノキ風呂
岩野権之助(56)。
40歳で長年エンジニアとして勤めた大手企業を退職し、自らIT企業を立ち上げて16年。
昼も夜もコードを書き続け、社員たちが帰宅した後も一人でバグのラン&トレースに追われてきた、叩き上げの技術者社長である。
そんな激務の日常で、かつてインターンシップに来ていた快活な青年・神木坂 朔の明るい笑顔は、岩野にとって密かな救いだった。
本当は自社にスカウトしたかったが、彼には「亡き祖父の山で古民家宿を開く」という夢があった。それならばと応援し、開業したら最初の客として行くと約束していたのだ。
今の岩野の身体は、限界を遥かに超えていた。
更年期障害、糖尿病、肥満、高血圧。過労の重圧により体はブヨブヨ、ボロボロ、心はズタズタ。癒やしの場所などどこにもない。
だからこそ、万障繰り繰り調整して予約したこの2泊3日の旅行に、岩野は並々ならぬ期待を抱いていたのだ。
◇
「ふぅ……なんだか不思議な移動だったが、とにかくお風呂に入らせてもらおう……」
案内された脱衣所で服を脱ぎ、バルコニーと一体になったヒノキの露天風呂へと足を踏み入れた瞬間、岩野は息を呑んだ。
目の前に広がるのは、夕日に染まる圧倒的な山脈の絶景。
紅葉を始めた木々のコントラストが更に山脈に映えていた。
そして、湯気とともに立ち上るヒノキの芳醇な香り。
「これは……凄いロケーションだ……」
おそるおそる湯船に身体を沈める。
——その瞬間だった。
『対象のバイタル確認。重度の細胞疲労、糖代謝異常、血管壁の硬化、高血圧数値を検出。主様のご命に基づき、物理的身体再構築を開始します』
岩野の耳には聞こえないバトラーの厳かな音声とともに、湯船全体を構成するモグド(アニメイト・マーター)たちが一斉に微動した。
「ん……? なんだ、このお湯……!? あたたかい……いや、細胞の奥まで何かが染み込んでくるような……!?」
お湯に含まれたナノ素子が皮下組織から全身へ侵入。
インスリン受容体をナノ修復し、肥大化した内臓脂肪を分解し、硬化した血管壁を超高密度で再結晶補強。脳内のストレス物質を完全消去し、疲れ切った細胞のミトコンドリアを一瞬で活性化させていく!
「うお、あ、あああああっ……!? なんだこれは、体が……軽い!? 目の前が明るくなっていく……!?」
湯船の中で、岩野の全身からドロリとした漆黒の汗(体内毒素と老廃物)が排出され、お湯に溶けて瞬時に分子分解されていく。
ほんの5分前まで重篤だった糖尿病も高血圧も肥満の元凶も、文字通り「物理的に解体・再構築」されて綺麗さっぱり消滅したのだ。
鏡を見ると、目の下のクマは消え去り、肌にはハリが戻り、まるで30代のエンジニア時代のような活力に満ち溢れた自分の顔があった。
「な、なんだこのお湯は……!? 身体が……身体が覚醒している……!?」
◇
お風呂から上がり、完全に生まれ変わってピカピカになった岩野社長が土間に戻ってくると、囲炉裏の前で待っていた朔が笑顔で迎えた。
「お、岩野社長! いいお湯でしたか? 心も体もドロドロに溶けて整いました?」
「整うどころじゃないよ神木坂くん!! 一体あのお風呂に何が入ってるんだ!? 長年悩まされてた体の重さが全部消えて、視界がクリアで、なんだか今ならバグのないコードが無限に書けそうな気がするんだが!?」
「ははは、山のヒノキ風呂効果ですね! さあさあ、お腹減ったでしょう。今夜は囲炉裏で特製のすき焼きです!」
パチパチと炭火がはぜる鉄鍋から、甘辛い極上の香りが漂う。
朔から生卵の入った取り皿を受け取り、熟成肉(分子再配列済み)と採れたて野菜を口に運んだ瞬間——岩野社長の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「うっ……う美味い……!! なんだこのお肉と野菜は……! 舌の上で溶ける……噛むたびに生きる力が湧いてくるようだ……っ!」
「あ、泣くほど喜んでもらえて嬉しいです! 野菜も肉も、うちのバト……じゃなくて、山の恵みですからね!」
『(裏で)主様、お客様の血液データを計測。血糖値、血圧ともに完全な健常値に収束。細胞年齢はマイナス20歳を達成いたしました』
「(ナイスバトラー!)」
生気を完全に取り戻し、大涙を流しながらすき焼きを貪り食う岩野社長。
その姿を満足そうに眺めながら、朔は「やっぱり古民家宿を始めて良かったな」と、縁側でしみじみと麦茶をすするのだった。
(第7話へ続く)




