第2話 窯を落とします
窯の火は、一日では落ちない。三日かけて薪を減らし、風を絞り、炉の底に残った熱を少しずつ逃がす。
急に冷やすと煉瓦が割れる。煉瓦は焼き締まって硬いように見えて、中に無数の穴がある。その穴の空気が急に縮むと、内側から崩れる。
父はそれを「窯を寝かせる」と言った。起こすときのために、丁寧に寝かせるのだと。
わたしは朝いちばんに、風口を三分の一まで閉じた。炉の中の赤が、少しだけ濃くなった。
「お嬢さん」
バティストが、薪をかかえたまま立ち止まっていた。腕に六本。この老人は一度に六本しか運ばない。七本目を足すと足元が見えなくなるからで、それを四十年守っている。
「春の型が、台に出しっぱなしですぞ」
「ええ」
「削らんのですか」
「削りません」
「では、今年は何枚焼きます」
「焼きません」
老人は、しばらく薪をかかえていた。
「……何枚も、ですか」
「一枚も」
それから、薪を積み場へ戻した。一本ずつ、音を立てないように置いていく。戻す音が、いつもより長く続いた。
「風口は」
「三分の一まで閉じました」
「わしがやりましたのに」
「わたくしがやりたかったのです」
◇
屋敷の書棚の、下から二段目に、婚姻の契約書がある。
十年前の春に交わしたもので、封蝋はとうに割れている。誰も開けないからだ。開ける用のない紙は、埃のかぶり方でわかる。表側だけが灰色になって、綴じの内側は嫁いだ日のまま白い。
第一条から第三条までは、領地と持参金の話だ。当時のわたしは、そこしか読まなかった。読んでも意味がわからなかったので、読み流したというほうが近い。
わたくしは第四条を読み返した。
——妻ヴェルミリオが婚姻に際して持ち込みたる硝子工房、その窯、道具、型、および在庫の板硝子は、いっさい妻の持参財とする。婚姻の継続にかかわらず、その所有は移らない。
父の字ではない。父の代わりに書いた、公証人の字だ。角の立った、読み違えようのない書き方をする人だった。
父は、この一条のために三日粘ったと聞いている。伯爵家との縁組みで、そこだけは譲らなかった。
娘に家をやるのではない、窯をやるのだ——と言ったそうだ。わたしは十八だった。意味がわからなかった。いま、わかる。
◇
「奥様。お呼びと伺いましたが」
家令のドニが、帳簿を胸に抱えて入ってきた。五十を過ぎて、背筋だけがまだ真っ直ぐな人だ。この屋敷の紙という紙は、この人の手を通る。
「工房を引き上げます」
「……は」
「窯と、道具と、型と、在庫の板です。三日で火を落として、四日目に運び出します」
ドニは帳簿を持ち直した。それから、抱えていた腕を下ろして、両手で持った。この人が帳簿を両手で持つのは、数字が合わないときだけだ。
「奥様。工房の修繕をなさるのでしたら、書式がございます。おっしゃっていただければ、こちらで手配を」
「修繕ではありません」
「では、何を」
「引き上げます」
同じ言葉を二度言った。ドニの目が、わたしの顔の上を二度往復した。
「……引き上げる、と申しますのは」
「持ち出します」
「どちらへ」
「決めておりません」
「決めておられぬのに、運び出すのでございますか」
「はい」
ドニは、帳簿の角を指で押さえた。
「……旦那様には」
「お伝えください」
「なんと」
「そのままお伝えくだされば結構です」
ドニは何か言いかけて、やめた。それから、深く礼をして出ていった。
彼はきっと「奥様が工房を片づけている」と伝える。ユリアン様はきっと「そうか」と言う。それでいい。わたくしは、まだ何も嘘をついていない。
◇
三日目の夜、火が落ちた。
炉の口から赤が消えるとき、ごく低い音がする。空気が縮む音だ。ぱき、でも、ごう、でもない。しいて言えば、大きなものが息を吐き切った音に似ている。
バティストとわたしは、並んで立っていた。窯の中が、赤から、鈍い橙になり、灰色になっていく。灰色になってからも、顔に当たる熱はしばらく残った。
「……十年ぶりですな」
「ええ」
「お嬢さんの親父さんが死んだ年に、いっぺん落として。それきりでした」
「そうでしたね」
「あのときは、三日で起こしました」
「はい」
「今度は」
わたしは答えなかった。老人も、それ以上は聞かなかった。
炉の底で、灰が少しだけ崩れた。崩れた場所から、細い煙が上がって、すぐに消えた。
「お嬢さん。わしはついて行きますぞ」
「まだ、どこへとも申しておりません」
「どこでも同じです」
「腰が」
「腰は、どこにいても痛みます」
老人は、炉の縁を撫でた。煉瓦の表面に、指の跡が白く残った。
「この窯は、親父さんが二十年前に積んだものです。あんたが灰をかいとった頃に、もう立っとりました」
「はい」
「置いていきなさるので」
「運べませんので」
「壊しますか」
「いいえ」
わたしは首を振った。
「そのままで結構です。誰かが使うかもしれません」
老人は、それには答えなかった。
この窯を使える人間が、この領にいないことを、老人は知っている。わたしも知っている。
◇
屋敷の南翼には、その夜も灯りがついていた。
温室の硝子は、内側から見ると屋敷でいちばん明るい部屋に見える。外から見ると、いちばん脆い部屋に見える。
温度計の目盛りは十八にしてある。薪も、あと三月ぶん積んである。
焼き替えの要る東の三十枚には、夏のうちに印をつけてある。桟の裏に鉛筆で、小さく丸を。誰かが見れば分かるようにしてある。
誰も見ないだろうと思いながら、十年つけてきた印だった。わたくしが今日まで数えてきたものは、全部、置いていく。
◇
「アニエス」
翌朝、廊下でユリアン様とすれ違った。この人がわたしの名を呼ぶのは、頼みごとのときだけだ。十年で覚えた。
「工房を片づけているそうだな」
「はい」
「そうか。……無理をしないでくれ。リゼットの部屋のことは、いつもすまない」
「いいえ」
「何か要るものはあるか。人手なら回す」
「結構でございます」
「そうか」
わたくしは礼をした。それから、こう言った。
「あの部屋の硝子は、あと一冬はもちます」
ユリアン様は少しだけ首をかしげて、それから頷いた。
「ああ。頼む」
——「あと一冬は」と言ったのに。この人は、その先を聞かなかった。
廊下の窓から入る朝の光が、床に四角く落ちている。その光の中を、埃がゆっくり回っていた。
夫の靴音が遠ざかって、階段の下で消えた。
わたくしは、その光の中にしばらく立っていた。十年、この廊下を朝に一度、夜に一度、通っている。
窓は南向きで、桟の割りが四つ。硝子は嫁いでくる前から入っていたもので、厚みがまちまちだ。三枚目の下のほうに、小さな気泡が三つ縦に並んでいる。
嫁いだ最初の年に、それを直しましょうかと申し上げたことがある。ユリアン様は「気づかなかった」と仰った。
それきり、直していない。
持参財、という言葉が出てきました。
十年前に、娘のためではなく窯のために三日粘った父親がいます。
次話——四日目の朝、工房の戸口に、王都から来た男が立っています。買いに来たのだそうです。「今年の板を」と。




