第6話 三日の道
「わしの腰は一等品じゃないぞ」
荷車の御者台に乗り込みながら、バティストが言った。
「並品ですか」
「並品なら、まだ売れますな。これは使いものになりません」
老人は尻の下に藁を三束敷いた。板に噛ませるはずの藁だった。
「バティスト」
「一束だけです」
「三束です」
「……二束にしときます」
「一束です」
「一束半で手を打ちましょう」
道が動きはじめた。車輪が石を噛んで、板がひとつ鳴った。鳴り方が浅い。積み方は悪くない。
◇
板を積んだ荷車は、速く走れない。
石の多い道では、車輪が跳ねるたびに枠が鳴る。鳴らせないように歩かせると、人が歩くのと変わらない速さになる。王都リエンまで三日。
わたくしは、荷車の後ろを歩いた。乗ると、板の鳴り方が聞こえない。
板は、道の状態を音で教える。轍の浅いところでは鳴らない。石を踏むと、木枠の側が先に鳴って、そのあと板が細く応える。
応え方が長いときは、藁が緩んでいる。短く切れるときは、詰めすぎている。
十年、この音を聞いてきた。屋敷から南翼まで、荷車で五分の道でも聞いた。
一日目は、ずっと畑だった。
刈り終えた麦の畝が、地平まで続いている。冬の初めのこの景色を、わたくしは十年、屋敷の窓から見ていた。近くで見ると、土の色がまるで違った。
ダルクール領の土は硝子には向かない。砂に鉄が多くて、焼くと板が緑がかる。父はそれを嫌って、砂だけは南の川筋から買っていた。
「お嬢さんの親父さんはね」
バティストが、手綱を持ったまま言った。
「砂を見に行くのに、三日かけましたぞ。買うのは二樽なのに」
「知っています」
「見ずに買った年が一度ありましてな。板が緑になった。あの人は全部割りました」
「二十樽ぶんをですか」
「全部です。わしは泣きましたぞ」
「もったいのうございます」
「もったいない、と申し上げました。そうしたら、緑の板を入れた家が、十年その緑を見ることになる、と」
老人は、笑った。それから、笑いのしまい方が少し遅れた。
「……まあ、あの人は、そういう人でした」
「バティスト」
「へい」
「わたくしは、父に似ておりますか」
「似とりません」
即答だった。
「親父さんは、割る人です。あんたは、割らないように焼く人です」
◇
二日目、雨が降った。
板は油布で覆ってあるから濡れない。困るのは道だ。轍が緩んで、車輪が沈む。半日で三里しか進まなかった。
宿場の納屋を借りて、火を焚いた。屋根から雨漏りがしていて、桶を二つ置いた。
「お嬢さん」
「はい」
「王都で、どうなさるおつもりで」
「窯を借ります」
「借りて」
「焼きます」
「誰に売るんです」
わたくしは火を見ていた。濡れた薪が、しゃっと音を立てた。
「売り先は、まだありません」
「ほう」
「札はもらいました。それだけです」
「あの旦那ですか。板しか見なかった」
「そうです」
「ならよろしい」
老人は、濡れた外套を火に近づけた。湯気が上がった。
「よろしい、と申しますのは」
「板を見る人間は、板が変われば離れます。顔を見る人間は、顔が変われば離れます。どっちも離れますが、板のほうは、こっちで直せますでな」
「……直せますか」
「直せますとも。四十年、それだけやってきましたので」
◇
夜中に目が覚めた。雨は上がっていた。
納屋の戸を開けると、月が出ていた。荷車の油布が濡れて光っている。板は全部、立ったまま並んでいる。
わたくしは、油布を少しだけめくった。四十枚の縁が、月の光を細く返した。一枚ずつ、指の腹で確かめた。撓んでいない。踊ってもいない。
十年、この板を三十枚ずつ、あの壁へ入れてきた。壁へ入れた板は、二度と触れない。桟に嵌めた瞬間から、それは部屋の一部になる。
いま、四十枚が全部、まだ誰の部屋の一部でもない。そう思ったとき、少しだけ、息が楽になった。
「起きとりましたか」
背中で声がした。バティストが、納屋の戸口に立っていた。
「起こしてしまいましたか」
「歳を取ると、夜に三度起きます」
「そうですか」
「板を数えとりましたな」
「触っていただけです」
「数えとりました。四十まで」
老人は、月を見上げた。
「明日は晴れます。轍が締まりますで、昼までに城門に着きますぞ」
◇
三日目の朝、王都の城壁が見えた。
リエンは坂の街だ。北の高いところに王宮があって、南へ下るほど職人の町になる。硝子の卸は東通りに集まっている。
城門で荷を検められた。役人は板を数えて、それから「何に使う」と聞いた。
「売ります」
「どこの窯だ」
「モンフォールのヴェルミリオでございます」
役人は帳面をめくった。めくって、指を止めた。
「ダルクールじゃないのか」
「ヴェルミリオでございます」
「……まあいい。通れ」
役人は次の荷車へ行った。行ってから、思い出したように振り返った。
「おい。ヴェルミリオといったな」
「はい」
「東通りへ行くのか」
「そのつもりでございます」
「なら、坂を下る前に車輪を締め直せ。あの坂は急だ。板を積んだ荷車が、去年二台ひっくり返った」
「……ありがとうございます」
「割れたら惜しい。あれは、いい板だ」
役人は、それだけ言って行ってしまった。板を数えるあいだ、指の腹で縁を触っていた人だった。
通ってから、わたくしは少しのあいだ、そのやり取りを考えていた。
王都の城門の帳面に、ダルクールの名が載っている。十年、春に三十枚。載るだけの数を、この門から入れてきた。
載っているのは、家の名前だ。
◇
札の地図のとおりに行った。
倉があった。石造りで、間口が広い。荷を入れやすいように、戸口の敷居が低く削ってある。よく考えられた倉だった。
その隣に、四角い建物があった。貸工房、と書いてある。バティストが荷車を止めた。二人で、しばらく見上げた。
「お嬢さん」
「はい」
「屋根が、抜けとります」
抜けていた。東側の半分ほど、垂木が空に向かって並んでいる。瓦は下に落ちて、割れたまま積んである。雨が入った跡が、壁を黒く伝っていた。
「……借り手がいない、と言っていました」
「そりゃおりませんわ」
わたくしは戸を押した。開いた。鍵はかかっていない。
中は暗かった。土間の真ん中に、崩れた炉があった。煉瓦の積み方が古い。三十年か、四十年前のものだ。
わたくしは炉の前に膝をついて、煉瓦を一つ、指で押した。動かなかった。
脆いのは表面だけだ。芯は、まだ生きている。
「バティスト」
「へい」
「屋根は、いくらかかりますか」
「瓦を買えば、五日でやります。……買えばですぞ」
「窯は」
老人は、わたしの隣に膝をついた。灰を指ですくって、匂いをかいだ。
「三十年、火が入っとりませんな」
「わかりますか」
「灰が甘い匂いをしとります。火が入っとると、もっと辛い」
老人は、灰を落とした。それから、言った。
「起こせます」
硝子の話を書いていると、砂の産地の話ばかり調べてしまいます。鉄分が多いと緑になる、というのは本当です。
「親父さんは、割る人です。あんたは、割らないように焼く人です」——この一行を書いたとき、この物語の骨がやっと決まりました。
次話——屋根を直します。それから、十年ぶりに、誰のためでもない一枚を焼きます。




