表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/7

第五話 戻れという命令に、見積書で返しました

 ベルフォード侯爵家からの正式依頼書は、昼過ぎに届いた。


 封筒は上等な厚紙だった。封蝋には家紋の鐘と薔薇が押されている。エリアナは一瞬、指先が冷えるのを感じた。幼い頃から、その封蝋は命令と同じ意味を持っていた。招集、練習、叱責、式の予定。封を切る前から、喉の奥が硬くなる。


 アレクシスは机の反対側に座っていた。


「開けるのは、あなたです。読みたくなければ、私が要点だけ確認します」


 エリアナは首を振った。逃げたい気持ちはある。だが、父の字を読むことすら誰かに代わってもらえば、また自分の声と同じように、決定権を手放してしまう気がした。


 封を切る。


『ベルフォード侯爵家祝鐘調律について、至急、長女エリアナを派遣されたし。家の内部事情につき、料金は不要。婚約式の損害を拡大させた責任を自覚し、メリッサ名義で祝歌を復旧せよ』


 謝罪はない。


 治療費もない。


 本人名義も、ない。


 エリアナは読み終えると、紙を机に置いた。胸の奥が痛む。腹立たしいのに、同時に、やはりこう来たかという疲れもあった。父は彼女が家を出ても、まだ娘が自分の命令の範囲内にいると思っている。


 アレクシスが静かに言った。


「これは正式依頼書ではありません。命令書です」


 エリアナは石板に書く。


『では、受けられませんね』


「受けられません。ただ、返答は必要です。条件を明記しましょう」


 彼は書式集を開いた。西礼拝堂の机には、驚くほど多くの書式があった。通常依頼、緊急依頼、病床祈り、鐘修理、誓約登録確認、拒否通知、料金未払い催告。祈りの仕事にも帳面があるのだと、エリアナは改めて知る。


 父の家では、帳面は収入と家名のためにあった。ここでは、誰がどれだけ働き、どこから先は断るかを守るためにも使われている。


 エリアナは拒否通知の紙を取り、丁寧に書き始めた。


『一、依頼者名が不明確です。二、発声者名義が本人ではありません。三、料金不要とありますが、緊急調律は日中通常料金の三倍、婚約式当日復旧は五倍です。四、過去の無断使用記録について訂正がありません。五、喉の治療費に関する支払い予定がありません。以上により、現状では受任できません』


 書いている途中、何度も手が止まった。


 自分が父へ料金を請求する。自分が父へ条件を出す。その行為は、祝鐘を沈黙させた時よりも現実味があった。家を出るのは一瞬の勇気でできる。だが、その後も生活し、契約し、断り、請求するには、細かい勇気を何度も出さなければならない。


 階下で受付をしているリディアが、追加の手紙を持ってきた。


「今度はオルレアン伯爵家からです。カイン卿のご実家ですね」


 エリアナの指が止まる。


 オルレアン伯爵家の封蝋は青い鷹だった。内容は父の手紙より丁寧だったが、意味は同じだった。


『この度の混乱により、両家の婚約式は延期を余儀なくされた。エリアナ嬢は元婚約者として節度ある対応を取り、ベルフォード家の祝鐘復旧に協力されたい』


 節度。


 その言葉を見た瞬間、唇を噛んでしまった。鉄の味が薄く広がる。婚約者を妹に移した時、彼らは節度を口にしなかった。幕裏で妹名義の祝歌を歌わせようとした時も、節度はどこにもなかった。


 アレクシスが水差しを押し出す。


「噛まない。喉だけでなく口内も仕事道具です」


 厳しいが、責めてはいない声音だった。


 エリアナは水を飲み、もう一枚の返書を書く。


『節度ある対応として、私は契約外の発声を行いません。元婚約に関する慰謝料、婚約解消の正式通知、名誉回復の書面が確認でき次第、祝鐘復旧依頼の見積もりを送付します』


 書き終えると、胸が少し軽くなった。


 怒りを怒鳴るのではなく、文にして返す。条件に変える。料金に変える。記録に変える。それは、父の礼拝堂では教えられなかった戦い方だった。


 アレクシスは二通の返書を確認し、最後に一つだけ指摘した。


「通常料金の五倍は、規定上、夜間か命に関わる緊急時です。婚約式の見栄は命に関わりません。三倍までです」


 エリアナは思わず声を出しそうになった。笑いだった。慌てて口を閉じ、石板に書く。


『では、父には三倍。カイン様には慰謝料込みの別見積もりで』


「妥当です」


 アレクシスは真面目な顔でうなずいた。


 その真面目さが、かえっておかしかった。笑うと喉が痛むので、エリアナは肩だけを震わせる。久しぶりに、痛み以外で体が震えた。


 夕方、ベルフォード家の使者が返書を受け取りに来た。年配の執事で、エリアナが幼い頃から知っている男だった。彼は彼女の顔を見て、ほっとしたように言った。


「お嬢様、旦那様がお待ちです。今なら叱責も短く済むでしょう。お戻りください」


 昔なら、その言葉に足が動いた。叱責が短く済むなら。家が丸く収まるなら。誰かが機嫌を直すなら。


 エリアナは便箋を差し出した。


「……私は、戻るのではなく、見積もります」


 声は掠れていた。だが言えた。


 執事が目を見開く。


「お嬢様、侯爵家の娘が、父君へ見積もりなど」


「西礼拝堂の詠唱士が、依頼者へ見積もりを出すのです」


 言い終えると、喉がじんと痛んだ。アレクシスがすぐに砂時計を返す。休声の合図だ。


 エリアナはそれ以上何も言わず、木札を扉に掛けた。


『休声中』


 執事は、その札を読んで初めて黙った。父の命令よりも、娘の沈黙よりも、木札に書かれた仕事上の規定が彼を止めたのだ。


 夜、返書がベルフォード家へ届いた。


 父グラードは料金表を見て、杖で床を打ち鳴らした。


「娘が父に金を請求するだと」


 だが、同席していた聖務院の記録官は冷静に言った。


「父娘間の問題ではありません。祝鐘調律業務です。ご不満なら、別の詠唱士へ依頼してください」


 父は答えられなかった。


 別の詠唱士では、ベルフォード家の祝鐘は鳴らない。彼自身がその仕組みを、長年エリアナ一人に押し込めてきたからだ。


 西礼拝堂の二階で、エリアナは初めて自分の稼ぎになる帳面を開いた。


 一行目に、王都十二鐘基準調律。


 二行目に、ベルフォード侯爵家祝鐘調律、見積中。


 家を出た翌日、彼女の名前は祈りの名簿だけでなく、仕事の帳面にも残り始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ