第4話 材料費の欄
「奥様。持ち出しの目録を、こしらえてまいりました」
ドニが差し出したのは、二枚の紙だった。一枚目に窯・道具・型、二枚目に在庫の板が枚数で書いてある。
字は細く、罫からはみ出していない。数字の一と七の書き分けまで揃っている。この人の仕事は、いつも正確だ。
目録には、吹き竿が三本と書いてあった。父のを数え落としていない。物置の奥にしまってあったものだ。この人は、屋敷のどこに何があるかを、たぶん全部知っている。
「よくできています」
「恐れ入ります」
「一つだけ、足りません」
ドニの目が、紙の上を走った。この人は、自分の書いたものの誤りを、人より先に見つける癖がある。
「……いえ、抜けはございませんが」
「材料費です」
「材料費、と申しますと」
「珪砂と、灰と、薪です。十年ぶんの」
ドニは、紙を持ち直した。持ち直してから、こちらを見た。
「南翼の薪代は、屋敷の帳簿に計上しております」
「薪だけですね」
「……はい」
◇
わたくしは屋敷の帳簿の、該当の綴りを開いてもらった。
南翼・温室維持。項目はきちんと立っている。薪代、硝子職人手間賃、運搬、修繕予備。
薪代には数字が入っている。運搬にも入っている。修繕予備は毎年同じ額が計上されて、毎年そのまま繰り越されている。使う機会がなかったからだ。
硝子職人手間賃の欄が、十年ぶん、空白だった。
空白は、線を引いて消してあるのではない。ただ、何も書かれていない。書く場所があって、書かれていない。
「これは」
「奥様の分でございます」
ドニは言った。よどみのない言い方だった。
「奥様がお焼きになるものに、手間賃はつきません」
「材料は」
「工房の在庫からお持ちになりますので、こちらの帳簿には」
「工房の在庫は、わたくしの持参財です。婚姻契約書の第四条にございます」
「存じております」
「その持参財が、十年、屋敷の南翼に入っております」
ドニは口を開けた。それから、閉じた。
わたくしはその顔を見ていた。悪意はない。この人はただ、十年前に決まった書き方を、十年守っただけだ。
書式を作った日のことを、たぶんこの人は覚えている。覚えているから、いま、目を逸らさずにいる。
「奥様。これは、そういうものでございます」
「ええ」
わたくしは頷いた。
「そういうものでした」
◇
部屋へ戻って、寝台の下の箱を出した。
木の箱で、蓋が反っている。湿気の多い年に一度、水を吸ったせいだ。中に、綴じた帳面が十冊。年に一冊で、表紙に年を書いてある。
中身は数字だけだ。日付、焼いた枚数、窯の温度、外の気温、使った珪砂と灰の量。ひび割れが出たときは、その位置。
書きはじめた理由は、いま思うと自分でもよくわからない。父が帳面をつける人だったから、そうするものだと思っていた。
父の帳面は、工房の棚に二十年ぶんある。父のは字が大きくて、数字の脇に天気が書いてある。「風」とか「霧」とか。窯は天気で機嫌が変わるからだ。
わたしの帳面には、天気を書かなかった。書く欄を作らなかった。最初の一冊の、最初の頁。
——五の月十二日。板、三枚。十六。外、九。
婚礼の、翌日だった。
わたくしはそれを持って、下へ降りた。階段の途中で一度足を止めて、それから、また降りた。
◇
「ドニ」
「はい」
「この十年で、南翼に入れた板は、三百二十七枚です」
わたくしは帳面を開いて、机に置いた。
「珪砂は年に平均で二十樽。灰が十二。薪は屋敷の帳簿にあるとおりです」
「はい」
「焼き直しの日数は、年に四十一日から五十六日のあいだ。冬の焼き替えを含めますと、十年で四百九十日になります」
ドニは帳面を見た。見て、しばらく動かなかった。
「……奥様は、これを」
「毎日つけていました」
「なぜ、いままで」
「聞かれませんでした」
ドニの指が、罫の上を這った。数字を数える人の手つきだった。
この人は職業として、こういう紙を四百九十日ぶん見ても、ひるまないはずの人だった。実際、五冊目までは平気な顔で繰っていた。
六冊目の途中で、その指が止まった。
「……四百九十日というのは」
「はい」
「一年半でございます」
「そうですね」
「一年半、この屋敷は、帳簿に載らない者を一人、使っておりました」
「そういう言い方をされますと、角が立ちます」
「角が立つ話でございます」
ドニは、六冊目を閉じた。閉じる音が、思ったより大きかった。
「奥様。ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」
「はい」
「この書式を作りましたのは、十年前の五の月でございます」
「そのようですね」
「わたくしは、南翼の改築の費目を立てるように申しつかりました。旦那様からではございません。先代の御用人からでございます」
ドニは、帳簿の背を指でなぞった。
「そのとき、硝子は『奥様のご実家から』と申し送りがございました。ですから、購入の費目を立てませんでした」
「実家から、というのは、間違っておりません」
「間違ってはおりません。ただ、それは物の出どころでございます。人の出どころではございません」
わたくしは、その言い方に少し驚いた。この人は十年かけて同じ結論に着いていて、書式を直す機会が来なかっただけなのかもしれない。
「ドニ」
「はい」
「十年、気づいておられましたか」
「……三年目でございます」
「七年、黙っておられた」
「はい」
「なぜ」
「聞かれませんでしたので」
わたくしは、その答えを聞いて、返す言葉を持たなかった。同じ言葉を、わたくしも今日この人に言ったばかりだった。
◇
ドニは目録を書き直すと言った。わたくしは断った。
「目録は、そのままで結構です。窯と道具と型と板だけ。それが契約書の言うわたくしの持参財です」
「ですが、この帳面は」
「差し上げません。わたくしのものです」
「では、写しを」
「取らせません」
ドニは礼をした。深い礼だった。この人が家令として下げる角度ではなかった。
「奥様」
「はい」
「……失礼を申し上げますが。旦那様は、この帳面をご覧になったことが」
「一度も」
「お見せに」
「見せません」
わたくしは箱に帳面を戻した。蓋が反っているので、上から押さえて閉めた。
「見せたら、数えていたことが知られてしまいます」
「知られては、いけませんので」
「はい」
「なぜでございましょう」
わたくしは、その問いに答えなかった。
答えるとすれば、こうだ。数えていたと知られたら、この十年が我慢だったことになる。我慢だったことにすると、明日から続けられない。
続けるつもりでいるあいだは、数えていないふりが要った。もう、要らない。
◇
その夜、屋敷の南翼で薪がくべられた。
くべたのは、いつもの下男だった。彼は温度計を見ない。見る役の人間が、この十年ずっと別にいたからだ。
目盛りは、十六まで下がっていた。誰も、二つ足りないことに気づかなかった。
書きながら、四百九十日という数字を三回数え直しました。一年半です。誰の帳簿にも載っていない一年半が、この屋敷にはあります。
父の帳面には天気の欄があって、娘の帳面にはありません。作らなかったからです。理由は書きませんでした。
次話——荷車に板を積みます。屋敷の廊下を通るとき、一枚だけ、目を合わせない肖像画があります。




