第六話 妹は、借り物の祝歌で笑えない
メリッサ・ベルフォードは、婚約衣装のまま鏡の前に座っていた。
白い絹は美しかった。胸元の真珠も、袖口の刺繍も、王都の令嬢なら誰もが羨むものだ。だが、鏡に映る自分の顔は、式の主役とは思えないほど青ざめている。
鐘が鳴らない。
たったそれだけで、衣装の白さは祝いではなく、言い訳を待つ空白に変わった。
廊下の向こうでは、招待客の帰る足音がしている。父は「延期だ」と言い張ったが、誰もその言葉を信じていなかった。婚約式は延期ではなく、成立しなかった。王都聖務院の記録官がそう告げた瞬間、客席の空気は冷たく固まった。
「メリッサ、泣くな」
父が控え室へ戻ってきた。怒りで顔が赤い。
「泣けば、被害者に見えない」
その言い方に、メリッサは顔を上げた。
「私は、被害者なのですか」
「当然だ。エリアナが我儘を起こしたせいで、お前の晴れの日が壊された」
そう言われた時、いつもなら頷けた。幼い頃から、姉は静かで、自分は明るい。姉は奥で歌い、自分は客席で笑う。父がそう決め、屋敷の者もそう扱い、メリッサ自身もその順番に甘えてきた。
けれど、礼拝堂で姉が声名札を外した時の顔が忘れられない。
怒っていた。悲しんでいた。何より、もうこれ以上奪われないと決めた顔だった。
「お父様。お姉様の婚約者を、私がいただいたのは事実です」
父の眉が跳ねた。
「家の都合だ。お前に罪はない」
「でも、祝歌まで私の名前にする必要はありませんでした」
父は苛立ったように杖を鳴らす。
「お前は余計なことを考えるな。王都の社交では、見えるものが全てだ。お前が歌ったと記録されれば、お前の価値が上がる。エリアナは表に出るより、裏で支えるほうが向いている」
メリッサは膝の上で両手を握った。幼い頃、姉が夜明け前に礼拝堂へ向かうのを何度も見た。自分は暖かい寝台に残り、窓の外から鐘の音を聞いた。朝食の席で父が「今日も祝鐘は澄んでいる」と満足げに言うと、姉は少しだけ笑った。
その笑みを、メリッサはきれいだと思っていた。
でも、自分がその声の名義まで欲しがった時、姉の笑みは消えた。
カインが控え室に入ってくる。彼の礼服は崩れていない。だが、目元には焦りがあった。
「メリッサ、今日は仕方がない。エリアナが落ち着けば、式はやり直せる」
「お姉様が落ち着けば?」
「彼女は感情的になっている。君も分かるだろう。昔から自分の立場を大げさに考えるところがあった」
メリッサは彼を見た。
カインは姉の元婚約者だった。姉が彼のために誕生日の小祈りを歌ったことを、メリッサは知っている。カインが王立学院の試験に合格した朝、姉は高熱を押して祝鐘を鳴らした。その日の夜、喉が痛くて食事を残した姉に、カインは「君の声は本当に尊い」と言った。
尊いと言いながら、その声を表に立たせる気はなかった。
「カイン様は、お姉様を愛していなかったのですか」
カインは困ったように笑った。
「愛という言葉は、家同士の契約には軽い。私はベルフォード家との結びつきを大事にした。君は明るく、社交に向いている。エリアナは静かで、祈りに向いている。それぞれの役目がある」
「では、お姉様の役目は、私の名前で歌うことですか」
カインは黙った。
その沈黙が答えだった。
メリッサは立ち上がった。婚約衣装の裾が重い。こんなにも重い衣装を、姉の声で軽く見せようとしていたのだと気づくと、息が詰まった。
「私、お姉様に会います」
父が鋭く言う。
「余計な真似をするな。お前が謝れば、エリアナがつけ上がる」
「謝ることがあるから、謝りたいのです」
「メリッサ!」
父の怒声に、肩が震えた。反射的に謝りそうになる。けれど、今日のメリッサには、姉の外した声名札の音が耳に残っていた。鳴らない鐘の、重たい沈黙。あれは姉が意地悪をした音ではない。姉が限界を知らせた音だ。
メリッサは父の前で初めて、はっきり首を振った。
「私、借り物の祝歌で笑えません」
外へ出ると、客の一部がまだ玄関広間に残っていた。扇の陰で視線が向けられる。メリッサはそれまで、注目されることに慣れていると思っていた。だが、称賛ではない視線は、肌に冷たい針のように刺さる。
その中で、一人の老婦人が小さく呟いた。
「長女の声を奪って飾った花嫁など、誰が祝福するのかしら」
メリッサは足を止めた。
泣きたかった。けれど、それを被害者の涙にしてはいけない気がした。彼女は唇を結び、階段を下りる。
馬車には乗らなかった。婚約衣装のまま歩けば噂になる。分かっていた。それでも、屋敷の中に残るより息ができた。
西礼拝堂へ向かう途中、鐘が鳴った。
王都十二鐘の一つ、薬師広場の時鐘だ。澄んだ音が昼の空に伸びる。姉の声が直接聞こえるわけではない。けれど、その音には、姉の名で記録された基準があるのだと、メリッサは知っている。
西礼拝堂に着くと、受付の少女リディアが驚いた顔をした。
「ベルフォード侯爵家の……」
「エリアナお姉様に会えますか」
「休声時間です。面会は、本人の同意がある場合だけです」
本人の同意。
それを聞いて、メリッサは目を伏せた。自分は今まで、姉の同意をどれだけ考えただろう。
「では、手紙を渡してください」
彼女は震える手で紙を借りた。何を書けば許されるか、分からない。許してもらうための言葉を書けば、また自分の都合になる。
だから最初の一行だけ、正直に書いた。
『お姉様。私は、お姉様の声を借り物だと思っていました。本当は、盗んでいました』
その一文を書いた途端、涙が紙に落ちた。
リディアは黙って新しい紙を差し出してくれた。メリッサはもう一度書き直す。今度は泣いて紙を汚さないように、何度も息を整えながら。
手紙は二階へ運ばれた。
エリアナは休声札の下で、その手紙を読んだ。妹の字はいつも丸く華やかだったが、今日の字はところどころ歪んでいる。
許す、とはまだ書けなかった。
けれど、エリアナは返事を書いた。
『謝罪を受け取ります。私の声をあなたの名で記録する依頼には、今後一切同意しません。あなた自身の言葉で、必要な訂正をしてください』
メリッサはその返事を礼拝堂の入口で読み、胸に抱いた。
姉が許したわけではない。だが、返事をくれた。
それは借り物ではない、自分に向けられた最初の言葉だった。




