第五話 戻れという命令に、見積書で返しました
ベルフォード侯爵家からの正式依頼書は、昼過ぎに届いた。
封筒は上等な厚紙だった。封蝋には家紋の鐘と薔薇が押されている。エリアナは一瞬、指先が冷えるのを感じた。幼い頃から、その封蝋は命令と同じ意味を持っていた。招集、練習、叱責、式の予定。封を切る前から、喉の奥が硬くなる。
アレクシスは机の反対側に座っていた。
「開けるのは、あなたです。読みたくなければ、私が要点だけ確認します」
エリアナは首を振った。逃げたい気持ちはある。だが、父の字を読むことすら誰かに代わってもらえば、また自分の声と同じように、決定権を手放してしまう気がした。
封を切る。
『ベルフォード侯爵家祝鐘調律について、至急、長女エリアナを派遣されたし。家の内部事情につき、料金は不要。婚約式の損害を拡大させた責任を自覚し、メリッサ名義で祝歌を復旧せよ』
謝罪はない。
治療費もない。
本人名義も、ない。
エリアナは読み終えると、紙を机に置いた。胸の奥が痛む。腹立たしいのに、同時に、やはりこう来たかという疲れもあった。父は彼女が家を出ても、まだ娘が自分の命令の範囲内にいると思っている。
アレクシスが静かに言った。
「これは正式依頼書ではありません。命令書です」
エリアナは石板に書く。
『では、受けられませんね』
「受けられません。ただ、返答は必要です。条件を明記しましょう」
彼は書式集を開いた。西礼拝堂の机には、驚くほど多くの書式があった。通常依頼、緊急依頼、病床祈り、鐘修理、誓約登録確認、拒否通知、料金未払い催告。祈りの仕事にも帳面があるのだと、エリアナは改めて知る。
父の家では、帳面は収入と家名のためにあった。ここでは、誰がどれだけ働き、どこから先は断るかを守るためにも使われている。
エリアナは拒否通知の紙を取り、丁寧に書き始めた。
『一、依頼者名が不明確です。二、発声者名義が本人ではありません。三、料金不要とありますが、緊急調律は日中通常料金の三倍、婚約式当日復旧は五倍です。四、過去の無断使用記録について訂正がありません。五、喉の治療費に関する支払い予定がありません。以上により、現状では受任できません』
書いている途中、何度も手が止まった。
自分が父へ料金を請求する。自分が父へ条件を出す。その行為は、祝鐘を沈黙させた時よりも現実味があった。家を出るのは一瞬の勇気でできる。だが、その後も生活し、契約し、断り、請求するには、細かい勇気を何度も出さなければならない。
階下で受付をしているリディアが、追加の手紙を持ってきた。
「今度はオルレアン伯爵家からです。カイン卿のご実家ですね」
エリアナの指が止まる。
オルレアン伯爵家の封蝋は青い鷹だった。内容は父の手紙より丁寧だったが、意味は同じだった。
『この度の混乱により、両家の婚約式は延期を余儀なくされた。エリアナ嬢は元婚約者として節度ある対応を取り、ベルフォード家の祝鐘復旧に協力されたい』
節度。
その言葉を見た瞬間、唇を噛んでしまった。鉄の味が薄く広がる。婚約者を妹に移した時、彼らは節度を口にしなかった。幕裏で妹名義の祝歌を歌わせようとした時も、節度はどこにもなかった。
アレクシスが水差しを押し出す。
「噛まない。喉だけでなく口内も仕事道具です」
厳しいが、責めてはいない声音だった。
エリアナは水を飲み、もう一枚の返書を書く。
『節度ある対応として、私は契約外の発声を行いません。元婚約に関する慰謝料、婚約解消の正式通知、名誉回復の書面が確認でき次第、祝鐘復旧依頼の見積もりを送付します』
書き終えると、胸が少し軽くなった。
怒りを怒鳴るのではなく、文にして返す。条件に変える。料金に変える。記録に変える。それは、父の礼拝堂では教えられなかった戦い方だった。
アレクシスは二通の返書を確認し、最後に一つだけ指摘した。
「通常料金の五倍は、規定上、夜間か命に関わる緊急時です。婚約式の見栄は命に関わりません。三倍までです」
エリアナは思わず声を出しそうになった。笑いだった。慌てて口を閉じ、石板に書く。
『では、父には三倍。カイン様には慰謝料込みの別見積もりで』
「妥当です」
アレクシスは真面目な顔でうなずいた。
その真面目さが、かえっておかしかった。笑うと喉が痛むので、エリアナは肩だけを震わせる。久しぶりに、痛み以外で体が震えた。
夕方、ベルフォード家の使者が返書を受け取りに来た。年配の執事で、エリアナが幼い頃から知っている男だった。彼は彼女の顔を見て、ほっとしたように言った。
「お嬢様、旦那様がお待ちです。今なら叱責も短く済むでしょう。お戻りください」
昔なら、その言葉に足が動いた。叱責が短く済むなら。家が丸く収まるなら。誰かが機嫌を直すなら。
エリアナは便箋を差し出した。
「……私は、戻るのではなく、見積もります」
声は掠れていた。だが言えた。
執事が目を見開く。
「お嬢様、侯爵家の娘が、父君へ見積もりなど」
「西礼拝堂の詠唱士が、依頼者へ見積もりを出すのです」
言い終えると、喉がじんと痛んだ。アレクシスがすぐに砂時計を返す。休声の合図だ。
エリアナはそれ以上何も言わず、木札を扉に掛けた。
『休声中』
執事は、その札を読んで初めて黙った。父の命令よりも、娘の沈黙よりも、木札に書かれた仕事上の規定が彼を止めたのだ。
夜、返書がベルフォード家へ届いた。
父グラードは料金表を見て、杖で床を打ち鳴らした。
「娘が父に金を請求するだと」
だが、同席していた聖務院の記録官は冷静に言った。
「父娘間の問題ではありません。祝鐘調律業務です。ご不満なら、別の詠唱士へ依頼してください」
父は答えられなかった。
別の詠唱士では、ベルフォード家の祝鐘は鳴らない。彼自身がその仕組みを、長年エリアナ一人に押し込めてきたからだ。
西礼拝堂の二階で、エリアナは初めて自分の稼ぎになる帳面を開いた。
一行目に、王都十二鐘基準調律。
二行目に、ベルフォード侯爵家祝鐘調律、見積中。
家を出た翌日、彼女の名前は祈りの名簿だけでなく、仕事の帳面にも残り始めた。




