第1話 十年目の窓
硝子師の娘が、伯爵家へ嫁いで十年。
誰にも捨てられておりません。ただ、ずっと二番目でした。
その窓は、去年より髪一筋ぶん傾いている。わたしは指の腹で桟をなぞり、目を細めた。
南翼の温室は、東の三枚目からいつも歪む。冬の朝いちばんに霜が乗るのがそこだからで、夏のうちに焼き直しておかないと、年が明ける頃には縁から裂ける。
指を離すと、桟の木に細い筋が残った。木が湿気を吸って膨らんでいる。硝子が傾いたのではなく、木のほうが動いたのだ。それなら、まだ直しようがある。
——今年で、十年。
背後で、咳の音がした。乾いた音ではなく、喉の奥に何かが張りついているときの音だった。
「奥様。……申し訳、ありません」
「お気になさらないで」
わたくしは毛布を掛け直した。この方の咳は季節で変わる。夏は軽く、秋の終わりから重くなり、真冬に入ると音そのものが小さくなる。小さくなるのが、いちばん悪い。
「今朝は、いくつでございましょう」
「十六でございます。あと二つ、上げます」
「……いつも、申し訳のないことでございます」
「炉を開けるだけですので」
嘘ではない。炉を開けるのは、たしかに一瞬だ。そのために薪を割り、乾かし、積み替え、風の日は煙の逆流を見に来る。それは炉を開けることのうちに入らない、ということにしている。
わたくしは柱の温度計を見た。真鍮の枠の、同じところだけが手垢で光っている。前掛けの隠しから帳面を出して、日付と、十六、と書いた。鉛筆の先が丸くなっていたので、爪で削った。
「奥様は、何を書いておられるのですか」
「数でございます」
「何の」
「板の枚数と、この部屋の目盛りと、外の気温を」
リゼット様は、それ以上お聞きにならなかった。聞かない方だ。十年、一度も。
書き終えたところで、廊下から夫の声がした。
「アニエス。今年も、リゼットの部屋を頼む。……いつもすまない」
十年で、何度目だろう。わたしは、数えていた。それが、いけなかったのだと思う。
◇
ダルクール伯爵家の南翼は、もともと物置だった。石壁で、窓は腰の高さのものが四つきり。冬に使わない家具を入れておく部屋で、誰も名前をつけていなかった。
十年前、わたしがこの家へ嫁いだ年に、ユリアン様が幼馴染のオーブリー嬢を引き取られた。胸の弱い方で、冷えた空気を吸うと血の混じった咳が出る。
冬を三度は越せないと医者が言った——という話を、わたくしは嫁いだ翌月に侍女から聞いた。ユリアン様から聞いたのではない。
だから、硝子を入れた。
実家はモンフォールの川沿いで代々の硝子工房をやっていて、板硝子を大判で焼ける窯は、この領にひとつしかない。父の窯だ。
わたしは十のときから灰をかき、十五で最初の一枚を通した。父は褒めなかった。「並品だ」と言って、そのまま倉へ入れた。
嫁ぐ話が決まったとき、父はもう寝たきりだった。それでも公証人を呼びつけて、契約の条項で三日粘ったという。
南翼の壁を落として、百二十枚を入れた。夏の陽が入りすぎないよう南面は少しだけ厚く、東面は朝の光を通すよう薄く。
厚みが違えば、冷えたときの縮み方も違う。境目は三枚おきに、髪一筋ぶんずつ変える。急に変えると、そこで裂ける。
この割り方を見つけるのに七年かかった。確かめるのに、さらに三年かかった。
最初の三年は、毎年どこかが裂けた。裂けるたびに屋敷の者は「硝子は割れるものですから」と言った。誰も、割れない硝子があると思っていなかった。
リゼット様は、三度どころか十度の冬を越された。医者は「丈夫になられた」と言った。誰も、硝子の話はしなかった。
◇
夕方、領都の収穫祭へ向かう馬車が玄関に着いた。四頭立てで、車体に家紋の入った、年に二度しか出さないほうの馬車だった。
ユリアン様が先に乗り、それから手を差し出して、リゼット様を乗せる。彼女は薄い外套の襟をあわせて、申し訳なさそうに会釈をした。
あの外套では領都まで保たない。馬車の中には湯たんぽが二つ積んである。積ませたのは、わたくしだ。
隣領のヴァレー夫人が、あとから来て、わたしを見た。
「あら、ダルクールの奥様はご一緒なさらないの」
「ええ」
「もったいないこと。今年は南の商人が来ておりますのよ。硝子の器を持ってくるそうですわ。奥様、そういうものはお好きでしょう」
「……ええ」
「では、なおのこと」
わたくしが答えるより先に、御者台の脇から夫の声がした。
「妻は丈夫だから」
それだけだった。
「まあ。羨ましいこと」
ヴァレー夫人は、そう言って笑った。
「うちの人など、わたくしが半日出ただけで屋敷が回らなくなりますのよ。奥様は、いてもいなくてもお困りにならないのねえ」
「ええ」
「褒めておりますのよ」
「存じております」
悪気はない。この方にも、夫にも。十年、一度もなかった。
夫人が曖昧に笑って、馬車の扉が閉まる。車輪が砂利を噛んで、灯りが門の方へ遠ざかっていった。
わたくしは玄関に立ったまま、それを見ていた。外套を着ていない。着る理由が、なかった。
◇
工房へ戻ったのは、日が完全に落ちてからだった。屋敷から川沿いを歩いて二十分。
この道を十年、朝と夜に往復した。石が三つ、決まった場所に出ている。足がもう覚えていて、暗くても躓かない。
バティストが窯の前で居眠りをしていて、わたしの足音で起きた。六十を三つ越えた老人だ。
父の弟子で、父が死んでからは、わたしより長くこの窯の火を見ている。
「終わりましたかい」
「ええ。目盛りは十六まで戻しました」
「十八にしとかんと、あの方の胸には足りませんぞ」
「明日、上げます」
「明日、明日と。今年で何度目です」
「数えておりません」
「嘘をおつきなさる。あんたが数えとらんことなど、一つもありませんぞ」
老人は、灰をかき混ぜた。火の粉が二つ、上がって消えた。
「収穫祭は」
「行っておりません」
「行きなされ」
「型を作りますので」
「型は逃げません」
「木が締まりませんので」
「木も逃げません」
バティストは灰かきを立てかけて、腰を叩いた。
「逃げるのは人だけです」
わたしは作業台の前に立った。この時期にやることは決まっている。翌年の春に焼く三十枚ぶんの型をつくる。木枠を組み、寸法を刻み、乾かす。ひと冬かけて木が締まると、春の一枚目が素直に通る。
十年、同じ日に、同じ数の型を作ってきた。
わたしは木を手に取った。それから、置いた。もう一度、手に取って、また置いた。手のひらに、木の粉が薄くついていた。
「……お嬢さん」
「なんでもありません」
「三度、置きなすった」
「数えないでください」
「数えますとも。四十年、この工房で数えてきましたので」
「バティスト」
「へい」
「今夜は、もうお休みください」
「へい」
老人は立ち上がった。それから、戸口で一度だけ振り返った。
「型は、明日でも間に合いますぞ」
「ええ」
「明後日でも」
わたくしは布をかけて、灯りを消した。木は、削られないまま台の上に残った。
アニエスは怒りません。声も荒らげません。
ただこの人は、十年ぶん、全部数えて覚えています。
次話——窯の火は、落とすときに音がします。落ちたあと、屋敷の誰も、その音を聞いていません。




