第七話 聖務院の記録台で、私は声の持ち主を名乗る
王都聖務院の記録台は、冷たい白石でできていた。
貴族の婚約、洗礼、葬送、鐘楼管理。王都で祈りに関わる記録は、すべてこの建物のどこかに納められる。エリアナは幼い頃、父に連れられて一度だけ来たことがあった。その時、彼女は控えの廊下で待たされ、父だけが記録室へ入った。
今日は違う。
セラフィナ記録長の案内で、エリアナ自身が記録台の前に立っていた。隣にはアレクシス、後方には西礼拝堂の書記がいる。ベルフォード侯爵家側には父グラード、カイン、そしてオルレアン伯爵家の代理人が座っていた。メリッサの姿はない。父が出席を止めたのだろう。
「本日の確認事項は三つです」
セラフィナ記録長の声は、鐘のように余韻を引かない。淡々としているからこそ、逃げ場がなかった。
「一、ベルフォード家祝鐘における声名札の登録者。二、メリッサ・ベルフォード嬢の婚約式記録不成立の理由。三、王都十二鐘の基点管理不備について」
父が口を挟む。
「これは家内の不和に過ぎません。娘が感情を乱し、家の祈祷台を勝手に操作した」
エリアナの指先が冷えた。
勝手に。感情を乱し。父の言葉は、彼女が幼い頃から恐れてきた響きを持っている。何かを訴えれば、感情的だと言われる。体調を訴えれば、我儘だと言われる。黙って耐えれば、当然だと言われる。
アレクシスは何も言わなかった。
代わりに、エリアナの前へ筆談板を少し寄せた。あなたが書ける、という合図だった。
彼女は息を整え、書いた。
『私は自分名義の声名札を外しました。他人名義で使用されることに同意していなかったためです』
セラフィナ記録長が読み上げる。
父は鼻で笑った。
「娘の同意など、家の礼拝業務に逐一必要なものではない。エリアナはベルフォード家の娘だ」
「では、登録台帳を確認します」
セラフィナは分厚い台帳を開いた。
「ベルフォード家祝鐘、現登録者エリアナ・ベルフォード。登録条件、本人発声、本人名義、過負荷時の休声。登録時の保護者署名は故セシリア・ベルフォード夫人」
母の名が出た瞬間、エリアナは顔を上げた。
セシリア。母の名。懐かしさと痛みが同時に胸を打つ。母はエリアナの声名札を作った時、何度も言った。声は贈り物だけれど、喉はあなたのもの。あの言葉は、ただの優しい慰めではなかった。登録条件として、母が残してくれていたのだ。
父の顔色が変わる。
「古い記録だ。家の事情に合わせて運用することは認められている」
「条件変更の申請はありません」
「私が侯爵だ」
「侯爵であることは、他者の声名札を他者名義で使用する許可にはなりません」
記録台の空気が固まった。
カインが軽く咳をした。
「記録長、誤解があります。エリアナの声は確かに素晴らしい。しかし婚約式では、家の一体性を示すために、姉妹で協力する意図でした。名義は便宜上のものです」
エリアナはカインを見た。
便宜上。
婚約者を妹に移すことも、声を妹名義にすることも、彼にとっては便宜だったのだろう。痛みを感じる人間を、便宜という薄い布で隠す。
彼女は筆を取る。
『便宜上であれば、私の名義で記録しても差し支えなかったはずです』
読み上げられた瞬間、カインの表情が強張った。
セラフィナ記録長は台帳の別ページを開いた。
「さらに確認します。過去五年間、ベルフォード家の婚約式、洗礼式、葬送において、実際の基準詠唱者と式典上の表記に不一致の疑いがあります」
父が立ち上がった。
「侮辱だ!」
「座ってください。これは聖務院の記録確認です」
セラフィナの声は変わらない。だがその場にいる全員が、彼女の言葉に従った。
エリアナの前に、小さな紙束が置かれた。過去の式典記録。花嫁の名、洗礼を受けた子の名、葬送された者の名。その横に、基準詠唱者欄がある。ある時は空白。ある時は「ベルフォード家令嬢」。ある時は、父の筆跡で「家内詠唱」とだけ書かれていた。
エリアナの名前は、少ない。
あれほど歌ったのに。
胸が押し潰されるようだった。記録に残る小さな名だけを支えにしてきた。その名すら、いつの間にか薄められていた。
喉の奥が詰まる。声を出してはいけない日ではない。だが、出せば泣き声になりそうだった。
アレクシスが、机の下で砂時計をそっと置いた。
急がなくていい。
エリアナは時間を使った。砂が半分落ちるまで、ただ息をした。父は苛立ちを隠さなかったが、セラフィナ記録長は急かさない。
やがて、彼女は一文を書いた。
『私が歌いました』
そして、もう一文。
『記録の訂正を求めます』
短い文字なのに、書き終えると背中が汗で冷えていた。
セラフィナはうなずく。
「訂正請求を受理します。調査期間中、ベルフォード家祝鐘の公的使用を一時停止します」
父が怒鳴った。
「そんな権限があるものか!」
「あります。王都十二鐘の基点管理不備が確認されています。ベルフォード侯爵家には、調査終了まで基点鐘管理者としての職務停止を命じます」
職務停止。
その言葉が落ちた瞬間、父の顔から血の気が引いた。
侯爵家の誇りは、祝鐘だった。父が客に何度も語った由緒。王都の朝に先んじる響き。それが、一時的とはいえ取り上げられる。
エリアナは勝った気にはなれなかった。体の奥がひどく疲れている。母が残した条件を父が無視していたこと。自分の名が消されていたこと。それらを知った痛みのほうが、父の屈辱よりも大きかった。
審理の終わりに、セラフィナが正式に確認した。
「エリアナ・ベルフォード殿。あなたは、自身の声名札の持ち主であり、現在の職務は西礼拝堂臨時詠唱士。これで相違ありませんか」
エリアナは頷いた。
けれど、今回は書くだけでは足りない気がした。喉の状態を確かめ、ほんの短く声を出す。
「……はい。私の声は、私の名で使います」
掠れていた。美しい祝歌ではない。だが、記録台の上で、その声は誰の名にも隠されなかった。
父は初めて、娘の声を命令ではなく証言として聞いた。




