第5話 荷車に積むもの
板硝子を運ぶときは、立てて積む。寝かせると、下の一枚が自分の重さで割れる。
木枠に溝を切って、一枚ずつ立てて、藁を噛ませる。荷車は二台。一台に四十枚まで。それ以上は車軸がもたない。
「その角、もう少し」
「へい」
バティストが藁を足す。老人の指は、藁の量を目で測らない。押し込んだ手ごたえで測る。
硬すぎると板が撓み、緩いと道で踊る。踊った板は、着いた先で三枚に一枚が割れている。
「藁は、去年のを使いなさるので」
「今年のは硬うございます」
「硬いほうが持ちましょうが」
「硬いと、板の縁に跡がつきます」
「跡がついて、何が困ります」
「拭けば落ちます。落ちますが、拭く手間がかかります」
「昔、これで十二枚割りましたな」
「聞いております」
「親父さんに三日、口をきいてもらえませんでした」
「三日で済んだのですね」
「四日目に、藁の詰め方をもう一度教わりました」
「叱られはしなかったのですか」
「叱るくらいなら、教える人でした」
老人は、次の溝に藁を押し込んだ。
「そのぶん、こわい人でしたぞ」
午前中いっぱいかかって、板を積み終えた。四十枚と、三十八枚。二台目が二枚少ないのは、割れた分を数に入れていないからだ。
午後は道具と型だった。
◇
窯だけは運べない。煉瓦を積んで泥で固めた炉は、崩せば土に戻る。父が二十年前に積んだものだ。
運べるのは、鉄の道具と、木の型と、吹き竿だけだった。
鉄の道具は十六。鋏が四挺、鏝が五枚、火掻きが三本、あとは名前のないものだ。名前がないのは、父が作ったからだ。売っていない形のものは、呼び名も自分でつけるしかない。
わたくしは吹き竿を布に巻いた。三本ある。父のが一本、わたしのが二本。
父のはもう使わない。長さが合わないからだ。背丈の違う人間の竿は、どうやっても体に馴染まない。
それでも、置いていく気にはならなかった。
「そちらは、親父さんのですな」
「はい」
「持っていきなさるので」
「重いものではありませんので」
「重いものです」
老人は、そう言った。それきり、何も言わなかった。
型は十九本あった。南翼の窓に合わせた寸法ばかりで、ほかの家では一つも使えない。それも積んだ。
使えない型を運ぶのは、荷としては無駄だ。木は重く、嵩張る。二台目の後ろの三分の一を、この十九本が占めた。
それでも置いていかなかったのは、寸法が消えるのが惜しかったからだ。型が残っていれば、あの壁の割り方は残る。壁のほうが先に無くなっても、残る。
◇
夕方、屋敷の廊下を通った。二階の物置に、置き忘れた型が一つあったからだ。
取りに上がって、降りてくる途中で、廊下の肖像画の前を通った。三枚並んでいる。先代の伯爵。その夫人。それから、右端の一枚。
少年が描かれている。十二、三だろうか。ユリアン様に似ているが、目のあたりが違う。この人のほうが、笑い方を知っている顔だ。
テオドール様、という名だけは知っている。ユリアン様の弟で、十七で亡くなった。それだけだ。
この家に十年いて、わたくしはこの名を、夫の口から一度も聞いたことがない。侍女から一度だけ聞いた。聞いたあとで、聞かなかったことにした。
絵の下の壁が、そこだけ日に焼けていない。誰かが、この絵の前で立ち止まる習慣を持っている。
絵の額は、三枚のうちこれだけが新しい。掛け替えたのだと思う。掛け替えた人も、たぶん、同じ場所に立った。
◇
「奥様」
声がして、振り返った。南翼の入口に、リゼット様が立っていた。
外套を着て、襟を立てている。廊下の空気は温室より五つは低い。この方がここまで出てくることは、めったにない。
「お荷物、拝見しました。窓から」
「はい」
「たくさんございますのね」
「十年ぶんですので」
「……行かれるのですか」
「工房を引き上げるだけです」
嘘ではない。
「では、また戻られますのね」
「……ええ」
これは、嘘だった。嘘をつくつもりはなかったが、そう答えるほうが早かった。
リゼット様は、廊下の床を見ていた。それから、顔を上げた。
「奥様。あの」
「はい」
「わたし、」
その先が来なかった。
この方は咳をするとき、必ず口を袖で押さえる。押さえる手が、いま、袖の中で握られている。咳ではない。
「リゼット様」
「……いえ」
「なんでも仰ってくださいませ」
「いいえ。……お気をつけて」
リゼット様は礼をして、南翼へ戻っていかれた。
扉が閉まる。硝子越しに、その背中が歪んで見えた。東の三枚目だ。あそこはいつも歪む。
わたくしは、しばらくそこに立っていた。何を言いかけたのかは、聞かなかった。聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えを、たぶん、置いていけなくなる。
◇
荷車は、翌朝いちばんに出すことにした。
その夜、わたくしは自分の部屋の荷物をまとめた。
服は三着だけ持った。伯爵夫人の装いは全部置いていく。あれは家のものだ。仕立てた日付まで帳簿に載っている。
宝石も置いた。婚礼のときのものと、十年目の記念にといただいた緑の一式。
緑の一式は、二度しか身につけていない。一度は贈られた日に、もう一度は隣領の葬式で。似合わないと言われたのではない。着ていく場所が、この十年で二度しかなかった。
持ったのは、帳面十冊と、父の懐中時計と、母の櫛。それだけだと、鞄が半分空いた。
十年住んだ部屋から、鞄半分しか出てこない。わたくしはしばらく、その空いた場所を見ていた。
空いた場所に何を入れるか、二つ三つ考えた。考えて、何も入れなかった。
◇
翌朝、荷車が出る前に、ドニが目録を持ってきた。
「奥様。受け渡しの署名を頂戴いたします」
「二枚とも」
「二枚とも。控えは、こちらで保管いたします」
わたくしは羽根ペンを取った。署名は十年、アニエス・ダルクールと書いてきた。
手が、そう動いた。
「……ドニ」
「はい」
「この署名は、どちらでもよろしいのですか」
「持参財の受け渡しでございますので、婚姻前のお名前でも通ります」
「では、そちらで」
わたくしは、ヴェルミリオ、と書いた。書き慣れない字だった。ミの字の払いが、少し長くなった。
「ドニ。旦那様には」
「工房の荷を出したと申し上げます」
「それだけで」
「それだけで、と仰せでございましたので」
「ええ」
ドニは目録を畳んだ。畳んでから、顔を上げずに言った。
「奥様。……この控えは、十年、置いておきます」
「そんなに必要ございませんでしょう」
「必要でございます」
彼は、それきり何も言わなかった。
厩番が馬をつけた。若い男で、荷車の轅を持ち上げるとき、板の一枚に手をついた。
「触ると跡が残ります」
「あ、」
「拭けば落ちますので、お気になさらず」
「……すみません」
「よろしいのです。触りたくなるものですから」
◇
南翼では、前の夜も薪がくべられた。目盛りは十五だった。下男は炉の口を大きく開けて、薪を三本足した。
多すぎる。急に上げると硝子が鳴る。東の壁で、ぱき、と小さな音がした。誰も、いなかった。
テオドールという名前が一度だけ出ました。ユリアンは十年、この名を口にしていません。
「では、また戻られますのね」に「ええ」と答えたのは、この人が物語で最初につく嘘です。つくつもりはありませんでした。そう答えるほうが早かっただけです。
次話——王都まで三日。荷車の速さでは三日かかります。同乗する老人が、道中ずっと喋ります。喋る老人は、たいてい何かを喋らないためにそうしています。




