第八話 元婚約者は、優しい顔で私を取り戻そうとした
聖務院の審理が終わった夕方、カイン・オルレアンが西礼拝堂を訪れた。
受付のリディアは、いつものように面会簿を差し出した。
「ご用件、面会希望者、希望時間、発声を伴う依頼の有無を書いてください」
カインは一瞬、面食らった顔をした。
「私はエリアナの元婚約者だ。そこまで形式ばらなくても」
「西礼拝堂の詠唱士に面会する方は、皆様同じです」
リディアの返事は丁寧だが、譲らない。エリアナは二階の廊下から、そのやり取りを聞いていた。家にいた頃、カインはどこへ行っても自然に扉を開けてもらえる人だった。優しい笑みと伯爵家の名で、誰も彼を拒まなかった。
ここでは、面会簿を書かなければ階段を上がれない。
それだけのことが、エリアナには不思議なほど心強かった。
カインはしばらくして、面会室へ通された。エリアナはアレクシスの同席を断った。逃げないためではない。カインと向き合う言葉を、自分の手で選びたかった。
ただし、扉は少し開けておく。声を使いすぎないための砂時計も机に置く。それは弱さではなく、条件だった。
「エリアナ」
カインは、昔と同じ声音で呼んだ。
学院時代、彼はその声で彼女に礼を言った。試験前の小祈りを歌った時。冬祭りの鐘を整えた時。彼の母の病室へ祈りを届けた時。いつも優しく、どこか距離を置いた声だった。
「体調はどうだい」
エリアナは石板に書いた。
『業務に支障がない範囲で回復しています』
「そんな固い言い方をしなくてもいい。僕は君を心配している」
心配。
その言葉が、喉ではなく胸に引っかかった。カインは昔から心配するのが上手かった。だが、心配した後で、彼女の仕事を減らしたことはない。喉が痛いと知っていて、祝歌を頼んだ。表に立つのが苦手だろうと決めつけ、幕裏に置いた。
『ご用件は何でしょう』
カインの笑みが少しだけ曇る。
「君が怒っているのは分かる。だが、事を大きくしすぎると、君自身の評判にも関わる。聖務院での訂正請求は、取り下げたほうがいい」
『なぜですか』
「貴族社会は、家を公に責める令嬢を好まない。君が西礼拝堂で働くことも、長くは認められないかもしれない。だったら、僕が間に入る。メリッサとの婚約は、しばらく保留にしてもいい」
エリアナは顔を上げた。
保留。
自分の婚約を妹に移した男が、それを保留にすることで、何かを与えているつもりなのだ。
「君は本来、僕の婚約者だった。僕たちが落ち着いて話し合えば、元の形に近いところへ戻せる。もちろん、祝歌の名義も君に戻す。だから、これ以上ベルフォード家を追い詰めるのはやめよう」
声は穏やかだった。優しい顔も崩れていない。
だが、言葉の中心には一度もエリアナの望みがなかった。
元の形。
その形の中で、彼女は何度喉を痛めただろう。カインの隣に立つ婚約者でありながら、彼の社交に同行することは少なく、式や祈りの時だけ呼ばれた。彼は彼女の声を褒めたが、彼女の疲れを日程に入れなかった。
エリアナは筆を取った。
『私は元の形に戻りたくありません』
カインは眉を寄せる。
「感情的になっているだけだよ。君は静かな生活に向いている。西礼拝堂の仕事は一時的な避難としてはいいが、貴族令嬢が長く続けるものではない」
『私は詠唱士として契約しています』
「契約は解除できる」
『婚約も解除できましたね』
カインの口が止まった。
エリアナは自分の書いた文字を見つめた。手が震えている。だが、消さなかった。
彼は長く黙った後、少し低い声で言った。
「君は、僕を責めたいのか」
責めたい。そう思う。けれど、責めるだけなら彼は謝ったふりをして終わるだろう。必要なのは、痛みを彼の感情に渡すことではなく、責任を記録に残すことだ。
『責任を取っていただきたいだけです。婚約解消の正式書面、名誉回復文、慰謝料。祝歌を私の名で戻すこと。以上です』
「金の話をするのか」
『私の喉は、金で治療します』
カインは苦しげに目を細めた。
「君は変わったね」
エリアナは、今度だけ声で答えた。短く、喉に負担をかけないように。
「変わったのではなく、黙らないことにしました」
砂時計の砂が落ち始める。彼女はそこで口を閉じた。
カインは机の上の砂時計を見た。小さな道具だ。けれど、それが彼の言葉より強く面会を区切っている。
「アレクシス・ローヴェに言われたのか」
エリアナは首を横に振る。
『私が決めました』
「彼は君を利用しているかもしれない。西礼拝堂が王都十二鐘の管理権を得たいから、君を立てているだけでは」
その瞬間、扉の外でアレクシスの声がした。
「面会記録にない中傷は、次回から入室制限の対象になります」
淡々としていた。怒っているのではなく、規定を読んでいる声だった。
カインは立ち上がる。
「君には、もう少し柔らかくいてほしかった」
エリアナは彼を見た。
かつて、その言葉に傷ついた。柔らかく。穏やかに。静かに。つまり、扱いやすく。
彼女は最後の返事を書いた。
『柔らかいものは、押し潰されるためにあるのではありません』
カインは返す言葉を持たず、面会室を出ていった。
扉が閉まると、エリアナの背中から力が抜けた。椅子に座ったまま、指先を握りしめる。怖くなかったわけではない。彼の優しい顔は、父の怒鳴り声とは別の形で人を縛る。
アレクシスが入ってきた。彼はすぐには話しかけず、砂時計が落ち切るまで待った。
その沈黙がありがたかった。
砂が落ち切ると、彼は言った。
「あなたの返答は、面会記録として残しますか」
エリアナはうなずいた。
自分が泣きたくなったことも、手が震えたことも、記録には載らない。だが、条件を出したことは残る。
カインが去った後、面会簿の用件欄にはリディアの字で追記された。
『元婚約者による復縁打診。本人、拒否』
短い一行だった。
それでもエリアナには、かつての婚約がようやく自分の手で終わったように見えた。




