表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/9

第六話 妹は、借り物の祝歌で笑えない

 メリッサ・ベルフォードは、婚約衣装のまま鏡の前に座っていた。


 白い絹は美しかった。胸元の真珠も、袖口の刺繍も、王都の令嬢なら誰もが羨むものだ。だが、鏡に映る自分の顔は、式の主役とは思えないほど青ざめている。


 鐘が鳴らない。


 たったそれだけで、衣装の白さは祝いではなく、言い訳を待つ空白に変わった。


 廊下の向こうでは、招待客の帰る足音がしている。父は「延期だ」と言い張ったが、誰もその言葉を信じていなかった。婚約式は延期ではなく、成立しなかった。王都聖務院の記録官がそう告げた瞬間、客席の空気は冷たく固まった。


「メリッサ、泣くな」


 父が控え室へ戻ってきた。怒りで顔が赤い。


「泣けば、被害者に見えない」


 その言い方に、メリッサは顔を上げた。


「私は、被害者なのですか」


「当然だ。エリアナが我儘を起こしたせいで、お前の晴れの日が壊された」


 そう言われた時、いつもなら頷けた。幼い頃から、姉は静かで、自分は明るい。姉は奥で歌い、自分は客席で笑う。父がそう決め、屋敷の者もそう扱い、メリッサ自身もその順番に甘えてきた。


 けれど、礼拝堂で姉が声名札を外した時の顔が忘れられない。


 怒っていた。悲しんでいた。何より、もうこれ以上奪われないと決めた顔だった。


「お父様。お姉様の婚約者を、私がいただいたのは事実です」


 父の眉が跳ねた。


「家の都合だ。お前に罪はない」


「でも、祝歌まで私の名前にする必要はありませんでした」


 父は苛立ったように杖を鳴らす。


「お前は余計なことを考えるな。王都の社交では、見えるものが全てだ。お前が歌ったと記録されれば、お前の価値が上がる。エリアナは表に出るより、裏で支えるほうが向いている」


 メリッサは膝の上で両手を握った。幼い頃、姉が夜明け前に礼拝堂へ向かうのを何度も見た。自分は暖かい寝台に残り、窓の外から鐘の音を聞いた。朝食の席で父が「今日も祝鐘は澄んでいる」と満足げに言うと、姉は少しだけ笑った。


 その笑みを、メリッサはきれいだと思っていた。


 でも、自分がその声の名義まで欲しがった時、姉の笑みは消えた。


 カインが控え室に入ってくる。彼の礼服は崩れていない。だが、目元には焦りがあった。


「メリッサ、今日は仕方がない。エリアナが落ち着けば、式はやり直せる」


「お姉様が落ち着けば?」


「彼女は感情的になっている。君も分かるだろう。昔から自分の立場を大げさに考えるところがあった」


 メリッサは彼を見た。


 カインは姉の元婚約者だった。姉が彼のために誕生日の小祈りを歌ったことを、メリッサは知っている。カインが王立学院の試験に合格した朝、姉は高熱を押して祝鐘を鳴らした。その日の夜、喉が痛くて食事を残した姉に、カインは「君の声は本当に尊い」と言った。


 尊いと言いながら、その声を表に立たせる気はなかった。


「カイン様は、お姉様を愛していなかったのですか」


 カインは困ったように笑った。


「愛という言葉は、家同士の契約には軽い。私はベルフォード家との結びつきを大事にした。君は明るく、社交に向いている。エリアナは静かで、祈りに向いている。それぞれの役目がある」


「では、お姉様の役目は、私の名前で歌うことですか」


 カインは黙った。


 その沈黙が答えだった。


 メリッサは立ち上がった。婚約衣装の裾が重い。こんなにも重い衣装を、姉の声で軽く見せようとしていたのだと気づくと、息が詰まった。


「私、お姉様に会います」


 父が鋭く言う。


「余計な真似をするな。お前が謝れば、エリアナがつけ上がる」


「謝ることがあるから、謝りたいのです」


「メリッサ!」


 父の怒声に、肩が震えた。反射的に謝りそうになる。けれど、今日のメリッサには、姉の外した声名札の音が耳に残っていた。鳴らない鐘の、重たい沈黙。あれは姉が意地悪をした音ではない。姉が限界を知らせた音だ。


 メリッサは父の前で初めて、はっきり首を振った。


「私、借り物の祝歌で笑えません」


 外へ出ると、客の一部がまだ玄関広間に残っていた。扇の陰で視線が向けられる。メリッサはそれまで、注目されることに慣れていると思っていた。だが、称賛ではない視線は、肌に冷たい針のように刺さる。


 その中で、一人の老婦人が小さく呟いた。


「長女の声を奪って飾った花嫁など、誰が祝福するのかしら」


 メリッサは足を止めた。


 泣きたかった。けれど、それを被害者の涙にしてはいけない気がした。彼女は唇を結び、階段を下りる。


 馬車には乗らなかった。婚約衣装のまま歩けば噂になる。分かっていた。それでも、屋敷の中に残るより息ができた。


 西礼拝堂へ向かう途中、鐘が鳴った。


 王都十二鐘の一つ、薬師広場の時鐘だ。澄んだ音が昼の空に伸びる。姉の声が直接聞こえるわけではない。けれど、その音には、姉の名で記録された基準があるのだと、メリッサは知っている。


 西礼拝堂に着くと、受付の少女リディアが驚いた顔をした。


「ベルフォード侯爵家の……」


「エリアナお姉様に会えますか」


「休声時間です。面会は、本人の同意がある場合だけです」


 本人の同意。


 それを聞いて、メリッサは目を伏せた。自分は今まで、姉の同意をどれだけ考えただろう。


「では、手紙を渡してください」


 彼女は震える手で紙を借りた。何を書けば許されるか、分からない。許してもらうための言葉を書けば、また自分の都合になる。


 だから最初の一行だけ、正直に書いた。


『お姉様。私は、お姉様の声を借り物だと思っていました。本当は、盗んでいました』


 その一文を書いた途端、涙が紙に落ちた。


 リディアは黙って新しい紙を差し出してくれた。メリッサはもう一度書き直す。今度は泣いて紙を汚さないように、何度も息を整えながら。


 手紙は二階へ運ばれた。


 エリアナは休声札の下で、その手紙を読んだ。妹の字はいつも丸く華やかだったが、今日の字はところどころ歪んでいる。


 許す、とはまだ書けなかった。


 けれど、エリアナは返事を書いた。


『謝罪を受け取ります。私の声をあなたの名で記録する依頼には、今後一切同意しません。あなた自身の言葉で、必要な訂正をしてください』


 メリッサはその返事を礼拝堂の入口で読み、胸に抱いた。


 姉が許したわけではない。だが、返事をくれた。


 それは借り物ではない、自分に向けられた最初の言葉だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ