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第四話 王都十二鐘は、一節だけで夜明けを返す

 王都十二鐘の調律依頼は、夜明け前に行われることになった。


 西礼拝堂の練習室で、エリアナは契約書の控えをもう一度読み返した。発声は一節のみ。時間は三十息以内。調律後は二時間の休声。聖務院の記録官が立ち会い、声名札は本人の机上から動かさない。


 どれも細かい条件だった。けれど細かいからこそ、胸が少しだけ落ち着いた。家では「一曲だけ」「明日だけ」「家のためだけ」という曖昧な言葉で喉を削られてきた。曖昧な言葉は、いつも弱い者の限界を飲み込む。


 アレクシスは窓のそばで鐘楼の配置図を確認していた。


「十二鐘のうち、完全に沈黙しているのは三つ。濁っているのが四つ。残りは基準音を取り戻せば自力で鳴ります」


 エリアナは石板に書く。


『私が外したからですか』


「あなたが外したからではありません。ベルフォード家が、あなた一人の声を王都の基点にしていたからです」


 即答だった。


 その言葉に、エリアナは筆を止めた。自分が悪いのではないと頭では分かっている。けれど、通りで迷子の子どもを見た時から、胸の奥に冷たい石が置かれていた。鐘が鳴らないせいで困る人がいる。その事実だけは、理屈で消えない。


 アレクシスは彼女の前に、小さな木箱を置いた。中には、十二枚の薄い銅板が並んでいる。


「あなたが一節だけ基準音を作る。私たちはこの銅板でそれを受け、各鐘楼へ分けます。あなたの声を増幅するのではなく、基準を記録して分配する方法です」


『父は、こういう方法を知っていましたか』


「知っていたはずです。費用と人手がかかるので、使わなかったのでしょう」


 喉の奥に、痛みではない熱が走った。


 費用と人手。つまり父は、金と手間を惜しんで、エリアナの喉を使っていた。一人の娘が毎朝歌えば済むのなら、それでよいと思ったのだ。


 鐘楼へ向かう道はまだ暗かった。聖務院の伝令たちが、厚手の外套に身を包んで待機している。西礼拝堂の若い楽師たちも、水を張った杯と銅板を抱えていた。誰もエリアナに「頼むから全部鳴らしてくれ」と言わない。


 セラフィナ・ノート記録長が、灯りの下で書類を開いた。


「エリアナ・ベルフォード殿。本依頼は王都聖務院による緊急調律です。発声者名はあなたの名で記録します。異議はありますか」


 エリアナは首を横に振った。


「では、同意確認を」


 その一言で、胸の奥が震えた。儀式の前に問われるのは、いつも家名や父の許可だった。今日、記録長が問うているのは、エリアナ本人の同意だった。


 彼女は小さくうなずき、声名札を掌に乗せる。銀札は冷たく、けれど逃げ出すような震えはない。


 アレクシスが低く言う。


「喉ではなく、背中で支えて。痛みが出たらそこで終わりです」


 エリアナは息を吸った。夜明け前の空気は硬い。冷たさが胸の奥まで入り、昨日の父の怒声を少しだけ遠ざける。


 そして、一節だけ歌った。


 高くはない。華やかでもない。王都の広場に集まった人々が驚いて顔を上げるような、劇的な声ではなかった。けれど、音の芯は澄んでいた。沈黙した金属の底に、どこから鳴ればよいかを思い出させる細い光のような節だった。


 銅板が次々に震える。


 西礼拝堂の小鐘が最初に鳴った。りん、と小さく、だが確かに。続いて靴職人通りの朝鐘、薬師広場の時鐘、王都南門の旅立ち鐘が応じる。遠くの鐘楼から、伝令の合図が返ってくる。


「三番、復帰!」

「七番、濁り消えました!」

「南門、旅立ち鐘、鳴ります!」


 エリアナは声を出していない。ただ両手で杯を持ち、喉を休めている。それでも、体の奥が大きな波を受けたように震えていた。


 王都の夜明けが、少しずつ戻っていく。


 その響きの中で、セラフィナ記録長が書き留めた。


「基準詠唱者、エリアナ・ベルフォード。西礼拝堂臨時詠唱士。発声一節。過負荷なし」


 名前が記録される。


 ただそれだけのことに、目の奥が熱くなった。ベルフォード家の祈祷台では、名が残ることだけが支えだった。だがここでは、名前だけではなく、条件も、負担も、休息も記録される。


 アレクシスが湯を差し出した。


「よく戻しました。ここから二時間、あなたの仕事は黙ることです」


 エリアナは石板に短く書く。


『黙ることも仕事なら、得意になれるかもしれません』


 アレクシスの口元がわずかに緩んだ。


「では、正式に得意業務として記録しましょう」


 鐘が鳴るたび、王都の窓が開いていく。朝のパン屋が窯に火を入れ、馬車宿が門を開け、病室の家族が胸の前で手を組む。誰も、基準音を作った少女の顔を知らないかもしれない。


 それでも、今日の記録にはエリアナの名がある。


 同じ夜明け、ベルフォード侯爵家の祝鐘だけは沈黙したままだった。王都十二鐘が戻ったことで、かえってその沈黙は目立った。鐘楼の上で式係が青ざめ、父グラードは報告書を握り潰す。


「なぜ他の鐘は鳴る。なぜうちの鐘だけが鳴らん」


 記録官は淡々と答えた。


「ベルフォード家の祝鐘は、本人名義の声名札を拒んだままです。エリアナ様を妹君の名で使う依頼は、王都聖務院では受理できません」


 父は初めて、王都中に聞こえる鐘の中で、自分の家だけが鳴らない屈辱を味わった。


 エリアナはその報告を、休声時間が終わってから読んだ。


 胸が痛まないわけではない。自分が生まれた家の鐘が沈黙していると思うと、幼い頃に母と磨いた銀の鐘紐まで思い出す。けれど、それを鳴らすために自分の名を差し出す必要は、もうなかった。


 彼女は新しい便箋に一行だけ書いた。


『ベルフォード侯爵家の祝鐘調律は、正式依頼、本人名義、謝罪書、治療費の支払い後に限り検討します』


 文字は震えていなかった。

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