第3話 買い手が来ました
四日目の朝、工房の戸口に男が立っていた。
外套の肩に霜が降りている。溶けかけて、生地の色が二段に分かれていた。夜通し馬車を走らせて、明け方に着いた人の霜の乗り方だ。
従者を連れていない。商人がひとりで領境を越えるのは、荷が無いときか、急いでいるときのどちらかだ。
「レナール硝子商会の、オーギュスト・レナールと申します」
名乗りながら、彼は工房の中を見ていた。わたしの顔ではなく、壁際に立てかけた板を見ていた。
「失礼、先に板を見せていただいても」
「どうぞ」
男は板の前に膝をついた。手袋を外して、縁を指でなぞる。爪ではなく、指の腹で。爪を当てる人は、たいてい硝子を知らない。
それから板を少し傾けて、朝の光を通した。光が床に落ちる。歪みがあれば、そこに縞が出る。縞は出なかった。
「……ああ」
男は、そういう声を出した。感嘆でも落胆でもない、確かめ終わった人の声だった。
板は四十枚ある。持ち出すつもりで、前の晩に立てかけておいたものだ。彼はその端から順に、四枚目まで同じことをした。
四枚目で手を止めて、床の光を見た。四つの四角が、少しずつ形を変えて並んでいる。厚みが違うからだ。
わたくしは、その並び方でこの人が何を見ているのかが分かった。分かってしまった、というほうが近い。
◇
「今年の板を、例年どおり」
立ち上がりながら、彼は言った。
「うちは十年、ダルクール伯爵家から板を買っております。毎年、春に三十枚。今年はまだ話が来ておりませんでしたので、こちらから伺いました」
「十年」
「はい。最初の年からです」
わたくしは、そのとき初めて、この人の顔を見た。
三十半ばだろうか。商人の着るものを着ている。仕立てはよいが、袖口が二度直してある。着倒す人の服だった。
指の付け根に、硝子焼きの火傷の痕がある。古い痕だ。若い頃に窯場にいた人の手だった。
「今年は、出ません」
「——ご事情が」
「窯を落としました」
男の表情は変わらなかった。ただ、視線が板の方へ戻った。落胆を顔に出さない人ではなく、出す前に別のことを考えはじめる人だ。
「落とされた。修繕ですか」
「いいえ」
「では、しばらく」
「はい」
「しばらく、と申しますのは」
「決めておりません」
男は板の縁を、もう一度だけなぞった。
◇
「不躾を承知で申し上げます」
彼は言った。
「わたしはこの十年、この板を焼いている職人に一度も会っておりません。伯爵家の名で買っておりましたので」
「そうでございましょうね」
「今日こちらへ伺ったのは、板を買うためだけではありません」
「といいますと」
「会いたかったのです。この気泡の逃がし方をする職人に」
わたくしは、手を止めた。握っていたのは荷造りの縄で、掌に繊維の跡がついていた。
「……気泡の」
「ええ」
男は急に早口になった。敬語はそのままなのに、言葉の間が詰まる。硝子の話をするときだけ、この人は商人でなくなるらしい。
「板硝子には必ず泡が残ります。種の中に空気が入りますので、どうやっても消えません」
「はい」
「普通は中央に散らして目立たなくする。散らせば一つ一つが小さくなって、遠目には見えなくなります」
「そうですね」
「この板は違う。泡を全部、縁の三分のところまで送って、そこで殺してある」
彼は板を光にかざした。四角い光が床に落ちて、その縁だけが細かく粒立っている。
「だから板の真ん中がまっさらになる。手間がかかるやり方です。市場では誰も評価しません。値段が同じですから」
「……ええ」
「十年、毎年、同じ手つきの板が来ました」
彼は板を下ろした。下ろすとき、床に置くのではなく、壁へ立てかけてから手を離した。
「これは、人の癖です。技術ではなく、癖です。技術なら弟子が真似ます。真似た板は、十年で一枚も来なかった」
◇
工房の奥で、バティストが咳払いをした。
老人は薪を運ぶ手を止めて、こちらを見ないようにしていた。見ないようにするのが下手な人だ。首の向きが不自然に固まっている。
わたくしは口を開いた。それから、閉じた。名乗るのに、二つ数えるだけの間があった。その二つのあいだに、考えたことがある。
——名乗れば、この人は「伯爵夫人が趣味で」と思うだろう。
十年、そう思われてきた。屋敷の者にも、領の者にも。
奥様は硝子がお好きで、実家の窯をまだいじっておられる。そういう言い方をされてきた。悪気のある言い方ではない。だから、訂正する場所がなかった。
好きでやっていたと言われたら、十年ぶんの帳面が、一枚の紙になる。
「……職人は、いまはおりません」
わたくしはそう言った。
「そうですか」
男は残念そうな顔をしなかった。ただ、ゆっくり頷いた。
「では、いつか」
「いつか、とは」
「戻られたときに」
「戻るとは申しておりません」
「はい。ですから、いつか、と」
言い方に、押しがなかった。押さない人だ。押さないのに、引き下がってもいない。
商いの上手な人は、こういう間の取り方をする。ただ、この人の場合は、上手なのではなく、単に急いでいないだけに見えた。
十年、春に三十枚を待っていた人だ。待つのに慣れている。
◇
彼は懐から札を出して、作業台に置いた。
「王都リエンの、東通り。硝子の卸をやっております」
「はい」
「その板を売る気になられたら、あるいは——焼く気になられたら、いつでも」
わたくしは札を見た。通りの名の下に、小さく地図が刷ってある。倉の位置と、その隣に「貸工房」と書いてある四角があった。
「貸工房を、お持ちなのですか」
「持っております」
「借り手は」
「おりません」
男は少し笑った。笑うと、目尻に細い皺が三本出た。
「条件が悪いのです」
「といいますと」
「見ていただければ分かります」
「値をお聞きしても」
「月に銀貨で十二」
わたくしは、その数字を聞いて顔を上げた。王都の相場を知らないが、この領の借地料の倍にはならない。板を四十枚も置ける建物で、その値はない。
「安うございます」
「ですから、条件が悪いのです」
◇
馬車が出ていったあと、バティストが薪をどさりと置いた。
「お嬢さん」
「言わないでください」
「言いますとも」
老人は板の方を顎で示した。
「あの旦那は、板しか見とらんかった。あんたの顔を、最後まで見なかった」
「失礼な方だと」
「逆です」
バティストは、灰の付いた手を前掛けで拭いた。拭いても落ちない灰だ。四十年ぶんの灰は、皮膚の側に入っている。
「この十年、あんたの仕事を見た人間は、この領に一人もおりませんでしたぞ」
「屋敷の方々は、南翼を褒めてくださいました」
「部屋を褒めたんです。板を褒めたんじゃない」
わたくしは、札を持ち上げた。
紙が薄い。刷りが丁寧だ。裏には、荷を出す日の目安まで刷ってある。几帳面な商いをする人の札だった。
——一等品。
口の中で、そう言った。板のことではない。
オーギュストという人が出てきました。
この人は十年、名前も顔も知らない誰かの仕事に惚れています。まだ本人には気づいていません。
次話——家令のドニが持ってきた目録には、十年ぶんの「奥様の材料費」が載っています。金額の欄が、ずっと空白です。




