第3話
ベルフォード侯爵家の婚約式は、始まる前から壊れていた。
客席には王都の名家が並び、祭壇には白薔薇が飾られている。妹メリッサは震える唇に紅を差し、カインは平静を装っていた。だが、鐘は鳴らない。
祝鐘のない婚約式は、火のない蝋燭に似ている。形はあっても、祈りが通らない。
客の中には、すでに小声で噂を始めている者もいた。ベルフォード家の祝鐘は王都一美しい。その評判を聞いて参列した貴婦人たちは、沈黙した塔を見上げ、扇の陰で眉を寄せた。
「メリッサ様が歌うと聞いておりましたのに」
「いいえ、あの家の声は長女のほうでは」
囁きは、父がどれだけ睨んでも止まらなかった。これまで幕の裏へ押し込めてきたものが、鐘の沈黙となって客席の中央に置かれている。誰も見ないふりはできなかった。
「時間です、侯爵」
聖務院の記録官が懐中時計を閉じた。
父グラードは声を低くした。
「少し待て。娘が体調を崩しただけだ」
「歌い手メリッサ様のことですか」
「そうだ」
記録官は誓約紙をめくった。
「祈祷台の登録では、メリッサ様の声名札は未登録です。ベルフォード家で祝鐘を鳴らしてきた登録者は、エリアナ・ベルフォード様。現在、その札は家の祈りから外されています」
客席に低いざわめきが広がる。
メリッサの目から涙が落ちた。
「お父様、皆が見ているわ」
「黙っていなさい」
カインが父へ囁く。
「侯爵、エリアナを説得してください。このままでは私とメリッサの婚約が、形式だけの茶番だと」
言いかけて、彼は自分の言葉に気づいた。茶番。まさに、エリアナに幕裏で歌わせようとしたものだ。
記録官はさらに告げる。
「それから、王都十二鐘の調律にも乱れが出ています。ベルフォード家は基点鐘の管理責任を問われる可能性があります」
父の顔が紙のように白くなった。
◇
西礼拝堂の二階には、小さな練習室があった。
窓辺に置かれた机、背の低い本棚、水差し、喉を温めるための小さな湯器。豪華ではない。けれど、扉にはエリアナ用の鍵があり、壁には「休声中」と書かれた木札を掛けられる釘があった。
エリアナはその木札を見て、喉の奥が熱くなるのを感じた。
歌うための部屋ではなく、休むための札がある。
アレクシスは契約書を机に置いた。
「読み上げてもいいですが、喉を休めている間は筆談で確認しましょう」
エリアナはうなずき、紙へ視線を落とす。
西礼拝堂臨時詠唱士契約。期間は三十日。職務は小祈り、鐘の調律、迷子合図、病床祈り。ただし一日の発声は三節まで。発熱、出血、声枯れがある場合は発声禁止。報酬は日払い、緊急依頼は別料金。声名札は本人が保管し、礼拝堂は無断で登録しない。
最後の一文で、エリアナの手が止まった。
契約書の余白には、アレクシスの細い字で注意書きもあった。蜂蜜湯は一日二杯まで。辛い香辛料は禁止。長祈りの前後は必ず沈黙時間を置く。発声練習は本人の申告で中止できる。
あまりに具体的で、エリアナは胸が詰まった。父が知っていたのは、何時に鐘を鳴らすかだけだった。アレクシスは、鐘を鳴らした後の喉がどうなるかを書いている。
『声名札は本人が保管する』
当たり前のようで、彼女には一度も許されなかったことだった。
アレクシスが言う。
「あなたの声は、あなたの喉を通る。ですから、あなたの同意なしに使うことはできません」
エリアナは筆を持ち、ゆっくり書いた。
筆先が紙に触れるまで、少し時間がかかった。声で返せないことが悔しいのではない。声を使わずに意思を示せることに、まだ慣れていなかった。
家では、歌うことだけがエリアナの価値だと言われ続けた。だが今、彼女は文字で条件を書き、契約書に目を通し、返書を作れる。喉が休んでいても、彼女自身は消えない。
『この条件で受けます。ただ、家から呼び戻しが来ると思います』
「来るでしょう。返答はあなたが決める。礼拝堂は、あなたの決定を記録するだけです」
所有しない、という態度が言葉の端々にあった。守ってやるとも、私のものになれとも言わない。契約と鍵と湯器を用意し、声を休ませる。
それだけで、エリアナは十分に立てる気がした。
階下で小鐘が鳴った。受付の少女が手紙を持ってくる。
「ベルフォード侯爵家からです。至急と」
封蝋は父のものだった。エリアナは深呼吸し、封を切る。
『婚約式が停止している。家の恥を広げるな。すぐ戻り、メリッサの名で祝歌を歌え。声名札を戻せ。父グラード』
謝罪はない。婚約を奪ったことにも、声を妹の名で使おうとしたことにも、喉を痛めたことにも。
エリアナは手紙を机に置いた。指先が冷える。けれど、昨日のように声を失って黙るだけではなかった。
彼女は石板ではなく、礼拝堂の正式な便箋を取った。
『ベルフォード侯爵家へ。現在、私は西礼拝堂の臨時詠唱士として契約中です。婚約式の祝歌支援を希望する場合は、西礼拝堂を通した正式依頼書を提出してください。料金は通常の三倍。私の名義を消してメリッサ名義で記録する依頼は受けません。過去の祝鐘記録の訂正、喉の治療費、書面での謝罪を条件とします』
書き終えたところで、アレクシスが一枚の別紙を差し出した。
「王都聖務院からも依頼が来ています。王都十二鐘の一部が鳴らず、明朝までに調律が必要だそうです」
エリアナの胸が跳ねた。
父の問題は、家だけに留まらなくなっている。王都の朝を告げる鐘。迷子の合図。病人の祈り。誰かの婚約より、もっと多くの人の生活に関わる響き。
『私の喉で足りますか』
書くと、アレクシスは首を横に振った。
「あなた一人で背負う必要はない。基準音を一つ作れば、あとは私たちが分担する。あなたが歌うのは一節だけです」
階下では、若い楽師たちが静かに準備を始めていた。水を張った杯、調律用の小槌、鐘楼への伝令表。エリアナが初めて見る道具もあったが、どれも彼女一人に負担を押しつけるためではなく、負担を分けるためのものだった。
アレクシスは続けて、王都十二鐘のうち三つは別の楽師が担当できると説明した。二つは鐘そのものの修理が必要で、声ではなく職人の仕事だとも。全部を声で解決しろ、と言わないことが、エリアナには新鮮だった。
一節だけ。
その言葉は、父が言った「明日だけ」と違った。契約書に書かれた上限があり、休む権利があり、誰かが代わりに負担を分ける一節だった。
エリアナは便箋にもう一文足した。
文字は少し歪んだ。喉を使っていないのに、胸の奥が震えているせいだ。だが読み返すと、意味ははっきりしていた。誰の名で歌うか。どの契約で鳴らすか。どこまでが自分の仕事で、どこからが旧家の責任か。昨日まで曖昧にされていた線を、エリアナは自分の手で引いた。
『王都十二鐘の調律依頼を優先します。命令ではなく契約であれば、侯爵家の祝鐘についても見積もります』
返書を封じると、喉の痛みが少しだけ軽くなった気がした。
西礼拝堂の小さな練習室で、エリアナは自分の声名札を机の上に置いた。銀札は朝の光を受け、かすかに震えている。
もう誰かの名で歌わない。
たとえ一節だけでも、たとえ小さな鐘でも、次に響く音は彼女の同意から始まる。そう思うと、沈黙している喉の奥に、痛みとは別の熱が灯った。
王都の鐘が鳴るなら、それはエリアナ自身の名と契約で鳴る。
そして、鳴らない鐘を人質にして彼女を戻そうとする者がいるなら、その者にも契約書を差し出す。声は祈りだ。だが祈りを支える喉は、消耗する体の一部でもある。エリアナはその両方を、もう切り離さない。
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第四話から、王都十二鐘の調律と、ベルフォード侯爵家からの正式依頼が始まります。




